花のようなあなたへ

伊島糸雨

殺伐感情戦線:第8回「救済」


 美しくあれ。美しくあれ。

 そう願いながら、私はせっせと手を動かしていく。

 綺麗になりたい。それがあの子の口癖だった。だから、私はその願いに応えて、美しくあれ、と呪文のように唱えてみせる。

「美しくあれ」

 美しくあれ。

 近所の花屋で花束を買った。人にあげるんだというと、おばさんは眼鏡の奥の瞳を柔和に細めて、「おまけ」と言って真っ赤な薔薇を一本追加してくれた。赤色はあの子によく似合う。顔を近づけると、ふわりと温かな香りが鼻腔をくすぐった。

 用意した花瓶から、薔薇を抜き取った。茎の切れ端から水が滴って、机の上に染みをつくる。

 これできっと、綺麗になれる。あなたの望んだように。

 そしてもうあなたはどこにも行ってしまわない。もう劣化することに怯える必要もない。変わってしまうことも、もうないのだから。

 花のように美しいあなたへ。

 これが私からの、手向けの花。


 *     *


 私と美鵠みくぐい彩乃あやのの出会いは、中学二年生の春のことだった。

 一年生の時から、なんとなく噂は聞いていた。私とは違う小学校から上がってきた人で、綺麗な子がいる、というような、そんな話だったように思う。当時はクラスも違ったし、接点というようなものは特になかったけれど、親しくなった人の中に彩乃と同じ小学校の子がいて、時折話題に上っていた。たまたま見かけたときの印象は、他の人とそう変わらない。綺麗だな、とぼんやり思った程度だ。きりっとした目鼻顔立ちは中学生にしては大人びていて、年上と言われてもわからなそうだな、と考えていた。

 関係性が他人から変化したのは、二年に進級して同じクラスになってからだ。春休み明けの登校初日、名簿順に座ったところ、私の一つ前が彩乃だった。校則に従ってその繊細な黒髪を赤いゴムで綺麗に結わえ、背筋を伸ばして座る彩乃の背中は、やけに大きく見えた。実際の身長は私とそう変わらなかったけれど、彼女はとにかく姿勢が良くて、並んで立つと頭のてっぺんの位置が私より少し高くなった。

 当時の彩乃は、私が抱いた怜悧な印象に反して、明るく正直な人柄をしていた。後ろに座った私に対して、人見知りをするどころか、初対面の壁など存在しないかのようによく喋った。担任がどうだとか、春休み何したとか、自己紹介とか、なんとか。そんな他愛ないことを話しながら、彼女は終始笑っていた。

 私はそのやり取りを通して、彼女への認識を改めた。美鵠彩乃は、冷たくも特別大人びてもいなかった。彼女は、学年が上がって最初の登校に興奮している、なんてことない女の子だった。

 彩乃の魅力的だったのは、その洗練された美貌に付随した、あの屈託のない笑顔だった。落ち着いた雰囲気の外見とはまた違う、ある種の子供らしく朗らかな内面が、親しみやすさを演出していた。

 だから私は、そうなんだ、と相槌を打ちながら、彩乃への興味を強めていった。あの子は友達が多かったから、その中で自分がどの位置を占めることになるのかはわからなかったけれど、ひとまずは友達から始めようと握手をした。「また明日」と言って教室を出て行くのを、私は手を振って見送った。新学年が始まって、最初にできた友達だった。

 私は元より人付き合いがいい方ではなく、人と遊んでお金を使うよりも、家で本を読むことに意義を感じるタイプだったから、学校で話す相手はいても、休日に一緒にいるような友達らしい友達はいなかった。遊びの誘いを断るうちにいつしか誘われなくなるやつだ。そして私は、そのことをなんとも思わない程度には、人付き合いが悪いのだった。

 だから、最初の会話以降彩乃と行動する機会が多くなったのは、私にとって一つの変化だった。他の人間関係が浅かったから、私は時間と労力の多くを彩乃に傾けていることができた。共に過ごす日々の中で、彼女にばかり執着する自分に嫌気がさしたりもしたけれど、こればかりは仕方がないと言い訳をしたい。

 なぜなら、彩乃はおよそ誰が見ても、魅力的に映る女の子だったのだから。


 私たちの家の間にはそれなりの距離があったけれど、ちょうど中間のあたりに市役所と図書館があって、私たちはそこでよく待ち合わせをした。私は三十分ほど早く来て、敷地内にある公園の噴水の縁に腰掛けて彩乃を待った。すると予定の十分前に彼女がやってきて、「お待たせぇ」と言うのに「今来たところ」と返すのが常だった。最初こそ「絶対嘘じゃん」と言っていた彼女も、数回繰り返すうちに諦めたらしく何も言わなくなった。

「いつもさ、私を一番にしてくれるよね」

 ある時、ベンチでジュースを飲みながら、彩乃が言った。私は突然のことに驚いて、数度噎せてから「えっ?」と問い返した。

 その端正な横顔は悲しげで、私は言葉の真意を測りかねる。優先している自覚はあったものの、彩乃の意図がわからなかった。私が疑問符を浮かべているのを見ると彼女は自嘲気味に笑って、ぽつぽつと話し始めた。

「みんなさ、私のこと褒めてくれるでしょ。綺麗、とか、可愛い、とかさ。自惚れじゃなければ、友達だって多いんだと思うよ。でもね、そうやって言ったって、私はみんなの一番じゃないの。他に大切なものがあって、私はきっとそのついでなんだな、って、時々、言葉が虚しく聞こえるんだ……」

 青空と明るい日差しの中、あの笑顔が沈んでいた。数秒沈黙してから、「でも」と続ける。

「あなたは違う。私にくれる言葉と同じだけのものを示してくれる。ちゃんと友達でいてくれる。どこにも行かないでいてくれる。だから、ありがとう。私、嬉しいんだ」

 そう言って、気をとりなおすようにペットボトルに口をつけた。私は呆然と、彩乃の顔を見つめていた。

 大切にされて嬉しいという感情が、中学生の彩乃の行動原理だった。だからこそ、あの子はずっと努力して、あの細く艶やかな四肢を、引き締まった身体を、あの美しさを維持していたし、よりよく振舞おうと決意していたのだ。

 彼女の生の在り方は、驚くほど単純で、鮮烈なまでに美しかった。その生き方に見合うものがないというのなら、それではあまりにも救いがない。

 そう思ったから、私は意を決して思いを口にしたのだ。

「彩乃は、私の一番だよ」

 その時の表情を、今も忘れない。あの、私が大好きだった彩乃の温かな微笑みを、今も覚えている。

 花のようだ、と私は思った。


 高校生になった。

 結局私たちは中学三年生になっても一緒にい続けて、高校に至っては二人で相談をして決める始末だった。私たちは協力して勉強を重ねて、地域でも有数の進学校に進んだ。わざわざレベルを高めにしたのは、志望校選択の動機をごまかした上で、二人同時に受験することに苦言を呈する外野を黙らせる狙いもあった。その思惑は想像通りの効果を発揮して、私たちは大した反発にも遭わずに望みを果たした。

「あぁーぅ綺麗になりたいぃーぅぁーぉ」

 放課後の夕暮れ時、二人きりの空き教室で、彩乃は怪しげな語調でそう言うと、上半身を机の上に投げ出した。髪型に関する校則がなくなって、彼女は肩甲骨まである髪を下ろしていた。

「口裂け女みたいなこと言ってる」

 いつもだけど、と付け加えて、私は頬杖をついた。

 この頃から、彩乃は「綺麗になりたい」というのが口癖になりつつあった。明確な原因は思いつかない。彼女の家庭環境は、見た限りでも話に聞く限りでもいたって普通で、ご両親も善良な一般市民というふうだった。私たちは平日は常に一緒にいたし、休日にしたってなんだかんだでお互いの動向は把握していた。結局のところ、私が知りえない要因と言ったら、それこそ彼女の内面くらいのものなのだった。

「私、綺麗?」

「綺麗だよ」

「いつもそういうもん」

「いつもそう思ってるからだよ」

 冗談めかして言う彼女に、私は言った。私の本心はいつも変わらない。彩乃は綺麗だ。そのままでいい。願うのは、本当に、それだけだった。

 彩乃は時間が経つにつれて、より一層その美しさを際立たせていった。努力のことも当然あるだろうけれど、やはり素質が段違いで、メイクをしなくたって目が腐っている人がいなければ十人中十人が振り返るし、何なら無関係の十一人からそれ以上だって振り返っただろう。

 もちろん、そういう感想に私の個人的なバイアスが存在することは否定のしようがない。私はもうどうしようもないくらいに、美鵠彩乃の虜だったからだ。

 彩乃の唯一でありたい、絶対に手放したくない、というあまりに人間的な独占欲への自覚はあった。そして、彼女が日々「綺麗になりたい」と言うことへの、複雑な思いも。


 彩乃が徐々に笑わなくなっていくのを、私は隣でずっと見つめてきた。外見に対する病的なこだわりは、いつの間にか彼女の健康さえ害するようになって、昼食は少なくなり、食べない日も度々だった。ふと食欲を取り戻したかのように食べ物を口にしても、その後には必ずトイレに行って、帰ってきたときには青白くげっそりとしている。疑り深くなって、今あるものを否定するようになって、怯えて、焦って、苦しそうだった。そんな自分の状況を救おうと必死だった。だからうわ言のように、「綺麗になりたい」と呟いては、自分が劇的に変わるいつかを夢見ていたのに。

 それでも、私の彩乃はどこまでも綺麗だったのだ。

 残酷さはここにあって、私はその事実にうちのめされる。

 外見の美醜も病んでゆく心でさえも、もはや問題にはならなかった。

 彩乃が好きだ。あの子のことが大好きだった。

「だから、ごめんね」

 私は彩乃の首に手をかける。



「ぎゅ、ぐ、ぅ」

 押し倒した彼女の瞳に映った諦観と安堵──そして、私。

 床に広がる髪の斑模様に、彩乃の頭部を擦り付ける。夕暮れの茜色は私の影で彩乃を覆い、表情の翳りを色濃くうつす。なめらかな皮膚はじっとりと汗ばんで、食い込んだ指先が鼓動を捉える。どくどくと流れゆく鮮血の拍動が、彩乃の生命の蠢きとなって私の指先を伝っていく。

 この密やかな逢瀬も、友情も、親愛も、生きる痛みも、触れ合う喜びも、すべてぐちゃぐちゃにして、彼女の身体をそこに埋めようと思った。捧げられるものはない。私ではまともに救えない。ならばもうこれしかなかった。他の誰かが、彩乃自身が彩乃を汚して殺すくらいなら、私がこの手でそれを為したかった。綺麗な彩乃を遺そうというのなら、あなたの首を絞めてでも、私はあなたを生かしたかった。

 他の方法なんて、思いつかなかったのだ。

 彩乃がか細い声で私の名前を呼んでいる。苦しげに身をよじり、顔を紅潮させて、投げ出された四肢が強張って震える。馬乗りになって、まるで情事に耽るような熱量で、吐息と汗と涙は混じり合い、血流のリズムは一体となって、私たちはこの二人きりの距離のうちに、解離して、溶け出していく。

 力を込めた腕が、小刻みに揺れた。

「ねぇ、彩乃……」

 名前を呼ぶと、瞼が微かに痙攣する。

 私ね、気がつくと、いつもあなたのことばかり考えてた。ずっと惹かれていたから。ずっと大切に思っていたから。あなたのことが、一番だったから。

 でも、私の大切な人を、あなたは大切にできなかった。私はそれが、たまらなく痛かったよ。

 もう、言葉は返らない。

 まるで熱に融けて癒着したかのように、手を離すことができなかった。

 私は呆然と力が抜けるのを感じながら、彼女の胸に縋り付く。赤々と残る指の痕が、私の罪を詳らかにする。あふれた涙は頬を伝って、真白いシャツをそっと濡らした。

 呼吸はもう、止まっていた。


 *     *


 美しくあれ。

「彩乃は綺麗だよ」

 そうやって、私がどれだけ保証してみせても、そんな言葉では物足りないのだと、彩乃はいつも口にしていた。

 花に例えるのではダメらしかった。いずれ枯れるものは綺麗じゃないのだと彼女は言った。蝶もダメだった。芋虫が気持ち悪いから無理、とのことだった。虫全般が嫌いだということは、その時に知った。

「これじゃダメなんだよ」

 どうにも彼女は、現状を愛するというのが難しいらしかった。

 いつだって空想の未来を求めていた。そして、少なくとも私では、彩乃が今の彼女自身を愛するには役不足なのだった。

 私にとっての美しさは、あの子にとっての美しさじゃなかった。仕方がないとはいえ、その隔たりを少し寂しく思う。自分たちの間に広がる断絶を、ありありと感じていたから。あの子が一番意識している部分で、私たちは共感できないのだと知ったから。

 美しくあれ。美しくあれ。

 お金を貯めて、いつか変わるんだと言っていた。私が好きなあの子が損なわれるのは嫌だったけれど、「そうなんだ」としか言いようがないでしょ。どうやって引きとめればよかったの? どれだけ綺麗だと言ってもあなたは相手にしなかった。自分の価値ばかり優先して、人の話なんて聞きもしないのに。

 わかっていた。彩乃にとっては、これから先なんて、不安と恐怖の象徴でしかなかったのだ。手に入らないとわかっているものを追い続け、こうじゃない、こんなはずじゃない、もっともっとと求める以外に道がなかったのだ。その強迫から、逃れる術を知らなかったのだ。

「美しく……」

 変わって欲しくなかった。汚れて欲しくなかった。ずっとそのままでいてと裾をつかんでも、きっぱりと「嫌だよ」と言って先に行ってしまう。自分を救うために必死で、私のことなんて目もくれない。

 部活に所属することもなく、放課後に喋るだけの日々が好きだった。なんてことない変化の乏しい日常を、あの子と送れるのが嬉しかった。その間は私の隣にいてくれた。私は、くだらないことで笑うその顔が好きだったよ。

 脱力した首を曲げて、顔を上に向ける。顎を左手で支えながら、花瓶から抜き取った薔薇を、その喉奥に差し込んでいく。肉をかき分けて奥へ奥へと進んでいく感触を指先で捉えて、私は身を震わせる。粘膜を擦る音が、かすかに聞こえていた。

 彩乃。彩乃。「彩乃」

 あなたが大好きだった。あなたが笑っていられれば、それが一番だった。一緒にいたかった。隣にいたかった。それもぜんぶ、私が踏みにじった。

「私のせいなんだ」

 あなたの苦しみを癒せなかった。寄り添うことができなかった。私の一番は、彩乃、あなただったけれど、あなたじゃなかった。ごめんね、私が、あの約束を破ったんだ。

 彼女が愛せなかったその身体を、私は花で彩っていく。薄く乾いた唇は、そっと濡らして、丁寧に、丁寧に、あの子を花に仕立てていく。

 その身に咲いた大輪の薔薇は、この世のどんなものよりも、きっと美しいから。

 私は彩乃に語りかける。

 彼女を褒める、いつもの調子で。

「綺麗だよ、彩乃」

 私が愛したあなたを、いつかどこかで、あなたが愛せますように。

「彩乃」

 ごめんね。



 美しくあれ。美しくあれ。

 そう願いながら、私はせっせと手を動かしていく。

 綺麗になりたい。それがあの子の口癖だった。だから、私はその願いに応えて、美しくあれ、と呪文のように唱えてみせる。

「美しくあれ」

 美しくあれ。

 花のようなあなたへ。

 これが私からの、手向けの花。

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