サヴァイヴァー
bittergrass
ブレイキング・アウト
夕暮れ。空を見ると赤く映し出された雲が流れていた。
(全く。一々、こんなことで呼び出さないでほしいよ)
本来、彼はホームルームを終えた直後に帰ることが出来たのだが、今日はそうはいかなかった。テニス部の友人に手伝いを頼まれたのである。彼に自覚はないが、運動能力が人よりも高い。そのため、今週末の試合の練習に付き合わされたのである。
(文句を言っても仕方ないか)
彼は今日しようと思っていたことを全て諦め、帰路に着いた。
校門を抜け、人通りの少ない道を進む。
(遅くなったからかな、周りに人が少ない気がする)
挙動不審に見えない程度に辺りを見回しても、人はいない。散歩をしているおじいさんも立ち話している主婦も、走り回る子供もいない。
(何か、変だ)
普段通りで、もしここで一人でも彼の目に留まればそんなことは思わなかったかもしれない。彼は通っている道がどこか不気味に感じていた。
ふいに後ろから、壁に固いものが当たったような音が聞こえてきた。それが何かまではわからない。音の方向がわからないから、色々な方向を見てしまう。しかし、どこにも不思議なものは一つもない。
(早く帰ろう……)
彼は急ぎ足で、家に向かう。間隔はバラバラだったが、物音はやまない。恐怖心は大きくなるばかりで、足は勝手に急ぐ。
(角を曲がれば家があるはず)
彼は既に走っていた。物音も真後ろで聞こえているようだが、振り返る余裕はない。道の角を曲がる。目に留まったのは、家ではなかった。
衝撃は彼の意識を奪うには十分すぎた。視界はゆがみ、狭まる。それが何なのか理解できない。彼の意識は何もないところへと墜ちていく。
頭がずきりと痛み、目を覚ます。目を開けると、また頭が痛み、両手で頭を押さえた。痛みは引かなかったが、それにも慣れ、周りに意識を向ける。そこは四方をクリーム色の壁に囲まれた部屋だった。床も天井も同じ色で、材質は木製ではなく石製のようであった。
(どこだろう。ここ)
今更、床に座っていることを認め、立ち上がる。痛みも引いて、意識がはっきりし始めると、部屋の中、壁と一体になるようにして天を指した
この剣は 神にでも 悪魔にでも なれる力を持つ
心して 扱うように
どこかで見たような文章であったが、彼はその場所を思い出すことはできなかった。
(そんなの僕には扱えないよ)
彼は一度、その剣を持とうとしたが、結局手を下げる。
それから彼は部屋の出口を探したが、そういうものは見当たらない。
剣を見つめ、怪しいのはこれだけだと考える。しかし、その力を使ってもいいものか、彼には判断が付かなかった。
神にも悪魔にもなれる力なら、この部屋から出るのはたやすいことだ。しかし、この部屋を出た後はどうするのか、その力を振るって、この部屋を壊せば、この剣を戻す場所はなくなるかもしれない。もし、この剣を戻せたとして、誰かがこの力を持つのはどうだろうか。それが悪人なら大変なことになりかねない。最後にはここにこの剣を放置した自分が責められるに違いない。彼の脳内には悪いことばかりが浮かぶ。どうやってもこの力を取る気にはなれない。それなら、きっとここで死んだ方がいいのかもしれない、とそんなことまで考える。
(そのままでいいのか)
心の中に誰かが居た。彼のネガティブな部分を否定するような誰かだ。
「だ、誰だよ」
思わず声を出したが、彼も心の中にいるのだと理解している。
(その剣、役に立つぜ)
――そうだと思うよ。でもさ……。
(いつまでそうしてるんだ。本当に死ぬぞ)
――それでも、何も起こらないよ。僕が死んでもさ。
(そうか。別にいいんだが。大切な人はいないのかよ)
――僕がそう思ってもきっと相手は思ってないよ
(確かめもせずに。馬鹿な野郎だぜ)
彼はその言葉に何かが心に走った。俯きながらも立ち上がる。
「わかった。そこまで言うなら」
剣の握りに触れると、埋め込まれている剣の引き出し方が頭に浮かんだ。刀身の形をなぞり、中心に描かれた直線をなぞる。そして、鍔の真ん中をつつく。そうすると、握りが手前に飛び出た。そして、彼はそれを握った。そうすると、剣はあっさりと壁から外れ、彼にその重さをかける。
――思ったより軽い
壁から外れても、その剣はクリーム色のままだったが、刃は鋭く、鍔も奥行きを持っている。握りの部分も手に馴染むような形に変化している。
(くっくっく。やるじゃないか)
――もう出てくるなよ。嫌いだ、お前。
(嫌だね。ずっと俺はいるぞ)
相手をしていても無駄だと考えた彼は、剣を見つめる。とにかくこの剣で壁を壊す。すごい力であるはずのこれなら何とかなる。しかし、剣は振るう以外の使い方が思いつかない。壁を斬るのは意味がないだろうと彼は思う。
彼が少しの間、考えていると地面が揺れ始める。そして、あたりを見渡すと、壁が砕けていき、この部屋より明るい光が差し込む。壁が真四角に砕け、出口が出来ると、その前に文字が現れた。
認識によって 世界を変えよ
意志の力は 剣の力
成すべきことを成せ
文字は彼が読み終わると同時に消えた。
(行けよ。そんなこと気にしてる暇ねぇだろ)
彼はその声にわかってる、と心の中で怒鳴ってその出口をくぐった。
外に出ると、辺りは明るかった。夜ではないということを認めて、周りを見る。そこはどうやら森の中であった。彼が出てきたところは外から見ると、小さな遺跡に見えなくもない。
――とにかく、歩くこう
そう決めて、歩き出す。
しばらく歩くと、彼以外が草木を揺らす音が聞こえた。彼は剣があれば負ける心配はないと思ったが、それでも万が一ということがないわけではないと考えた。彼は木の裏にしゃがみこみ、顔だけ出すようにして、音のする方を見る。しかし、草が邪魔をして、あまり見えない。それを見ようとして、無意識の内に体が木から出ていた。その瞬間、何かによって彼の体には衝撃が与えられていた。ほんの少し、飛ばされて背中から地面に落ちる。小さな衝撃にむせた。左肩が熱く、そこに手をやると、何かで濡れていた。手を見るとそこには赤黒い液体がべっとりとついている。肩を見るとそこには棒状の何かが突き刺さっていた。
(あーあ。ここで終わるのかよ)
どこかで言った失望したような言葉が聞こえた。その言葉に反抗する。
――終わらないよ。まだ、何もしてないじゃないか。
言葉ではいくらでも反抗できた。しかし、体はその言葉については来ない。彼の意識とは関係なく、体は冷たくなっていく。それでも意識だけは強く持とうとした。もはや目がかすみ、状況を認識できない。
――死んでたまるか。死んでたまるか。
彼の意識に剣が変形する。剣の刀身が肩を包むように形を変えた。
「おい、まずい。人間だった!」
「なんだと。こんなところにか」
「と、とにかく治療」
体のどこかが痛んで目を開けた。そこには一人の女性が座っていて、よこたわる彼を見つめていた。その顔はどこかで見たことがあるような気がしたが、どこだったかは思い出せない。
その女性は口を少し開けると彼を見て、あ、と呟いた。そして、立ち上がって彼から離れていった。
「こんじい。起きたよ」
その女性の声だろうか。誰かを呼んでいるようである。
次に彼の前に現れたのは、しわくちゃの顔の老年男性だった。
「遭難者よ。体調はどうかな。と言っても、起きたばかりかの」
その老年男性は彼の隣に座った。
「すまんの。まさか、人がいるとは思わなくてな。彼にも悪気はなかったんだが」
彼は声を出そうとしたが、かすれた。
「無理に話さなくとも良い。しばらくはここで休んでなさい。何かあれば彼女に言ってくれれば良いからな」
そういって、男性は先ほどの女性を手で示した。意識がはっきりしてきて、男性のことも、女性のこともくっきりと認識できた。
男性は毛皮のような服を纏っており、そこから覗く体は筋肉質で、きっと彼に一撃入れば、彼はしばらく、立ち上がれないだろう。
女性の方は、全身を革製の服で包んでいて、小柄で身が細い。しかし、優しい雰囲気を持っていた。彼にもにこりと笑いかけている。
「ああ、そうだ。名乗っていなかったな。わしは金剛。皆からは村長とか金爺とか呼ばれとる」
「あ、私は
彼は二人に首だけで動かして頭を下げた。体を起こそうと思ったが、まだ思うように体に力が入らない。
「それで、そろそろ声が出るとは思うのだが、あなたの名を教えていただけますかな」
「あ」
彼は声が出ることに少し驚いだが、そのまま自己紹介をする。
「僕は、
「そうか。では、柘榴さんはしばらくここで休むと良い。しばらくしたらまた来る」
そういうと金剛は立ち上がり、浜簪に何かを言って出て行った。
「では、私はこの家の中にいますので。何かあれば呼んでください」
そういうと、彼女は彼の横に座る。その場所は彼が目を開けたときに彼女を見つけた場所と同じ場所であった。そして、体が限界だったのか、彼は再び眠りについた。
体が揺れを感じ、意識が戻っていく。
「柘榴さん!」
目を開けると、そこには焦った表情の浜簪がいた。
「どうしたんですか」
寝ぼけた頭では気を回すことはできなかった。
「熊が来たんです! 逃げないと!」
彼は熊と言われて、すぐには理解できなかった。しかし、次第にそれが何かを理解していく。彼は実際に、それにあったことはないが、凶暴で人間など一ひねりであることは間違いない。
(くっくっく。今なら勝てんじゃねぇの)
――何言ってるんだ。生きるんだったら逃げるしかないって。
(何だ。せっかくの力だろ。もったいねぇ)
――負けるかもしれない。負けたら、死ぬ。
(またか。じゃあ、俺がやってやろうか。くっくっく)
――そんなことできないでしょ。いくら何でも……。
(できるさ。俺はお前の心の中にいるんだぞ)
――じゃあ、やってよ。僕じゃ無理だよ。
(いいのか。ま、別にいいけどよ。じゃあ、どけ)
彼は心の中で誰かにどつかれた気がした。
(ちょっと、痛いじゃないか)
――うるせぇな。やれって言ったの、お前だろ。
「んで、熊だっけ。ちょっと待ってな」
彼は浜簪の肩に手を置いた。剣を探すと、すぐそこにあった。彼が寝ていた場所の隣の地面と一体化するように寝ていた。
「よっと」
彼は剣を握る。すると剣は目覚めたように形を立体的にする。剣は形を変え、片側にした刃がないものに変化する。刀身に反りはなく、直線的である。刀身以外は初めて形を変えたときとは変化がなく、鍔も直方体で、握りも手に合う形になっているため、どことなく不格好に見える。
「ちょっと行ってくるぜ」
軽い様子で彼女に手を振るが、彼女は唖然するだけで、返事は返って来なかった。
外に出ると、既に五メートルほどのテントがいくつか壊されていて、この村に住んでいたであろう人々が何人も森の方へと逃げている。その原因である熊を探すと、すぐそこにいた。いや、それは熊と言っていいものではなさそうである。彼が想像していた熊とは違った。確かに、毛むくじゃらで、その威圧感や鳴き声は熊そのものだった。しかし、周りにあるテントよりも大きな体、ちらりと見える爪は明らかに鋭い。獲物を狩るためのものとしか思えない。
「何やっとる! 逃げるんじゃ!」
声はその化け物の前に立っていた人から聞こえた。その人物は金剛だった。既に毛皮はボロボロで体から赤いものが流れている。彼を見てはいなかったが、彼に言った言葉だった。
「爺さん、俺に任せな」
剣を片手でてきとうに剣先を怪物に向け、見つめる。
「お、お主、誰じゃ」
「俺は柘榴だって。知ってるだろ?」
彼は歩いて、怪物に向かっていく。それの注意は確実に柘榴に向いている。金剛もその姿に声が出せない。
「なぁ、もういいだろ」
型もないもないが、その刀を振るう。怪物にその刃先が届く距離ではないはずなのに、怪物の腹から血が噴き出る。一振り、もう一振り。刀を振るうたびに怪物に傷が増えていく。怪物も黙ってやられているわけではなかった。怪物はその大きな腕を振り下ろした。
「ざ、柘榴!」
しかし、その腕の下には彼はいなかった。
「大丈夫だって、爺さん」
彼は金剛の隣でへらへらと笑っていた。しかし、金剛は気づいてしまった。彼の手が、足が震えていることに。
それでも、彼は再び怪物へと向かっていく。今度は走って向かう。不意打ちはもう通用しないと踏んだのだ。走りながら、何度も刀を振るう。今度は一撃ごとに傷を増やすことはできなかったが、確実にダメージを与えていた。怪物の鳴き声がひどく大きくなる。
やがて、怪物は勝てないと悟ったのか、村から逃げ出した。
「ははっ、ざまぁみろよ」
その言葉と同時に彼は地面に伏した。
「柘榴っ!」
金剛が彼に近寄る。体に触れ、状態を確認した。心臓も動いている、呼吸もしている。睡眠しているのと同じ状態のようである。しかし、左肩から大量に出血していた。
(し、死ぬかと思った)
――んなことなかったろ。生きてるっつうの。
(いや、あのまま戦ってたら死んでたよ。怪物が逃げ出したから生きてるだけだよ)
――うるせぇよ。生きてんだからいいだろうが。
(そうはいっても……)
――体、返すわ。少し疲れた。
(そんな勝手に――)
――返すなんて。
(……)
――勝手だよ。それはさ。
彼が目を開けると、金剛と浜簪が心配そうな顔をして彼の顔を見ているのが映った。そして、表情が少し和らいだ。
「柘榴様。大丈夫ですか」
その言葉には返事が出来ず、体を起こした。左肩が痛んだが、その肩から血は出ていない。どれくらいの間、気絶していたのかわからないが、その肩の血が止まるほどには時間が立っているようだ。
「起きて、大丈夫なのか?」
金剛も心配そうに彼を見ている。彼は掌を金剛に向け、大丈夫と合図で返した。辺りを見回すと、この場所が初めて村に運ばれた時と同じ場所であることがわかった。そして、この場所に金剛と浜簪以外にも多くの人が彼を囲んで心配そうにしている。剣は壁に埋まっていた時のように地面と一体化していた。
「な、なんで、ここに」
「柘榴様がこの村を救ってくださったのでしょう。皆さん、あなた様に感謝しているのです」
彼は村の人に拝まれるかのような視線にたじろいだ。全ての家は救えなかったのだ。それに戦ったのは自分ではないことに後ろめたさも感じていた。
(なら、次はお前がやれ)
――本当にむかつくやつだ。
(人間関係をどうにかするのはお前に任せる。面倒だからな)
――都合のいい奴。
「柘榴様?」
「あ、ああ、うん。何かな?」
頬は引きつっていたが、彼女は笑っているように見えていた。
「あ、いえ。その、体は大丈夫ですか」
「うん。ちょっと肩が痛むだけです」
「これ、食べませんか」
彼女が持ってきたものは、リンゴであった。それの皮をむいて、切り分けられているようである。一つ摘まんで、口の中に入れると甘く、瑞々しかった。リンゴというよりブドウのような味だった。
「おいしいですね」
彼はうまく笑えているか分からなかったが、彼女に笑いかけた。彼女は顔を赤くしてうつむいてしまう。彼は自分が何か失敗したかと思ったが、それが何かわからなかったし、わかってもそれを取り戻すことはできないと思って何もしなかった。彼女の後ろにいた金剛が彼女の横に正座で座り込み言った。
「柘榴殿。この度はこの村を救ってくださってありがとうございました。お礼というお礼はできませぬが、しばらくこの村で自由にしてください。村人たちは柘榴殿に感謝しております。きっと、誰もがもてなしをするでしょう」
「あ、はい。ありがとうございます。では、一つだけ」
「なんじゃろうか」
「この村の近くに石の建物があると思うのですが、あれのようなものは他にありますか」
金剛は驚いたような表情で、次には俯いて何かを考えているようであった。
「……柘榴殿はこの世界の人ではないのですかな」
その問いに、戸惑いながらもうなずいた。
「そうでございましたか。では、わしらが知っていることはこれだけじゃな。この森を西に進むとビブリオテイクという街があるんじゃが、その街に言ってブックリストという店に行きなさい。そこにお主の求めるものがあるはずじゃ」
ビブリオテイク、ブックリスト。彼は心の中で言葉をつぶやく。
「まぁ、それはそうと、すぐに出る必要はあるまいて。今日はお主のための宴会を用意するんじゃ。楽しんでいってほしい」
確かに急がなくてもよかった。彼はすぐにこの村を出る必要がないと考えた。
その夜、彼を讃える歌が歌われ、色々な料理が振舞われた。彼はそれを楽しんだ。いつの間にか寝てしまい、夜は明けてゆく。
「柘榴様。やっぱりもう行ってしまうのですか」
名残惜しそうに彼を見つめる。彼は彼女が自分のことが好きだということに気づいていた。それはきっと彼女を、彼女の村を助けたからである、ということも理解していた。村を助けたのは自分ではない。そう思って、最後まで心の奥がずきずきと痛んでいた。
「はい。僕はもう行かないと。戻りたいんです」
彼女は少し俯いたが、それでも彼を笑顔で送り出したくて、笑顔になる。
「そうですよね。また、会えるといいのですけど」
「はい。それじゃ、僕は行きますね」
彼は村人に見送られて、森の中に入っていく。ビブリオテイクまでは何度も人が行き来しているらしく、その道には草があまり生えていなかったので、あとはそれを辿るだけだった。
(いいのか。お前、確実に好かれてたぜ)
――君の手柄でね。
(別にいいだろ。お前の体でやったことだ)
――わかってるんでしょ。僕の心にいるんだからさ。
(あー、はいはい。面倒くさい奴だな)
――僕にとっては君がそうだよ
(内弁慶か)
――うるさいよ。
――というか、僕の体でよく剣で戦えたね。
(ああ? お前の運動能力、高いだろ)
――そうかな。そうだとしても、剣術なんてやったことないのに。
(ああ、そういうことか。それは剣自体の力だな)
――これ自体。
彼は手に持った剣をじっと見つめる。
(最初に言ってたろ。意志の力は剣の力だってな)
――つまり、君の戦いたいという意志がそうさせたってこと。
(ま、そんな感じなんじゃねぇの。詳しいことは知らねぇ)
――そっか。
(そんなことより、ビブリオテイクのブックリストだったな)
――うん。ビブリオテイクまではあまり遠くはないみたいだけど。
(まぁ、歩くのは俺じゃないしな。がんばれよ)
――はいはい。
彼は心の中の会話はそこで終わった。
しばらく歩くと森を抜けることが出来た。そして、その先町があった。
(ここかよ。ビブリオテイクってのは)
――多分ね。
その町はやけに図書館のような香りがした。本とインク、木製の棚が並んでいるような雰囲気の匂いだった。
「この街はビブリオテイクですよ。ここに用なら私にどうぞ」
急に声をかけられて、その方向に振り返る。
そこにいたのは、開かれた本だった。それは空中に浮いていた。それには日本語のような文字が並べられているが、意味は理解できない。
「用事はないのですか? 旅人なのでしょう」
果たして、これに頼ってもいいものか。
「本当に用事はないのですか? もういいのですか」
本は依然として彼らの前にいた。このセリフも二度目で、一向に立ち去ろうとはしない。それが彼にはやけに怪しいと感じた。しかし、ブックリストを自分だけ見つけるのは難しいかもしれない。諦めて彼はその本に訊いた。
「じゃあ、ブックリストってお店はどこですか」
本はしばらく自分自身のページを捲っていた。それが本の考えているという仕草なのかもしれない。そうだとするならわかりやすいと彼は思った。
「ブックリストというお店がありましたので、お連れします。ついてきてくださいね」
本はふよふよ浮いたままで道を進む。
この街の道は石畳であり、ほとんどの建物が茶色のレンガで作られているようだった。街には人間はおらず、すれ違うのは全て本であった。彼は本の暮らす街なのかと想像したがそういうわけではないだろうと、その想像を消した。
「ここですね。ブックリストに到着です。では」
ここまで案内してくれた本はどこかへ行ってしまった。
目の前には他と同じように茶色のレンガでできた建物があった。看板にはブックリストと書かれている。
――今更だけど、なんで日本語なんだろう。日本っぽくはないのに。
(そんなこと今はどうでもいいだろ。早く入れよ)
心のやつにせかされるまま、目の前の店に入った。
「いらっしゃい」
そこにいたのは三十ほどに見える男性だった。バーのマスターと言われればしっくりくる恰好で、声も渋い。
「あの、遺跡についてききたいのですが」
「ほう、遺跡。遺跡と言えば、異世界人と決まっているのだが。そうなのかい」
彼は頷きで返事する。
「ということは、最初にあったのは金爺のところか。運が良かったね」
彼には運が良いの意味はよく分からなかったが、どうやら金剛の言うことは間違っていなかったらしい。
「君がもし、元の世界に帰りたいなら、このまま西に向かうと良い。君が来た森がこの街の東。つまり、森とは反対側だね。しかし、西に行けば行くほど、治安は悪くなる。気をつけなさい」
彼は何も聞かずとも答えが返ってくることが不思議でならなかった。
「ああ、情報が本当かって疑っているのか。もちろん本当さ。スマートフォンにゲーム機、毎年流行るインフルエンザ。これで信じられるかな」
マスターが並べた情報は信じきるには明らかに情報不足ではあったが、この世界にスマートフォンはなさそうであった。つまり、彼もこの世界に来てしまったのかもしれないと推測する。
「ああ、それと、向こうに帰る遺跡は灰色の遺跡だよ。クリーム色のはこっちに来るための遺跡だから、気を付けて」
彼はここまで情報をもらえることがやはり不思議だった。
「あの、なんで。ここまでしてくれるんですか」
「ん? 君は帰るべき人だと思ったからかな。私とは違うみたいだし」
彼はその理由を聞こうとした。
(おい。いつまでしゃべってんだよ。もう用はねぇだろ)
――う、うん。わかった。
「ありがとうございました。さようなら」
マスターは彼を笑顔で見送った。
店の扉が完全にしまった後にマスターは呟く。
「まさか、本当に来てしまうとは。サーカスの保護はまだか」
ビブリオテイクをでて、そのまま森のある方とは反対に移動する。マスターの言う通りなら西は、こっちの方角であるはずであった。
(お前もてきとうなときがあるよな)
――別にいいだろ。あってるだろうし。
(はいはい。そうだな)
進む方向は平原だった。空を見ると、まだまだ青い。しかし、彼は自分が進む方向の空も視界に入ってしまった。その先にはどこか澱んだ空気があった。
(いい加減、ビビるのやめろよ)
――僕だって、そうなりたいわけじゃないんだよ。
(次に戦うのも俺に任せるか)
――そうなるかもしれない。
(元の世界に戻ってもそうするつもりかよ)
――元の世界。君は本当に誰なんだ。
このまま元の世界に戻ったとして、この心の中に勝手に住み着いているこれはこのままいるのだろうか。そもそも、この世界に来てから、ここにいるようになったのだ。この世界から抜け出せたとして、こいつは向こうの世界までついてくることが出来るのだろうか。もし、ついてこられないのなら、元の世界で勇気がいる場面でもこいつに交代なんてことはできないだろう。このまま、自分は弱いままかもしれない。
彼は頭でそういったことを考えた。しかし、全ての思考は住み着いた奴にも聞こえている。
(俺の心配するなら強くなれ)
その声は今までのようなてきとうな声ではなかった。だからか、彼はその言葉に返事が出来なかった。
しばらく歩くと、治安が良くないと言った境界線がわかった。空気というか、雰囲気が悪いのである。しかし、ここで怖気づくことはできない。
(行け――)
――行くよ。
彼は剣をぎゅっと握って、心に棲むやつの言葉を遮ってそう呟いた。それは彼にとっては強がりだった。だが、心の中のやつは特に茶化すことはなかった。
肌がひりひりした。常に誰かが自分を狙っているような感覚が彼にあった。ここは東の森のような平和な場所ではないらしい。
ぐるぎゅああぁぁ
何かの音が聞こえて、その方に目を向ける。その目の先には馬みたいな顔にくちばしがくっついていて、その胴は蛇のような生物だった。あの村に出た熊がかわいいと思えるような見た目に、彼の足はすくむ。
――か、かわってよ。無理だよ、やっぱり
(……)
心の中の彼は返事をしない。彼には無視しているだけだとわかっている。心の中なのだから、そこに居るのかどうかは簡単にわかる。
――ねぇ、変わってよ!
(やってみろよ。本当に俺がこのままいると思ってるのか)
彼は返事ができなかった。
(気張れ。熊より大きくはねぇよ)
彼は改めて目の前の怪物を見る。確かに熊より大きくは見えない。地を這っており曲がっている部分もあって、地面からは三メートルほどにしか見えない。全長はもっと大きいのかもしれないが、正面から見る彼にはそれくらいにしか見えない。
――意識の力は剣の力
(そうだぜ)
たったそれだけの心の中の言葉に背中を押された気がした。
彼は考える。剣では相手に届かないかもしれない。もっと長い武器の方がいいだろう。意識が力になるならば。この剣が刀になったあれが証拠だ。彼は意識を変える。この剣はどこまでも届く相手にぶつかっても止まることも折れることもない。いや、剣でなくてもいい。
剣は姿を変える。握りも鍔も刀身も全て一度粘土のようにぐにゃりと歪む。鍔も握りも一緒になって、棒状になる。その先に鋭い刃が作られた。その見た目は単調な槍だ。色は変わらずクリーム色。
(案外、お前の方が向いてるかもな)
――認めたくないけど、君のおかげだ。
(はっ! 気持ちわりぃな)
心のやつは笑っている。楽しそうな笑い声に彼は勇気づけられる。
「やってやる!」
彼は槍を突き出して、相手を狙う。槍のリーチに怪物はいない。しかし、怪物の蛇の部分から赤黒い液体が飛び出す。怪物は大きな音で鳴く。確実に先手を打つことができたのだ。彼は突き出した槍を引き、再び突き出す。何度も何度も繰り返す。苦しいが、それでもやめない。あの怪物が呻き声すら出せなくなるまで辞めるつもりはなかった。やがて、怪物はひときわ大きく鳴くと地面に伏した。それの周りは血だらけで、それが生きているとは思えなかった。
(くっくっく。やるじゃねぇか)
――必死だっただけだよ。でも、生きててよかった。
(ほんとにな)
――いきなりだよ。ほんと、僕が負けてたらどうするのさ。
(最初に言ったろ。別にお前が死のうが生きようがどうでもいいのさ)
――まぁ、いいけどさ。
彼は倒した怪物には近づかないように遠回りしながら進む。西の方にも森はあった。しかし、東側の森とは違う。葉っぱはどこか茶色がかっていて、木以外も植物は元気がないようにも見える。
森の中に入ると、平原にいる時よりも彼に向く視線の数が多くなったように感じた。しかし、彼には妙な確信があった。この森の中に目的の遺跡がある。
「なぁ、あんた。東から来たんだろ。何か置いてけよ」
木の影にいた一人が声をかけてきた。彼はその人から嫌な雰囲気を感じ取って、両刃の剣を構える。心の中の彼とは違い、両手で握りを持ち、しっかり持って刃先を相手に向ける。
「なぁ、そんなもん向けるもんじゃないぜ。なぁ、なぁ」
彼は違和感を覚えた。目の前の人はフードによって顔を隠している。そのせいでどのような表情なのかはわからなかったのだ。しかし、自分で話しているというような意志を感じることが出来ない。
(あーあ。こりゃ、面倒なことになったな)
――こいつ、おかしいよ。
(操ってるやつでもいるんじゃねぇの)
――そうかもしれない。気絶させるよ。
(はっ、甘いねぇ。別に構わないが)
彼は剣を
しかし、彼の目的は催眠している黒幕を探し出して、目の前にいる人物の催眠を解くことではない。今、最も優先すべきことは帰ることだ。
「ごめんなさい」
彼はその人に一言だけかけて、その場を去った。そして、それが悪かったのかもしれない。彼はこれと同じ状況に何度も遭った。
(あーあ。無視して進めばよかったのに)
――この森に入った時点でダメだったと思うけど。
(あー、そうかもな。んで、どうすんだ)
――遺跡を探すだけだよ。帰らないといけないんだからさ。
彼は心の中にいるやつの答えを聞かずに歩き出す。
(まぁ、いいけどな)
しばらく歩いていると、灰色の壁の遺跡を見つけることが出来た。ここまででもクリーム色の遺跡がいくつかあった。彼はもし、こっちの遺跡で目覚めていたら死んでいたかもしれないと思った。マスターの運が良いと言っていた意味を彼は理解できた。
しばらく進むと灰色の遺跡を見つけた。そこにどんどん近づいていく。遠くから見ると、そこに数人、集まっているようだった。何か悪いことをしているような集団である。そこにいるどの人間も、黒い服で統一しており、暗殺者と言われたらそれにしか見えないような恰好をしている。そのうちの一人が彼の気配に気づいた。しかし、彼は気づかれるほど近づいていないと思って眺めているだけであった。
(おい、あいつら気づいているぞ。お前のこと)
――え、そんなはず。
(来るぞ。構えろよ)
構えろと言われても、すぐには何もできない。とにかく、剣のまま相手に剣先を向けた。
相手はすぐに彼の位置まで来た。相手が素早かったのか、思ったより距離が短かったのか。しかし、今はそれを気にしている場合ではなかった。
(剣じゃ相手しづらいだろ。何か、一撃で落とせる武器にしろ)
そういわれても、こんな状況じゃ、すぐには何も思いつかない。
――じゃあ、斧にするよ!
意識が剣の力になる。剣がぐにゃりと蠢き、相手はそれを見て、距離を取る。剣は人一人分の長さの棒の先に大きな弧を描く刃にその反対に人の胴を貫きそうなほどの棘がつけられている。斧は斧でも、戦斧と呼ばれる類のものであった。それを振るうと、彼の周りの草が刈られ、木にも大きな傷がつく。しかし、それをいくら振るおうとも手ごたえはなかった。
「なんだ、素人かよ」
相手の誰かがそういった。確かに彼は未熟者であった。しっかりとした戦闘の回数はたったの二回。それも頭の悪い怪物の相手だけである。人に攻撃を仕掛けたのは、この森に入ってから初めてのことであり、さらに今までの攻撃も全て不意打ちで受けたものであった。正面から正々堂々と戦ったことなど無かったのである。
(おいおい。それなら勝てると思ったんじゃねぇのかよ)
――そうだけど、思ったより当たらないの!
「もらったぜ」
大きな武器を振り回して戦っていたせいで、その隙は大きかった。それでも、相手が警戒してくれているうちはよかった。しかし、彼が戦闘に慣れてないとわかれば、警戒する必要はなくなる。必然、相手はその振りと振りの間の隙を狙う。
(おい! 飛べ!)
――っ!
心の声に、思わず相手を見つけた方とは反対に勢いよく飛んだ。どうやら、間一髪で相手の突き出した刃物をかわすことが出来たらしい。彼は体に異常がないことを確かめてそう思った。そして、斧では対抗できないと悟った。どうしたらいいのか、また考えるしかなかった。
(迷ってる暇なんてないぜ。さっさと決めろよ)
――そうは言ってもさ。
剣は両刃の剣に戻る。彼は先ほどよりも振りやすくなった武器で、次々来る攻撃をいなす。戦っているうちに相手の速さに慣れてくる。始めは相手がナイフをつかっているのかどうかも確認できなかった。しかし、今は相手が確実にナイフを使っているのが見えていた。そのナイフがどのあたりに来るのかまで予想できるようになっている。また、相手の数は五人であることもわかった。それも五人とも手練れというわけではなさそうである。一人一人を確実に相手すれば、生き抜くことはできる。彼はそう確信した。
(おい、そうは言っても防戦だぞ)
――わかってるよ。
意識を剣の力に。剣の刀身だけが、粘土をこねるように蠢く。その刀身の形は剣の形のままであったが、その剣には節がある。彼がその剣を一つ振ると、鍵が開くような音がして、剣がバラバラになった。しかし、その剣は一繋がりで蛇のように宙を舞う。
――これだよね。万能の武器って。
(やるじゃねぇか!)
相手の五人のうち、一人が彼に攻撃を仕掛けた。彼はその攻撃を節と節の間で受け止める。相手は離れようと、飛びのく。彼はそれを阻止するように剣をしならせ、相手の腕を絡めとる。相手はその剣の節を狙ってナイフを振った。しかし、ナイフは通らず弾かれる。彼には相手の表情が見えなかったが、驚いているだろうと思った。そのまま、相手を引っ張り相手のバランスを崩す。彼はその大きな隙を逃すほどの素人ではない。すかさず、相手の頭に柄頭を振り下ろす。相手は地面に叩きつけられるように倒れ、動かなくなった。
彼には周りにいる残り四人の空気感が変わったように感じられた。彼の持つ剣は相手にとっては未知のものであり、かつ、それを使いこなす彼を相手にもう油断はできない。そういうような張り詰めた空気があたりに広がっていた。
(行けるか)
――やるしかないよ。生きて、確かめないと。
相手は残り四人であったが、その連携は五人の時よりも
(全然万能じゃねぇよ、それ)
――でも、一人倒せたでしょ。
(で? 次はどうするんだよ)
――守りと攻撃を一緒にするんだ。
意識を剣に伝える。相手の連撃をいなしながらも、剣は形を変えていく。しかし、いままでのようにゆっくり変化する時間はなかった。その変化の時間でさえも惜しいのだ。その意識は剣にも伝わる。剣は一瞬で形を変えた。それには、もはや刃はついていない。短い丸棒を長い丸棒にくっつけただけの簡素に見えるつくりのそれを左手と右手に持つ。握る場所は短い棒の方である。長い棒は腕と並行に、腕とくっつけて構える。その武器はトンファーと呼ばれるものであった。相手はそれを見ても、攻撃の手を緩めずに攻撃を続ける。全ての攻撃を受け止めつつカウンターの隙を狙う。先ほどの剣よりも素早く攻撃を加えられる今はその隙を見つけるのもあまり難しくはなかった。さらに、彼は素早くなった相手の攻撃にも目が慣れ始めているに気が付いていた。打ち込めるだろう隙でも、確信がないうちは攻撃しない。しかし、徐々に攻撃のタイミングが掴めてきている。頭では既にそのトンファーを相手の頭に直撃させるイメージもできている。
――次っ!
左手のトンファーで相手の攻撃を受け止める。相手は先ほど倒した奴と同じく、体を引いているのが見える。しかし、相手に手練れがいても同じ戦法を取っているので、彼もそろそろ慣れてきている。相手が下がるタイミング、次に相手が仕掛けてくるタイミングがわかっていた。彼は大きく一歩、引いていく相手の方に踏み込む。相手はナイフを構えようとしているのが見える。しかし、それは彼にとって予想の範囲内でしかなかった。右手のトンファーの長い棒を既に相手の方に向けていた。それを相手の胴を狙って突き出す。それを相手は更に、体を後ろに引いて避ける。しかし、次の瞬間、相手は膝をついて地面に伏した。彼は特別なことをしたわけではない。突き出した棒をそのまま上に顎を砕く勢いで振り上げたのである。
しかし、相手をまた一人倒しただけで、次の相手が彼に襲い掛かってくる。相手の攻撃を左のトンファーで受けている間に、右のトンファーを持ち直し、棒の先を自分の方へと戻す。そして、持ち直した右手の棒で、相手の頭を目掛けて振るう。相手は油断していたのか、その攻撃を空いている手で守ろうとしたものの、防ぎきれずに頭に衝撃を受け、膝をついて頭を押さえる。それを見た他の相手が彼に木の上から飛び掛かる。彼はそれを飛んで避ける。飛んだ先は膝をついている相手の目の前で、隙だらけの相手の頭にトンファーを振り下ろした。これで三人目である。残りは二人。
(おい、そろそろ限界だろ。変われよ)
――変わっても意味ないよ。
(意識が疲れてくると、体はそれに引っ張られる。俺に変われば、いくらかましだぞ)
――……わかった。
しぶしぶと言った感じではあったが、彼は心の中に棲む彼に体を渡した。
「行くぜ」
彼の手に収まる武器はトンファーから形を変える。彼の握り拳を覆い、外側に小さな棘をいくつも生やした。棘付きのボクシンググローブというと一番わかりやすい形だろう。相手は残り二人だが、先ほどとは様子が違う。二人は彼の目の前に姿を現している。一人が指先を彼に向けて、すっと動かし、それが合図で、二人は彼に襲い掛かる。二人は彼を中心として、正反対にいるように移動し続ける。彼は自分のグローブのはまり具合を確かめるように、手を少し開いて戻した。そのグローブに納得したのか、一つ頷くと目の前にいた相手に突っ込んだ。相手もその動きに驚いて、距離を取るように後ろに引く。しかし、その動作は彼の前で何度もしてしまっている。何度もしているということは、慣れてしまっているということである。心は違えども、見ていたものは同じであるために、その情報は共有される。彼は相手の体に密接するように体をさらに前に出す。拳のリーチの中に既に相手はいる。相手も、ナイフで彼を切り付けようと構える。拳とナイフはナイフの方が振りが早かった。しかし、ナイフの餌食にはならない。彼はナイフのリーチよりも内側にいた。相手の
相手が倒れたことを確認して後ろを振り返る。相手はすぐそこにいた。それも既に相手の攻撃範囲で、ナイフは既に振るわれている。かろうじて、グローブでガードする。幸い、そのグローブは石のような材質でできていたため、ナイフを防ぎ、拳を相手に突き出す。しかし、それは当たることなく空を打つ。
相手は最後の一人。今ではどの相手が手練れだったのかわからない。最後の相手が一番の手練れなのかもしれないし、一番の新人なのかもしれない。しかし、もうそんなことに頭を回す余裕はない。グローブは形を変えて、相手と同じほどの長さの刀身を持ったナイフとなる。しかし、相手と違うのは刀身の片側が、何かを挟み込めそうな溝がいくつもあることだった。剣を折るために作られたその武器はソードブレイカーという名前の武器であった。
相手が一歩踏み込み、勢いをつけて彼に迫る。彼も相手に向かって走り出す。相手がナイフを一度振る。それは彼に当たるような距離ではなかったが、彼はその行動でナイフの方を見てしまった。左肩に激痛が走る。幸い、剣を持つ手とは反対の肩で、その剣を離すことはなかった。左肩を見ると、針のようなものが刺さっていた。なぜ、今まで使わなかったのか。
(使えなかったんだ。仲間に当たる可能性が少しでもあったから)
――もう一対一だからってことかよ。
激痛が走った肩が痺れているような症状が出始めた。やがて、左手にも痺れが感じられた。相手の攻撃は彼の左肩にある完治していない傷のあるあたりに刺さっていた。激痛はそれのせいである。しかし、彼はそれでも手に持った武器を振るうため、相手に近づく。勢いは攻撃を受ける前と変わらない。手に持つそれを振るい、相手の手を、足を、胴を狙う。相手はその勢いに飲まれているのか、それとも痺れが全身に回るのを待っているのか、躱すばかりで攻撃はしなかった。何度躱されても、刃を振るう。やがて、相手は躱すのに夢中になっていたせいで、背中が木にぶつかった。相手は一瞬だけ後ろを確認してしまった。彼はナイフを持ったその手で、相手の顔のど真ん中を拳で殴った。相手は鼻血を垂らして、ぐったりと木に寄り掛かった。これで五人全員を倒したことになる。
――ほら、変わってくれ。
(うん。わかった)
帰るための遺跡はすぐ目の前だった。
遺跡は誰でも歓迎するかのように扉はなく、簡単に入ることが出来た。遺跡に入ると体の痺れが収まっていった。
「よくここまできたねぇ!」
部屋には既に誰かいた。白い顔に赤い大きな鼻。うるさいくらいに明るい服。先のとがった靴を履いて、小さなボールの上で器用に奇妙な踊りを見せる。手にはボウリングのピンを四つほど持っていて、それをジャグリングしていた。その見た目は明らかにピエロであった。
「ここからなら、元の世界に戻れるよ?」
なんとも胡散臭い話し方で、まさしくピエロというのがぴったりである。彼の目的は帰ること。ピエロの後ろには真っ黒で硬質な何かが輪を作っているものがあった。それが何でできているのか、彼には理解はできなかったが、それが元の世界へのゲートであると予想した。
(早く行こうぜ。あれの相手してる暇なんてないぜ)
――そうだね。行くよ。
ピエロの横を通り過ぎで、ゲートに近づこうとしたその瞬間。
(盾だっ!)
心の中でどちらが先にそういったのか、思ったのかはわからない。しかし、それは間に合ったらしい。剣は彼を覆うようにその刀身を球状に伸ばし、その衝撃から守った。
「おやおやぁ? あたりだねぇ」
その胡散臭いセリフが、彼の背筋をぞくりと撫でる。剣は一度吹き飛んだが、彼の持つ剣の握りに集まって、両刃の刀身を作った。
「どうしたのかな。サーカス以外でピエロを見るのは初めてなのかな」
挑発するようにピエロはその白い歯を見せる。気づけばジャグリングしていたはずのピンも足の下にあったボールもそこにはなかった。
「んー、どうしたら楽しく笑ってくれる?」
きっと、ここがサーカスのテントの中やそれの近くで、ピエロがいることが普通であったなら彼は恐怖心を抱かずに、ピエロを見て笑ったろう。しかし、彼にはどう見てもそれはここにいることがおかしいとしか思えなかった。
「帰りたいの? 帰りたいの? 帰ったら笑ってくれるの?」
ピエロの口から出る言葉にまともに取り合ったら駄目だと心にいる二つの心が言っている。
「返事がないなぁ~。それとも芸が見たいのかな!」
目を離してはいないはずなのに、気づかぬうちにピエロの手の中には先ほど持っていたボウリングのピンを持っていた。ピエロはまたジャグリングを開始する。
「どう? どう? 面白い?」
――た、戦わないと。
(おい。待て。勝てるのかよ、あんなのに)
――でも、このゲートをくぐろうとすればまた……。
(ちっ。そうかもな)
「無視なのかい? そっかぁ、芸は面白くない?」
ピエロは道化らしく一人でしゃべり、芸をしている。
「じゃあ、お客さんも参加してもらったら楽しいかな!」
その言葉の終わりと共に、ピンが彼に降り注ぐ。彼は再び、剣に自分を守らせた。またも、剣はボロボロに吹き飛ばされる。そして、彼の持つ剣の残骸に集まり、剣になる。
(もう――)
――戦うしかない。
彼の心を支配しているのが今はどちらなのか、彼にはそれがわからない。心の中で会話が出来て、それが自分の意志で行ったものだったのか、それとも、心の中に棲んでいる奴の言いなりだったのか。それでも今、心の向きは一方向であった。共通の、強大な敵を倒す。それだけだった。
刀身は分厚い盾を形作り、その盾には無数の棘が生える。何度も彼らに衝撃が加えられる。ピエロの投げるピンが爆発して、今にも盾は壊れそうだった。
「おっと、このピンが嫌いなのかな。じゃあ、今度はこれだ!」
ピエロはピンをどこかに投げ、掌を上に向ける。そこにはカラーボールが乗せられ、ピンはどこかへと消えた。
「ほらほら。ポン、ポン、ポーンっと!」
十個ほどの玉をお手玉する。その中のいくつかを彼の方へと向かって投げる。盾で防ぐが、衝撃はなかった。カラーボールが地面に落ちていくのがわかる。それが地面に着いた瞬間、それは衝撃を放った。その衝撃に吹き飛ばされて、彼は遺跡の壁に叩きつけられた。しばらく息が出来ずに焦る。落ち着いてから気づいた。周りに熱さはない。ただ衝撃を放つだけのボールだった。彼は体が焼けないだけましなのかもしれないと考えた。
彼は吹き飛ばされたが、そのボールの原理は理解できた。地面に落とさなければいい。そして、それをピエロに返すことが出来れば、相手にダメージを与えることもできるかもしれない。
彼は意識を剣に伝える。刀身は細く、鋭くなる。自然にしていてもしなるほどに細い、それはレイピアと呼ばれる武器である。
彼はピエロが投げるボールをその刀身で刺し、まるで串団子のような状態にする。そのまま剣を振るい、剣先から玉をピエロ目掛けて飛ばす。ピエロはそれを器用にお手玉の中に戻した。
「んー、僕の大切な仕事道具に傷つけちゃって!」
カラーボールもどこかへ投げて、次にピエロが持ったのは鞭であった。
「動物さんとふれあいっこ~!」
軽い調子とは裏腹にそこにいたのは、ライオンとトラである。どちらも尖った歯をむき出しにして、彼に敵意を見せている。
「ほら! 遊んであげて!」
その声と同時にライオンとトラが彼に向かって突進する。彼はトラの体重の乗った突撃に対し、その細い剣を構える。彼はその剣では相手の体重を受け止めきれないと判断し、刀身の一部をバネのような構造に変化させる。その剣でトラの眉間を貫くように突き刺し、トラは倒れた。しかし、ライオンはそうはいかなかった。トラの相手をしている間に彼の背後からライオンが迫っていることに気が付かなかったのだ。凶暴な歯を立てられる前に、剣を太くしたが、レイピアの刀身を太くしてもただの棒にしかならない。それでも、噛みつかれる前にその口を押えることが出来ていた。猛獣の口からはべたべたとした唾液が垂れている。目の前でうなるそれに恐怖する。いくら剣でライオンを弾き飛ばそうとしても、腕が前に進まない。
彼は目の前のライオンが貫かれる様を想像した。すると、剣の一部分、ちょうどライオンの口を押えているその場所から、枝分かれするように、新たな剣を出現させた。それは次第に伸びていき、ライオンの口腔の中に侵入していく。やがて、ライオンの背中からその剣が突き抜けた。ライオンの体から力が抜けて、どさりと倒れる。二頭の猛獣は、いつの間にか消えていた。
「はぁ……はぁ……」
猛獣の相手をしたため、彼の息が上がっていた。
「たくさん動物さんと遊べたみたいだね!」
そこまで言って、ピエロは一呼吸置いた。
「そろそろ終わりの時間みたいだ! 最後の芸はこれにしよう!」
唐突な大声に彼は肩をぴくっと動かした。瞬きはしていなかったはずなのに、彼のいる場所は地面から十メートルほど上の人一人分の足場の上にいた。景色は既に遺跡の中ではない。それこそ、サーカスをやるようなテントの中に見える。
「最後は綱渡り~! 君はこっちに、僕はそっちに!」
ピエロは彼の正面、しかし、離れた場所に彼と同じサイズの足場の上にいた。そして、その足場はロープで繋がれている。
「それじゃ、スタート!」
ピエロは迷いなく、歩みを進める。ロープは揺れているが、ピエロに恐れのようなものは見られない。彼の足は前に出ない。しかし、彼にはこのロープの上を歩いていくしかないという強迫観念があった。迷っている間にも、ピエロは近づいてくる。彼には行くという手段しかなかった。綱を渡るときに使っているような棒は手にある剣で代用する。
しかし、ロープに両足を乗せるとわかってしまった。大きく揺れるもののしっかりバランスを取れば落ちることはなさそうだった。
「ほらほら。揺れる、揺れる!」
ピエロはわざとロープを揺らして彼のバランスを崩そうとする。ピエロは揺れに合わせて、体を動かしてバランスを取っている。
「くっ」
彼はお腹に力を入れて、全身で懸命にバランスを取ろうとする。しかし、もうすぐピエロは彼の目の前にきてしまう。そうすれば、ピエロは躊躇なく、自分を落とす。彼はそう考えて、先に棒を振るった。ピエロはあっけなく落ちるかと思われたその時、景色は遺跡の中に戻った。
「はぁ~。死ぬかと思った!」
ピエロは遺跡の中で立っていた。
「これで、ステージは終わり!」
ピエロはそう言うと、その体から関節を鳴らすような音を響かせた。
「ここからは、ピエロじゃないよ~!」
びっくり箱から飛び出るように、ピエロの顔が彼の目の前まで迫る。その口を大きく開け、鋭く尖った金色の歯で彼に噛みつこうとするのを、すんでのところで飛びのく。続けて、鋭く長い何かが彼に襲い掛かる。それも全て、回避する。しかし、逃げた先にはピエロの顔があった。口を大きく開けて待っている。彼は剣を刀に変えて、熊の化け物にしたように大きく振るう。ピエロの口は裂け、景色が変わる。
「うう、うう、うう~」
そこには彼と同じくらいのサイズのピエロが顔を両手で抑えていた。先ほどと同じ大きさである。
「ひどいじゃないか、ひどいじゃないか、ひどいじゃないか」
そして、ピエロは顔を上げる。口は裂けていない。
「ひどいじゃないかぁ~」
その顔は人間と同じ顔なのに、どこまでも醜く、不気味な笑顔をしている。右手にはナイフを持ち、左手にはメイスを持っていた。どちらも本物のような質感で、その攻撃が当たればただでは済まないだろう。
ピエロはゆったりとした動作で、彼に近づいていく。彼の手には両刃の刀身を持つ剣。ピエロは彼を自分の射程に捕らえると、素早くナイフを振るう。彼はそれに対して剣で対抗する。彼は一度後ろに飛んで、切っ先を相手に向けた。次に彼の視界に入ったのはメイスだった。それはピエロの手から離れて、彼の頭目掛けて飛んできていたのだ。彼は余裕をもって躱すが、後ろでそれが落ちた音はしなかった。ピエロの手にいつの間にかそれは戻っている。彼は刀身に節目を作る。鍵を開ける音と共に、刀身は蛇のように宙を舞う。さらに、その剣の先端の節を球にして幾つもの棘を生やした。そのまま、その棘の球をピエロにぶつけるように振るう。ピエロはそれを見ても躱そうとはせず、メイスで鉄球を弾いた。彼は弾かれた球を視界内に入れつつ、バラバラの刀身をピエロへと当てようと、剣を振るう。迫る剣にピエロはまたも、メイスで弾く。しかし、刀身の一部しか弾くことはできず、それより先の刀身から棘の球は弾かれた勢いがついて、ピエロへと向かう。ピエロは再び球を弾く。その弾かれた球は彼へ向かうような軌道を取っている。彼はそれを理解して、それを避けるように球を操作する。しかし、その球は彼が思っているよりも彼に近づいていた。その球を避けると同時に、その後ろについてきていたものが、視界に入る。それはナイフだった。彼に到達する間に彼は体を捻って回避を試みる。その凶器は彼の胴をかすって通り過ぎた。彼の腹部辺りから少量の血が出ていたが、それほどの傷にはなってはいなかった。しかし、その体を無理に捻った体勢からはすぐには体勢を整えることはできなかった。顔だけをピエロの方に向けようとして、それが近くにいるのがわかった。顔を戻す前に、バラバラの刀身を左手で引っ張ってガードする。刀身の刃が彼の手に食い込んで、血が垂れる。瞬間、彼は真下に叩きつけられた。剣のガードは有効だったのか、彼はボロボロであったが、死んではいない。しかし、彼の視界にはピエロが鈍器を振り下ろそうとしているのが見えた。彼は自分を守る強固な盾を意識する。次に再び衝撃。彼はその衝撃の中でも目を閉じることはしなかった。そして、自分の持つものが盾であり、それがピエロの殺意を跳ね返しているのも捉えることができた。それでも、彼は自分の心に殺意が付きつけられているのを感じている。ピエロが弾かれたメイスを持つ手とは反対の手を振るおうとしているのが見えた。強固な盾は衝撃を防ぐために大きくはない。ピエロの持つナイフは盾を躱して入り込もうとしている。彼はピエロを突き飛ばす棒を意識した。盾が勢いよくピエロに一本の棒を伸ばしていく。ピエロはそれに反応しきれなかった。ナイフを空振りして、棒に突き飛ばされる。棒はいくつも枝分かれして、ピエロを追尾する。その先端は細く鋭利になっている。異常なピエロも空中では体勢を立て直せない。そのいくつもの鋭い棒がピエロの体に突き刺さる。ピエロは声も出さずに壁に
彼は痛みに耐えつつ、立ち上がる。見た目には出血はしていなかったが、体のどこが痛いのかわからない程、様々なところに痛みを感じていた。ピエロは感情のわからない顔で彼を見て、両手を彼に振った。そして、ピエロの体から力が抜けて、磔の体は棒をすり抜けて、地に落ちる。ピエロの体はそのまま、朽ちていき、最後には骨だけが残った。
「はぁ……はぁ……んく」
唾を飲み込むのも辛いほどに彼は疲弊している。
元の世界に帰るゲートはすぐ目の前にあった。剣を持つ手に力が入る。そのゲートの横には文字が書かれていた。
成すべきことを
果たしたものは
剣を 掲げよ
彼はその文章の通りにした。剣は既に両刃の刀身に戻っていた。
ゲートはそれに応えるように動き出す。彼はそれに体を引き込まれた。
目を開けると、眩しい光が目をさした。思わず、彼は目を瞑った。体を起こすと、そこは白い壁に四方を囲まれた、病室のような場所であった。彼は先ほどまであったことは夢だったのではないかと思う。ガラガラと背後で音がした。その方向に首を動かすと、白くぴったりとした服を着ている女性が入ってきていた。看護師に見えるので、やはりここは病院だと彼は考えた。その女性はどこか驚いた様子で、慌てて彼のいる部屋から出ていく。
彼女が次に戻ってきたときには、外人顔の白衣を着た男性だった。男性も、彼を見ると驚いて駆け寄った。
「大丈夫だったのかい!」
何のことかわからず、首を傾げた。
「何も、覚えていないのか」
「いや、何かで気を失ったんです。そして、夢を見ました」
彼自身、自分の口が勝手に動いているように感じていた。
「それは、多分、夢ではないよ。そこで何があったのか覚えているんだろう」
「はい」
彼は体験したことまでは語らなかった。また、彼は自身の体験したことが夢でなかったことに安堵していた。あの体験は彼にとってとても素晴らしいことだったのである。
「僕はなぜ、あの場所にいたのでしょうか」
男性は何かを考える仕草をした。彼の目には考える振りのようにも見えた。やがて、その仕草をやめて彼の顔を見る。
「君が襲われたのは、ノイジーサーカスと名付けられた現象なんだ。音と共に現象が始まって、巻き込まれたものは意識を失う。そして、気が付いたら知らない場所。君もそうだったんだろう」
彼は頷くだけで返事とした。
「君だけではない。この現象に巻き込まれたものは多くいる。一般にこのことが知られていないのは、現代科学ではそれを解明できなかったからだ。どうして起こるのか、どんな過程なのか。その一部すら解明できていない。わかっているのは、あっちの世界で死ぬと現実でも死んでしまうということだ」
男性は一度、そこで話を区切った。男性の話を聞いているうち、向こうの世界であったことを次々と思い出す。長い時間を過ごしていたような気がしたが、振り返るとそこまで長くなかったのかもしれない。その中でも、彼が剣を握った理由を思い出した。
「僕には確かめないといけないことがあったんです。だから、この世界に戻ってきたんです」
ベットの上から降りて、しっかりと立ち上がる。
「待ってくれ。確かめないといけないこととは何なんだ。急がないといけないことなのか」
「はい。そのために生き抜いたんですよ!」
男性は躊躇いながら、問うた。
「それは、何を確かめたいんだ。人に訊くことなのか」
「はい。いつも僕の近くにいた人に訊きたいことがあるんです!」
「だったら、それは、叶わないかもしれない」
彼はその言葉を理解するのに、首を捻る。しかし、その答えが出る前に男性は彼に言った。
「君を巻き込んだノイジーサーカスは、君だけを巻き込んだわけではない。君のいた場所一帯を巻き込んだんだ。全員というわけではないが、もし、その時、君の近くに目的の人間がいたとしたら」
男性はそこで言葉を切った。彼にもそれが言いにくいことであることは理解できてしまった。
「しょ、証拠は。巻きこまれたっていう、証拠はあるんですか」
彼の声には焦りが現れていた。男性は何かの紙を胸ポケットから取り出した。折り畳まれていたそれを開いた。
「これは、被害者のリストだ。生存している者のみがそこにリストアップされている」
彼はそのリストを受け取った。そこにはたくさんの名前が並んでいる。上から順に一つ一つ確認するように見ていく。リストは五十音順であった。そのため、彼はすぐに気が付いてしまった。
相上 菖蒲
その名は彼がこのリストに載っていてほしくなかった名であった。
「見つけてしまったようだね」
男性がそういうのも無理はない。きっと、今の彼の表情は誰がどう見てもそう声をかけるしかなかった。男性は見ていられなくなって、声をかけた。
「助ける術がない、というわけではないよ。結果として、と言うだけだが」
その言葉を聞いて彼は男性に詰め寄った。彼の中で理性は機能していない。
「そ、それは。それは何ですか! 僕にもできるんですか」
男性は動じることなく、彼に言った。
「君にしかできないことだ。正確に言えば、自力で向こうの世界からこちらの世界に戻ってきた人間にしかできない。君は向こうの世界で生きるのに、何かを利用していたのではないのか」
彼はそれが何かすぐに理解できた。形を変える剣。それは彼が向こうの世界で生き抜くことができた理由だった。
「思い当たることはあるみたいだね。そして、そういうものを持っている人間はどういうわけか、巻き込まれた人を助けることが出来る。こちらでやることは簡単だ。助けたい人の手を握りながら眠る。それだけらしい」
「それなら、僕を連れて行って」
彼は男性から少し離れて見つめる。彼の瞳には本気だという意志が映っている。
「助けてくれるのは構わない。それどころか、ありがたい話だ。それに、きっと君は向こうの世界に行かなくてはいけないのかもしれない。しかし、君はここに戻ってくる前、向こうの世界で危険な目に遭ったのではないか。再びそういう可能性のある世界に行く。そのことの意味を理解しているのだろうか」
「いいんです。伝えないといけないことがあるんですよ! じゃないと、この世界に戻ってきた意味がない」
「ふむ。少し落ち着いた方がいいだろう。決めるのは明日でもいい」
男性は彼を優しくどかすと部屋を出ていった。彼は男性を追おうとしたものの体が言うことを訊かず、その場に留まるしかなかった。
(よぉ。よく生きてたな。お互い)
――まさか、君がこっちまで来れるなんてね。
(んで。どうするんだ。このままおとなしくしてるのか)
――そんなわけ。君が初めに言い出したんだろ。確かめなくていいのかって。
(そうだったか。そんなこと覚えちゃいねえ)
――とにかく、おとなしくしてるつもりはないよ。何のために戻ってきたんだ。
(そうだな。んじゃ、行くぞ)
彼はベッドから降りて、患者着のまま部屋を出た。彼女はきっと院内にいる。そういう確信があった。彼は決意を心に秘めて、病室を出たのだった。
サヴァイヴァー bittergrass @ReCruit
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