私が異世界物を書く理由
私は子供たちのことを大切に思えばこそ、ちゃんと自分というものを省みることができる人間でいなくちゃって自分に言い聞かせてるんだ。もっとも、わざわざ言い聞かせなきゃいけないということは
私は子供たちのことを大切に思えばこそ、ちゃんと自分というものを省みることができる人間でいなくちゃって自分に言い聞かせてるんだ。もっとも、わざわざ言い聞かせなきゃいけないということは
DQNというのもまあ蔑称か。使わないように気をつけなきゃね。だけど気を付けててもつい使っちゃうことがあるというのも人間というものだと思う。
重要なのは、それをつい使ってしまう自分を正当化しないということじゃないかな。そうだ、『反省する』ということが大事なんだ。自分を正当化しないということが大事なんだ。自分を正当化する。自分に正義があると思う。それが過剰な行為に繋がっていくということはよくある話だと思う。
正義を盾にすれば人間はいくらでも残酷なことができるっていうのも、よく知られたことだしさ。
特に私の子供達は上の二人は激しい気性の持ち主だというのは分かってるから、自分を正当化することで過剰な行為に至るっていうのは十分考えられる危険性なんだ。
それが分かってるのならあらかじめ対処しなきゃおかしいじゃん。仕事とかでも分かってる不具合をそのままにしてたら責任だって問われることもあるじゃん。それと同じことだよ。
ましてや私は自分の勝手で子供たちをこの世に送り出した。その事実に目をつぶるのは、反省ができてるとは言えないからね。
私は子供たちのことを大切に思えばこそ、ちゃんと自分というものを省みることができる人間でいなくちゃって自分に言い聞かせてるんだ。もっとも、わざわざ言い聞かせなきゃいけないということは、つまり、意識してないと、いくらでも暴走するタイプの人間だという証拠でもあるけどね。
だけど、自分のそういう本性を、どう制御するか、どう向き合うか、というのを子供に対して実地で示していく必要があると思う。
<躾>っていうのは、本来、そういうことだと思うんだ。子供を大人にとって都合よく操ることじゃなく、自分の感情に任せてついつい他人を傷付けてしまいがちになる自分の弱さとの向き合い方を、大人が自らの振る舞いの中で<具体的な手本>として子供に示していくことを言うんだと思う。
決して、殴ったり怒鳴ったりのことじゃない。『自分より弱い者を守るために<力>はある』と言うのなら、自分より間違いなく弱い<子供>を殴ったりするのはおかしいじゃん。親が自分より弱い相手を殴り付けてて、それで、『自分より弱い者を守るために<力>はある』なんて綺麗事のお題目が正しく伝わると本当に思うの? 現に伝わってない実例なんて、自分の身の回りにも無数にあるんじゃないの?
ちゃんと伝わらなきゃ何の意味もない。どうすればそれが伝わるのかしっかりと考えるのが必要なんじゃないの? それを考えることができるのが、大人ってもんじゃないの?
それ自体がまた、子供に示すべき手本になると思うんだ。
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