第五話
ヴェンダヴァル軍が大規模な作戦の用意に取り掛かっている、とは彼の国に潜入している情報部の諜報員から事前にもたらされた情報の中にも含まれていた事柄だ。しかし、詳細までは掴むことができず、用心されたし、とも添えられていた。
ゆえに、第三次カヴェルナ会戦と名付けられた今回の戦に際しても、警戒が高まることこそあれ、油断はなかった。少なくとも、私の周囲では。
私もまた、いつも通りに戦場に立ち、いつも通りに剣を振るった。戦況は膠着していたが、流れは徐々にこちら側へ傾き始めているように感じられた。各部隊から聞こえる報告に、徐々に相手の撤退を知らせるものが増え始めていたからだ。
しかし、ちょうど正午を迎えようかと言う頃、その見込みを一瞬にして覆す異変が発生した。
空に掛かっていた厚い雲が晴れ、強い日差しが降り注ぐ。その青空を裂くように、一筋の光が戦場を貫いたのだ。
――空を奔り、地を穿つ。まさしくそれは、天より落つる雷に似ていた。
大気でさえ焦がさんばかりの、高温高密度の魔力線。地平の彼方より降り注いだ、たったの一射で、フロル王国軍は三割がたの兵が戦闘不能に陥らされてしまった。あろうことか、地面ごと吹き飛ばされるという異常事態によって。
混乱しかける部隊を立て直す一方で、傍らに控えていたペデラを通じ索敵術兵に戦場を探らせてみせたものの、「先ほどの一撃は探索可能範囲外からのものと思われる」と、それ以上の情報が入ってこない。要するに、敵を見つけられない――現時点では何も分からないに等しいということだ。
「ペデラ、せめてどこから放たれたのか、方角だけでも割り出せないか訊いてくれ。それから、ヴァジェン将軍に撤退の打診を」
「撤退ですと? 姫様、このままでは退く背にあの光線の直撃を受けることに」
「だから、方角を割り出させるんだ。どこから来るかさえ分かれば、私が止める。その間に全軍退くように」
無茶な、とペデラが叫ぶのを無視して、私は殿を務めるべく剣を取った。
対峙するのは、溢れる光。鎧を焦がす熱。さながら、天から落ちた太陽が迫ってくるかのような――
「まるで悪夢だったな」
眠りの淵から意識が浮上する最中、ついそんな独言が漏れた。
夢見が悪かったせいか、頭が重い。あちこちが痛む身体を叱咤して起き上がる。その時、周囲の景色が記憶していたものと違うことに気付き、思わず首をひねった。
どうにかこうにか撤退を果たして王都に帰り着いたまでは良かったものの、以来血相を変えた典医の監視下に留め置かれていたのではなかったっけ。それは王城内の一室においてであり、この部屋ではないはず。何しろ、ここは離宮の、私の部屋で――……ああ、そうだ。そうだった。
昨日、兄上に無理を言って帰らせてもらったのだった。やっと自分の置かれた状況を思い出すことができたものの、これでは随分と頭の回転が鈍っているらしいことを認めない訳にはいかなさそうだ。
「参ってしまうな」
何ともはや、良くない兆候だ。自覚できていないだけで、もしかしたら肉体よりも精神的な部分での傷が深いのだろうか。
カヴェルナでの三度目の戦を終えてからというもの、同じ夢ばかり見る。あの白い光と対峙する夢。今まで一度も、そんなことはなかったというのに。
「怖い訳ではない、けれど」
私は剣だ。剣は戦いに赴くことを躊躇いはしないし、怖がりもしない。再び挑めと言われれば、言われた通りに立ち向かうだけ。それができる確信だってある。
あの光はもう六度目の当たりにして、五度はこの手で受け止めた。強さも、速さも、一射あたりの持続時間までもが読めている。背後に庇うものがなければ、次は当てさせない。なのに、未だじくじくと疼き続ける左腕は、細かく震え続けているのだ。まるで怯えているみたいに。
何とはなしに、右手に着けたままの腕飾り――魔装具〈風裂くアリオール〉を起動させる。鎧装と駆装は除外し、剣だけを展開。
瞬時に現れるは、白金に煌めく一振りの長剣。しっくりと掌に馴染むそれを右手で握り締めながら、目を閉じて深く息を吐く。
目を閉じれば、今もあの白い光が蘇る。
想像を絶する魔力の奔流。凄まじい熱と圧力。光線の着弾箇所に先んじて回りこむだけの駆装機動に必要な分を残し、全魔力を鎧装と剣に注ぎ込んで対抗したが、まともに耐えられたのは五射目までだ。
鉄や岩の弾丸と異なり、魔力――魔術によって生じた光線は、弾くことも逸らすことも難しい。光の途切れるまで、剣を盾に見立ててひたすらに受け止め耐えるしかなかった。五射目を受けた後には、ついにこちらの魔力が尽きて剣が折れた。
それでも折れた剣を左手で支えて、辛うじて六射目は凌いだ。あちらも魔力が切れたのか、七射目がなかったのは僥倖でしかなく、代償として私も左腕を半ば以上焼き切られてしまったが、逃がし得る最大限の兵力は逃れさせたのだ。
良い結果であるとは言えないが、最低限果たすべきことは果たした。……そう、思いたい。
「それに、まだ、何も成してない」
兄上と共に企んでいる、多くのこと。それを成し遂げるまでは、立ち止まってはいられない。こんなところで足踏みしてなど、いられないのだから。
剣を消し、深呼吸をして慎重に身体を動かす。――それでは、いざ行動再開。
昨日は少し立ち眩みをしてしまったけれど、今日はそこまで調子が悪くもなさそうだ。ベッドから下りてみても、問題はない。足もちゃんと動くし、ちゃんと立てる。確認がてら一通り身体を動かしてみていると、視界の端に無残に砕けた花瓶が目に入った。ああ、これも昨晩の出来事だったっけ。
「申し訳ないことをしてしまった」
上の姉上が下さったものだったのに、昨日テーブルを倒した勢いで割れてしまったのだ。それに、アヴェラン殿にも迷惑をかけた。顔を合わせたら、きちんと謝っておかなければ。
花瓶もせめて片付けねば、と思いはするものの、いつも代わりにしてくれていた者は不在で、付け加えると時刻はもうじき朝の六時だ。
「先に食事にしよう」
腹が減っては戦もできない。動かないばかりか疼いて痛む左腕に四苦八苦しながら身支度を整え、ひとまず部屋を出た。
「おや?」
そして、驚いた。アヴェラン殿が、食堂の方から歩いてきていたのだ。
私とアヴェラン殿の部屋の間には多少距離があり、それぞれの私室から食堂までの最短ルートが重なることはない。これまでにも、私室から食堂へ向かう間に行き会ったことはなかった。
「おはよう、アヴェラン殿」
「そちらも早いな。……身体の調子は?」
声を掛けながら歩み寄っていくと、アヴェラン殿はその場に立ち止まって待っていてくれた。どこかへ向かう、明確な目的があったという訳ではないのだろうか。
「傷は痛むけれど、それだけだ。あなたは、散歩か?」
「……そんなところだ」
「そうか、宮に篭りきりでは満足に運動もできないものな。けれど、もうじき朝食だ。もし良ければ、ここで散歩は切り上げにして、食事にしてはどうだろう。久々にあなたと食卓を共にしたい」
「構わないが、その腕で食事に支障はないのか」
怪訝そうにな目で、アヴェラン殿が私の左腕を見やる。まあ、それについては……全く、考えていなかったけれども……。
「……どうにかなる」
「私に手伝いを期待しても無駄だ、と言っておく。今からでも王城に戻ってはどうだ」
「それは嫌だ。私はあなたと一緒に食事をしたい」
言い募ってみせると、アヴェラン殿は小さくため息を吐きはしたものの、それ以上咎めることはなかった。
「好きにすればいい。私に拒む権利はない」
* * *
王女が重傷を押して帰還した翌日の昼、再び第二王子が離宮を訪れた。
朝食は共にしたものの、王女は軍議とやらで早々に王城へと出掛けて行った。まさか第二王子ともあろう者が、それを知らぬはずはない。厄介ごとの気配を感じずにはいられず、気が向かないことこの上なくはあったが、念の為確認してみれば、やはり私に用事があるという。
会談の場には、勝手ながらあの螺鈿細工のテーブルの部屋が用いられた。私と王子は差し向かいで席に着き、薄らと笑みを浮かべた相手とは対照的に、私は憂鬱でしかない。叶うことならば、即刻退出したいところだ。
「ネーヴの様子はどうだったかな」
「……昨晩は疲弊した様子が見られたが、今朝は自分の足で歩いていた」
「もう? あの子は昔から回復が早かったけれど、今回はまた一等早いね。じゃあ、ネーヴの負傷についてはどれくらいご存知かな」
「この離宮に幽閉されていて、情報収集などできるはずがない」
さらりとした問い掛けには、あくまでも突っぱねる形で返す。生憎と、王子は意に介した様子さえ見せなかったが。
「おやおや、下手な誤魔化しだね。この宮に来る前に知り得た知識まで失った訳ではないだろう?」
「であるとしても、それを開示する必要性を感じない」
「本当に? このままでは我が国にとっても、貴国にとっても、よくないことになると思うけれど」
じっと見据えてくる灰青の眼を、黙して見返す。沈黙は一瞬、やはり先に口を開いたのは王子の方だった。
「先の戦で、我が国の兵は索敵術式も及ばぬ遠距離からの砲撃を受けた。これについて、あなたも少なからず情報は持っているだろう」
「だとしたら、どうすると? 第二王子直々に尋問でもするつもりか」
「いいや、その必要はない。その魔術攻撃については、既に調べがついている。バスィア丘陵に建造されたという、超長距離射程の光術式砲台だろう。相当な資源を費やして造り上げられたものと見えるが、ネーヴの奮闘の結果、現時点での連射可能数は六が限界であるものと推測されている」
寸前まで浮かべていた笑みを打ち消し、王子は淡々と告げる。その眼には今や、酷薄に近い冷徹さがあった。
よもや、もう砲台の位置まで突き止められているとは……。内心の驚きは、努めて表出させぬように取り繕う。我が国も、この国もそれぞれに諜報員を潜入させていることは周知の事実だが、この情報の速さからすると、随分遠く深くまで入り込まれているらしい。
「あの子は不意を打たれた初弾を除いて五度、砲台の攻撃を真っ向から受け止めて見せた。次はもう、ないよ。庇うものがなければ、あの子に負けはない。軍は既に駆装機動に長けた魔装士の精鋭の選抜を始めている。本隊が国境際で目を引いている間に、ネーヴの率いる別働隊が砲台を壊すだろう。二台目を作る余力は、さすがにないのではにないかな」
王子はいかにも余裕ありげな笑みを浮かべてみせているが、その言葉では動揺するに及ばない。決定的な情報が、未だ伏せられたままであるからだ。そして、それが何故であるかと考えれば、寧ろ私にとっては反撃の糸口となる。
「まだ事を成してもいないというのに、随分な余裕だが――危機的状況であるのは我々ではなく、そちらではないのか。王女が砲撃を阻んだとしても、その他の全てまでもを同時に阻むことはできまい。王女の目が届かぬ隙を逃すほど、我々は鈍間ではないぞ」
王子は先の戦の結果について、未だ語っていない。おそらくは、語ることができないのではないか。言及してしまえば、己にとって不利になる。そう理解しているが故に。
そもそも我が軍が奥の手に等しいトロヴァオ作戦を決行したのならば、仮にその時点で旗色が悪かろうと、そのまま一方的な敗戦になったとは考えにくいのだ。
我が国の総力を結集したに等しい砲台による攻撃も、王女を仕留めるには至らなかった。なるほど、それが事実であるのならば、確かに空恐ろしい話ではある。されど、王女の足止めは果たしたというなら、それだけで砲台は一定以上の役目は果たしている。それこそが、あれに求められていた役割だったのだから。
それだけ戦場における〈三ノ剣姫〉の存在は圧倒的であり、凄まじいまでの脅威だ。その脅威を弱める為の方策がトロヴァオ作戦であり、件の砲台である。それらが十全ではなくとも作用し、王女を戦線から隔離できたというのなら――そのような千載一遇の好機を、我が軍がみすみす見逃したはずがない。
「背を向けて逃げる敵を見逃すほど、我々は寛容でも、無能でもない。砲撃を受けてフロル軍は混乱し、敗走した――と、私は推測しているが。これを否定するのであれば、相応の根拠を提示してもらいたいところだな」
王子を真っ向から見返して、言う。挑発までもはする必要はないが、ここで下手に出る必要もない。
「……これは参ったね。意外に手強い」
そして、短い間の後、苦笑を浮かべて王子は零した。
「あなたの推測は間違っていないが、正解でもない。戦況は膠着しているよ。ネーヴが殿を守ってくれたので、我が軍の大部分は砲撃を避けることができた。そちらの軍の追撃もあったけれど、まあ、想定の範囲内で決着はついた、とだけ言わせてもらおうかな。今は守勢に長けた将軍たちが残存兵力を再編して、守りを固めている。砲台への対策も講じてあるしね」
「対策?」
「そうとも。いかに鋭いとて光の矢ならば、水に入れば歪む。霧を貫けば滲む。幸い、国境沿いには川も多いからね。夜間のうちに仕掛けは済ませておいた。時間稼ぎの用意は整っている。かならずしも、貴国の有利で状況は推移していない」
「……今更それを明かして、どうすると」
「今が分水嶺だ、ということだよ」
冷えた声で、王子は告げた。
「父上は兄上の意見を容れた。次の戦で、ネーヴは砲台破壊の命を受けるだろう。そうなれば、あの子は必ずやり遂げる。腕をもがれようが、足をちぎられようがね」
確信に満ちた物言いだった。一部の疑いさえ持っていないような。
「砲台が破壊されれば、貴国には確実に動揺が走る。そして生まれる隙は、それこそ誰も見逃してはくれないだろう」
「……何が言いたい」
「そもそも、この戦には意味も価値もない。そうは思わないかい?」
唐突な言葉に、自分が眼を見開くのが分かった。それは――その言葉は、王子たる身分であれば、決して口にしてならないものであるはず。
しかし、王子はこちらの驚きなど意に介する様子もなく、呆れた果てた……或いは、どこか疎ましげな様子で続けた。
「最初の戦から、どれだけの歳月が流れたと思う? もう充分じゃないか、無駄に人命と資源を浪費するだけだ。かつてあった王国は二つに割れた。割れたが、それぞれがそれぞれに国として営みを紡いでいる。その何が悪いんだい」
何の躊躇いもなく言い放たれた言葉に、私は呆気に取られたまま、何も返すことができなかった。純粋に絶句していた。
それを言うのか。今、ここで。戦をする二国の片一方、その第二王子たる人間が。
「砲台の破壊が成れば、兄上はここぞとばかりにあなたの国へ攻め込むよう声を大にするだろう。だが、そんなことをしたって何にもならない。資源を奪い、人手を奪う? 結構、一時は我が国は富み栄えるだろう。けれど、恨みと憎しみも同じだけ抱え込むことになる。やがて猛火となる火種を、自らの足元に埋めるに等しい所業でしかない。馬鹿馬鹿しいじゃないか」
だから、と王子は私を見据える。
「ここで終わりにしなければならないんだ」
「如何様にして、終わらせると」
「ネーヴがバスィアの砲台を壊す。それは我が国にとっては必須だ。けれど、あの子が健在では話にならない。あの子がいれば、この国に負けはないと民は信じ続けるだろう。あの子がいれば、あなたの国はあの子の剣が王の首を落とすことを危惧し続けるだろう。――だから、あの子には、欠けてもらわなければならない。十全な姿のままでいてもらってはならない」
決然とした響きには、微塵の迷いも躊躇いも感じられなかった。既にそれらを超越した、完全なる決定事項であるとでも告げるように。
王女の離宮に留め置かれているとは言え、私は決して彼女について理解を深めたとは言えない。それでも、数少ないやり取りの中から彼女が第二王子を頼りにしている様子であることは察せられた。かつて自らで「兄は自分に甘い」と評していたように、少なくとも甘えが許される相手であるとは認識している。
その王子が、彼女に信頼を寄せられている張本人が――今、なんと言った?
「……欠けてもらわねばならない、だと? 自らの手で鍛え上げてきた剣を、不要になったからと、それを理由に自らの手で折ると言うのか!」
こみ上げたのは、純粋な怒りだった。
忘れられるはずもない、あのカヴェルナでの戦い。敵ながら見事と称えずにはいられなかった、希代の剣の遣い手。自らを剣であると語り、人になりたいのだと語った王女。哀れなほど純粋で、痛々しいほどにいびつな。
それを裏切るというのか? 年端もゆかぬ少女を人ならざる剣が如くに鍛え上げ、十四の頃から戦場に駆り出し、英雄として活用する当事者でありながら!
「おかしいね、何故あなたが怒るのか。喜ぶものなのではないかな、怨敵たる〈三ノ剣姫〉が消えるのならば」
「ヴェンダヴァル王国の軍人であれば、そうすべきだろう。だが、私個人として言わせてもらえば、そのような考えは反吐が出る」
感情に突き動かされるまま吐き捨てる。すると、王子はにこりと笑って見せた。
「あなたが憤っているのは、あれほどまでに鍛え上げられた剣が失われることかな。それとも、剣として望まれ振るわれてきた、あの子が裏切られることかな」
「……どちらであろうと、変わりはないだろう」
「そう、今はね」
今は? 怪訝に思ったものの、問い返すよりも早く王子が続ける。
「ネーヴを惜しんでくれるのなら、力を貸してくれないか。あの子は命ある限り、戦えと命じられる限り戦い続ける。既に十二分無茶をしているんだ。焼けて半ば炭になった左腕を、自ら切り落として再生させるよう典医に命令した。そんなことをしてまでも、戦う気でいるんだ。戦い続ける気でいる」
一転して、ひどく苦々しげに告げられた言葉に、図らずも寒気を覚えた。
あの左腕は、そういうことだったのか。炭化してしまったのなら、どれほど高等な治癒術式をもってしても治癒は望めない。だからといって、その腕を切り落として新しく再生するなど……考えついても実行できる者がどれだけいるというのか。
知らず、息を呑んでいた。王子の言葉が全て真実であるという保証はないが、やりかねなくはないと思ってしまった時点で、疑いは無意味に近い。
「あの子は強いよ。けれど、たった一人が途方もなく強くても、勝ちは約束されるものじゃない。このまま戦が続けば、万が一のことも有り得る。あの子が斃れれば、おそらく戦はもう止まらない。英雄を奪われた民の怒りが、それを許さないだろう。そうなったら、滅びるもの全てが滅びるまで殺し合いは続く。いずれにしろ、戦いを止めるには、お互いにこれ以上形振り構わなくなる前……今しかないんだ。そして、その為には布石が要る。我が国にすれば、バスィアの砲台を破壊して貴国の脅威を減らす。貴国にすれば、ネーヴに瑕をつけることで弱体化させ、脅威の度合いを下げる。この辺りが妥当な条件だろう。ともかく、互いに利と損を取り合うことで、痛み分けとする。それくらいしか、もう手がない」
軽く目を伏せ、ため息を吐く王子の表情は、どこか疲れているようにも見えた。気のせいでなければ、以前相対した時よりもやつれているようにも思える。
「……王女につける、瑕とは」
「あの子には悪いけれど、腕の一本でも犠牲にしてもらうしかない。目に見える弱体化の証が必要だからね。それから、あなたも」
「私?」
「我が国の第三王女、救国の英雄と称えられる身でありながら敵国の軍人を欲したという、本来許されぬ行動――それによる影響、かな。貴国はあなたの存在があることでネーヴの刃が鈍ることを計算するだろうし、こちらにしても『英雄〈三ノ剣姫〉が認めて欲した』ということで、あなたを通して貴国への感情が多少なりとも緩和されることを期待してもいる」
「そのような甘い見通しでは、私がフロルの民の憎悪を背負わされるだけで終わると思うが。〈三ノ剣姫〉を誑かしたなどといって」
「まあ、その可能性も大いにあるけれどね」
あっけらかんと笑って、王子は肯定した。……無責任な。眉間に皺が寄る。
「けれど、あなたはネーヴの我侭に付き合い、これまでずっとこの離宮で大人しくしてきた。あの子に媚びはしなかったけれど、辛く当たりもしなかった。だから、この提案にも頷いてくれるのではないかと期待しているよ」
「……抵抗する手段がなく、また部下の身柄を人質に取られていた。それだけのことだ」
「初めは、そうだっただろうね」
今は違うだろう、とでも言わんばかりの口調が忌々しい。私は敢えてそれには答えず、別の件を問うことにした。
「……王女は、己が停戦の為の駒になることを、承知しているのか」
「承知も何も『戦を終わらせたい』と言い出したのは、あの子の方さ。フロルとヴェンダヴァルが敵でなくなれば、あなたが少しは振り向いてくれるかもしれない――まあ、あの子はそういう言い方はしなかったけれど――と、そういう淡い願いを抱いたようでね」
さも愉快とばかりに、王子は嘯く。
今度こそ、比喩でなく頭痛がした。私を手に入れる為に、あの王女はそこまでするつもりなのか。本当に私一人を得る為に、二つの国の有り様を変えようと?
「……王女の行動は、とてもではないが理解しかねる」
「私だって、とんでもないことを言い出したなあと思ったとも。けれど、あの子が『剣』でなく『人』として、初めて抱いた願いだ。笑うことはできない。……それに、私の代でこの戦に終止符を打ちたいと思っていたことも事実だしね。もしかしたら、ネーヴはそれも分かっていて私を頼ったのかもしれないな」
おどけるように肩をすくめる王子は、ここまで随分と迂闊に開示すべきでない情報――敵対する国の軍人である私に対しては、特に――を明かしてきたが、未だ得体の知れない空気を漂わせている。底……真意が読めない、と言い換えても構わないかもしれない。
かつて目の前の王子に感じた兄王子との軋轢めいた印象は、もしかすれば砲台の破壊を含めた戦闘に意欲的な兄との考えの違いによるものであるのかもしれなかった。不仲ではないのかもしれない。だが、決定的に見ているものが違う。
「さて、そういう次第でね。あなたには一働きしてもらわなければならない。砲台の破壊が果たされた時点で、私はヴェンダヴァルに捕虜交換の交渉を持ちかけるよう進言するつもりだ。その中にあなたも混じり、密書を届けてもらいたい」
「待て、私は何も了承してはいない」
「意外に頑固だね、あなたも。あなたは祖国を守りたくて軍人になったのか、我々フロルを滅ぼしたくて軍人になったのか、どっちなんだい?」
「私は――」
王子の問いは、私の芯を突いていた。
敵を滅ぼす為に。祖国を守る為に。一見して取り得る行動は同質に近く、似ているようだが、おそらくそれらは本質において大きく異なる。
――では、私は、何の為に。何をもって、剣を取り、戦ってきたのか。
「……一つ、条件がある」
そう切り出し、告げると、王子は驚いた様子を隠さなかったものの、最終的には大きく口を開けて笑った。
「これはこれは、まさかあなたがそう出るとは思ってもみなかった!」
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