第四話

 人は自らに対し優しく、または親切に振舞う相手を嫌い続けることはできない、という。

 その言説を我が身に照らし合わせて考えてみると、「できない」と断言まではしないが、かといって「何の痛痒もなく可能」であるかと問われれば、それには「否」と答えざるを得ないように思われた。

 王女は私が何を言おうと、何をするまいと、態度と変えることがない。一貫して好意的な対応を取り続ける。それしか知らないように、愚直なまでに。私の剣が美しいと感じた、それだけを理由にして。


 彼女は私の剣を美しいと言ったが――あの一太刀ごと命を削り合うに似た戦いの中で抱くべきでない感慨を抱いたのは、私とて同じだったのだ。

 彼女は、今までに剣を交えたどのような相手とも違った。

 見えぬはずの死角を突こうと、布石を打って隙を生じさせようと、全てが空を切る。必中を期した奥の手でさえも、ついぞ捉えることはできなかった。高速且つ精確な駆装機動もさることながら、本来移動補助に用いられるはずの魔力放出を剣を振るう動きに連動させ、その細腕で叶うはずのない重い剣戟を繰り出す発想と手腕には瞠目を禁じ得なかった。

 彼女は巧みに魔装具〈風裂くアリオール〉を操った。彼女の一騎当千と評するに相応しい戦闘能力は、魔装具のもたらす恩恵によるところも大きい。だが、それだけでないことも純然たる事実だ。

〈三ノ剣姫〉は、決して魔装具の扱いの上手さを所以として名付けられたものではない。凄まじいまでの剣の遣い手であるからこそ、彼女は「剣姫」と称された。

 実際に剣を交えてみれば、その異名にも納得するより他なかった。〈三ノ剣姫〉に比肩する剣士は、おそらく我が軍においても数少ない。仮に魔装具を用いることなく純粋に剣での勝負を挑んだとしても、私では相討ちに持っていけるかどうかも怪しいことだろう。


 正直に言うのならば。――私は、掛け値なしに感嘆してしまったのだ。

 これほどまでに卓越した剣の、魔装具の遣い手がいるのか。どれほどの鍛錬を重ねれば、十八の若さでこの領域に至ることができるのか、と。

 私自身、長年軍に籍を置き、魔装士として研鑽に努めてきた身である。だからこそ、〈三ノ剣姫〉には敬意を表さずにはいられなかった。真っ向から挑んだ末に敗北し、挙句の果てに「降れ」と言葉を掛けられても、さほど屈辱を覚えることなく――従うも一つの道かと、魔が差すほどに。

 それ故に、私は未だ彼女を扱いかねている。幽閉の現状を許容する訳ではない。だが、単純に怒り、憎むには、彼女の剣は余りにも鮮烈に私の胸を打ったのだ。


 * * *


 花壇に植えた苗が根付く頃、王女は少し離宮に滞在する時間が増えるようになった。

 当人の語るところによると、王女を離宮から引き離したがる第一王子に対し、第二王子と軍の上層部が、ついに明確な反発を見せたらしい。王女はこの国における、最大の切り札だ。満足な休息も得ることのできない日々によって、その身が損なわれることを、その刃が鈍ることを危惧したのだろう。

 わずかながら休日の増えた王女は、未だ懲りる気配もなく私に話しかけ、また或いは中庭の花壇を眺めるなどして、気ままに過ごしているようだった。前者は歓迎しかねるが、後者であれば私の関与するところではない。王女に花の世話の仕方を教えることで質問攻めを回避すべく画策などしていたある日、何の前触れもなく離宮に第二王子が訪ねてきた。王女に面会に来たのかと思えば、私にも用がある、などと嘯く。

 会談の場には、大きな天窓のある応接室が選ばれた。あの螺鈿細工の煌びやかなテーブルの据えられた部屋だ。部屋の中には、私と王女、そして王子の三人のみ。王子は何人もの供を伴って離宮を訪ねてきておきながら、その一人として入室を許すことはなかった。

「まずは、壮健のようで何より、と言おうか」

 席に着くなり開口一番、王子は私に向けてそう言った。反射で眉間に皺が寄る。嫌味のつもりか。

「兄上」

「ああ、分かっているよ。ネーヴ、お前は本当に彼の肩を持つね」

 すぐ隣の椅子に座った王女が咎めるような声を出すと、王子は苦笑して肩をすくめてみせる。

 向かいからこうして二人並んだ様子を眺めていると、改めてよく似た兄妹だと思う。葡萄色の髪は王女の方がやや明るい色味をしているが、青灰の眼はそっくり同じ。どちらも絵に描いたような麗人である。王女が十も歳を取り、男性であったのならば、まさしく王子に瓜二つの容貌となるに違いない。そういえば、第二王子と第三王女は共に第二妃を母とするのだったか。

「さて、今回私は兄上――エリゼウ第一王子からの伝言役でね。どうも兄上は気が短くていけない。ともかく、アヴェラン・シューヴァ殿、あなたには選択の余地を与えるとの仰せだ。我がフロル王国に忠を尽くすことを誓い、我が妹の配下として降るのなら、この離宮からの移動を許すと」

 そう言って、王子は言葉を切った。数秒待ってみたものの、その先が告げられることはない。

「よもや、それで終わりではあるまい」

「残念ながら、終わりだとも。兄上はここまでしか仰らなかったからね」

 あっさりと王子は肯定する。ふざけた話だ。これでは眉間の皺も解けるどころか、深くなるばかりでしかない。

「随分と見くびられたものだ。そのような文言に、私が頷くとでも?」

「いや、私は全く思っていないけれどね。ネーヴだってそうさ。兄上も本気でそう思っている訳ではないだろう。だが、あの方は如何せん駆け引きの類が得手でないようでねえ」

 始めから答えなど分かっていたとばかりに大仰なため息を吐いてみせた王子は、揶揄するような声色で兄を語った。その仕草と声だけでは、発された言葉が第一王子と真実親しいが故の軽口であるのか、反発を内包した皮肉であるのかまで推し量ることはできない。

 フロルの第一王子と第二王子が不仲であるという噂を聞いた覚えはないが、先日の王女の扱いを巡る関係性をも鑑みるに、ある程度対立的な側面もあるのやもしれない。母親の異なる王子同士であり、王位継承資格にしても第一位と第三位――第二位は第一王子の長子と聞く――とで非常に近い。全く意識しないでいる、ということも難しい話だろう。

「とは言え、兄上から指示を受けてしまった以上、私の独断で返事をしてしまう訳にもいかないからね。念の為、確認に来たという次第さ」

 面倒なことだよ、と言葉の割に笑顔を浮かべ、王子は言う。……いやに含みありげだ。

「それと、これは私の個人的な質問なのだけれどね。あなたが拒むのは、我が国への従属と、私の妹の軍門に降ること……どちらなのかな。或いは、どちらもかい?」

 その問いに、咄嗟には答えることができなかった。

 言葉に詰まる私の反応を見るや、王子はにんまりと悪魔的な笑顔を浮かべ、おもむろに席を立つ。

「では、ネーヴ? 答えは代わりに聞いておいておくれ。私は少し用事があってね、色々と忙しいんだ。後のことは頼むよ」

 言うが早いか、王子は颯爽とした足取りで出て行った。廊下で待機していた護衛に指示を出す声が聞こえたかと思うと、いくつもの足音が連なって遠ざかり始める。それらの音が完全に消えてしまうまで、私と王女は絶句していた。

「……何だったんだ」

 思わず零せば、王女もまた「さあ……」と呆気に取られた様子で呟く。彼女も委細を把握していた訳ではないらしい。一体、何のつもりであったのやら。

「とりあえず仕事を残されてしまった以上、片付けてしまわないといけない。アヴェラン殿、兄上が仰っていたことなのだけど」

「回答の拒否は?」

「私は構わないけれど、兄上がどう仰るかは分からないな。まあ、そんなに激しく咎めたりはなさらないとは思う」

 ヴェンセル兄上は私に甘いから、と王女は思案する様子で呟く。まさか、自分が咎めを受けるつもりなのか。呆れを通り越して、頭の痛むような気さえしてくる。私の「肩を持つ」どころの話ではない。

「……正直に言うのなら、あなた個人を憎んではいない」

 ため息混じりに答えると、俯き気味であった王女がぱっと勢いよく顔を上げ、私を見た。その表情は輝くに近く、ひどい居心地の悪さを覚える。

「だが、この国と我が国は敵対しており、私もそちらも共に戦いの最前線に立つ身だ。戦線を担ってきた矜持もある。故に、その要請に応えることはできない」

 言葉を重ねるにつれ、王女の表情の輝きが萎んでいく。止せ、と言いたくなる衝動を、無言のうちに飲み下した。そんな反応を見せてくれるな。

 捕虜収容所で見せられた写真では、あれほどまでに凛々しく威圧的な姿を切り取られていたというのに、軍装を脱いだ〈三ノ剣姫〉はまるで年相応の――時に輪を掛けて幼げな娘でしかない。それが、ひどく厄介だった。せめてあの写真のまま、戦場に君臨する鬼神が如き姿であれば、私もこうまで惑いはしなかったものを。

 そう考える己の愚かさに、わずかな苛立ちを覚えた。不足を他の所為にする八つ当たりでしかないではないか。

「敵、か」

 不意に、王女が呟く。

「敵でなくなれば、いいのだろうか」

「何?」

「戦が終われば、敵も味方もなくなる。そうしたら……」

 そうしたら。王女は口を噤み、一瞬私を見て、そして目を逸らした。

「……私も、用を思いついた。少し出てくる」

 ガタリと音を立てて椅子から立ち上がった王女は、足早に部屋を出て行く。振り返ることなく、何に突き動かされているのやら足早に。

「思いついた、か」

 確証はない。が、彼女が何を考えたのか、分からなくもないような気がした。

 息を吐く。重く苦い息を。

 本当に、彼女は何と愚かなほど真っ直ぐな――


 第二王子の訪問と会談の翌日から、王女は離宮にほとんど寄り付かなくなった。食事も常に一人分のみが用意されるようになり、彼女が明確な意図でもって宮を離れたことが察された。

 主不在の隔絶された宮にあって、得られる情報は絶対的に乏しい。それでも、全く手に入らないという訳ではなかった。宮の周囲には、警備部隊の人員が常に一定数配備されている。稀に漏れ聞こえる会話から、何やら王女が第二王子と共に水面下で動いているらしいことと、祖国に怪しげな――この国から見れば、の話だが――動きがあることは掴むことができた。

 祖国の怪しい動きとやらは、どうやら国境に程近い丘陵地帯で行なわれている大規模な建設工事を指しているらしい。私はかつて南方の戦線を担当していた故、それほど詳しい訳ではないが、国境近くの丘陵で一定以上の規模の工事を必要とする作戦は一つしか思い当たらない。

 モンターニャ山脈に端を発し、かつて一つであった国土を東西二国に分かつ国境――その中心部近くで展開する計画の、トロヴァオ作戦。

 この作戦には、当初反対意見も多かった。実行するにあたって必要と試算された資源と労力は膨大極まりなく、国境に沿って各地で展開している戦線の維持にすら支障をきたす恐れがあったからだ。その上、トロヴァオ作戦は〈三ノ剣姫〉の打倒を最優先目的に据えていた。非効率的に過ぎるとして、多数の異論が噴出したのである。

 だが、今となってはそうも言っていられなくなったのだろう。〈三ノ剣姫〉は強い。初陣が幼いとすら言える年頃であっただけに、年々その脅威は増しているとすら囁かれる。事実、彼女が挙げる戦果は年を追うごとに増加していた。このまま彼女が戦場に在り続けるのならば、おそらく我が国は負けずとも勝ち得ない。

 トロヴァオ作戦が実施に向かっているという情報に誤りがないのなら、我が国もいよいよ腹を括ったということだ。勝負を決める、その決断を下したに違いない。

 そのように不穏な情報が流れる一方で、夏は平穏のままに過ぎた。

 国境付近は夏になると特に雨が多くなり、大小様々な川が氾濫を繰り返す。長らく争いが続いているが故に、ほとんどの河川は治水工事も満足に行なわれず、荒れるがままに放置されて久しい。従って、夏の間ばかりは戦もなく、「静寂の夏」などと呼ばれる所以となっている。

 しかし、夏の雨が間遠になり、秋の気配がちらつき始めると、俄かに慌しい空気が流れ始めた。離宮の警備に割かれる人員が目に見えて減り、それと反比例して警戒の度合いは上がる。ついに再び戦端が開かれたのか。気にかかりはするものの、尋ねる相手も居ない幽閉状態ではどうすることもできない。

 夏の間中宮を空けていた王女も、ついぞ帰らぬままだった。手持ち無沙汰が為に勝手に世話をしてきた、彼女が植えようとしていた花壇の花も、粗方が散ってしまった。


 王女が久方ぶりの帰還を果たしたのは、ある秋の夜ことだった。

 その時は既に時刻も夜半に近く、離宮の外で彼女を含む何人分かの声が飛び交うのを聞き、珍しいことだと思いはしたが、特別何らかの行動に出ようとも思わなかった。相変わらず、私の立場に変化はない。よって、〈三ノ剣姫〉の帰還を迎える道理はなく、友好的な反応を示せるはずもなかった。

 屋外の声が途絶えると、再び離宮は常の静寂を取り戻す。……しかし、それはすぐに破られることとなった。

 初め、私はそれが何の為に発生した音であるのか、理解することができなかった。

 何かをひっくり返すような、重くけたたましい音。音源は私の部屋からも、そう遠くはない。警備部隊に囲まれ、様々な術式で守られた第三王女の離宮に夜盗なぞ入る余地はないはずだが、事実として尋常ならざる音が上がっている。間借りしている身として状況確認くらいはしておくべきかと、部屋を出た。

 明かりの絶えた廊下は、夜の闇に沈んでいる。音の発生したと思しき方角へ向かって足を進めて行くと、やがて闇に近い暗がりへ細く漏れる光があった。頭の中で自分の歩いてきた距離と方角を宮の内部の配置と照らし合わせ、明かりの灯された部屋の詳細を導き出す。その最中、いつしか自分が顔をしかめていることに気がつく。

 なるほど――その部屋は、王女の私室だった。

 藪蛇になりはしないか、余計な厄介ごとを抱える羽目になりはしないか。首を突っ込むべきか否か。巡る思考に反し、逡巡は一瞬で終わった。敢えて足音は高く、足を進める。気配を隠すことはできない。してはならない。

 衝動的に歩き出してしまった私には、引き返す理由が必要だった。例えば、訪ねた部屋の主に入室を拒否されるような。

 閉じきらずにいる扉の、わずかに開いた隙間から零れる光の中に立ち、手を伸ばす。自分の手がかすかに震えていることに、その時初めて気がついた。一度強く拳を作り、再び手を開いてから――ゆっくりと、軽く、扉を叩く。

「……夜分遅くに失礼する。尋常でない物音が聞こえたが、第三王女殿下、あなたか?」

 問い掛け、耳を澄ませる。部屋の中には確かに気配はあるが、返事がない。殿下、と再び声を掛けようとすると、

「ああ、うん、私だ。騒がしくして、申し訳ない」

 その声を聴いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。

 何でもないよ、と応じる声の、何と細いことか。かすれ、苦しげで、喘鳴すら混じっているような。その何が「何でもない」ものか!

「――失礼!」

 そこからはもう深く考えるよりも早く、身体が動き出していた。短く告げ、扉を押し開ける。

 天井に設置された、精緻な細工の施された光術灯の投げかける白い光の下で、王女は小さなテーブルを巻き込む形で倒れていた。不幸中の幸いか、テーブル自体は破損していないようだが、その上に載せられていたらしい花器の類が投げ出されたらしく、少し離れた床に砕けた玻璃の破片が散らばっている。ふらついて支えにしようとしたが、一つ脚のテーブルが均衡を崩し、諸共に倒れた。そんなところだろう。

 歩み寄っていくと、王女は上体を起こし、困ったような曖昧な笑い顔で私を見上げた。

「格好の悪いところを、見せてしまった」

「……負傷と無縁でいられる兵など、いるものではない」

 右目の下には赤い擦過傷、手や指にも治療の痕跡が多々見える。この分では、表層からでは窺い知れぬ負傷もさぞ多かろう。極め付けが左腕の指先から肘まで分厚く巻かれた、術式を篭めた治癒帯である。

 術式の記述を見る限り、これは最早治癒などではなく再生に近い。この記述内容であれば、ほとんど失われた腕を一から再生するようなものだ。重傷も重傷、本来ならば外出などもっての外。絶対安静を命じられ、いずこかの一室にでも閉じ込められていてもおかしくはない。

 じくり、と胸郭の内側の何かが痛んだ気がした。――相手は、誰だ? 〈三ノ剣姫〉にここまで傷を負わせることのできるものなど、そうはいないはず……。

「この術式帯は只事ではないな。腕を落とされでもしたのか」

「落とされてはいない。けれど、似たようなものかな……。上手く捌けずに、手ひどく抉られてしまった。抉るというか、焼くというかだけれど。これでも、良くなってきた方なんだ」

「焼く? ……ああ、あれか」

 思い出されるのは、いつだか外の警備兵が噂していた一件である。

 トロヴァオ作戦。その根幹となる〈三ノ剣姫〉を打倒する為だけに開発された兵器が、そういった性質を有していたと記憶している。

「知ってい――ない訳がないか、あなたの国のことだものな。凄まじい代物だった」

 苦笑する王女の紙のように白い顔を努めて視界から外し、傍らの床に膝をつく。うつ伏せの状態から身体を起こそうとはしているものの、起き上がりきれないでいる細身の身体を抱え上げ、ベッドへと運んだ。

 断りは入れず、殊更配慮する風も見せず。ただ床に落ちていた物を拾うような、事務的な作業の一つのように。そう見えることを、願いながら。

 王女をベッドに下ろし、踵を返すと、細い声が「ありがとう」と紡ぐのが聞こえた。立ち止まり、しかし振り向きはしないまま言葉だけを投げ返す。

「このような状態で、傍仕えの一人もない離宮に戻るべきではない。その程度のことが、分からないはずはないだろう」

「そうだな、でも『恋しくなった』――なってしまった、のだと、思う」

「……何?」

「どうしても宮に戻りたいとお願いしたら、兄上が、そうおっしゃった。『仕方のない子だ、どうしても恋しくなってしまったのだね』と」

 離宮がか、と確かめかけて、すんでのところで呑み込んだ。

 自惚れだと言われればそれまでだが、そう問い掛け、違う言葉が返ってくるような事態は避けたかった。私はその空恐ろしい状況に、対処する術を持たない。……正しくは、失ってしまった。

「……夜が明けても状態に変わりがないのなら、人手のあるところへ移ることを勧める」

「それは嫌だな、早く治してしまわないと」

 かすかに笑声を含んだ言葉を背中で聞きながら、止まっていた足を動かす。入るべきではなかった部屋から廊下へと逃れ、閉まらずにあり、自らの手で開けた扉をしっかりと閉め直す。

 すぐにも割り当てられた部屋に戻りたかったが、やたらな疲労感が足を固めていた。動かぬ足の代わりに、閉めた扉へ背を預け、瞑目する。

「まずいことになった、か……」

 胸の中にわずか漂う感情を、認めたくはなかった。認めてはならないと、思った。

 祖国の最大の敵が生きていることに、負傷から回復してゆくことに、わずかとはいえ安堵を覚えてしまったなどとは。

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