火星の蛍と青の羅針盤

あいちゃん

第1話 11時24分21秒

 もう56時間32分21秒間もの間、11時24分20秒を指し続ける時計を手に歩く。

 私はあなたの光になります。あなたにとって大切な人は星の数ほどいるでしょう。しかし、そのなかで私は、一番輝く星になりたいのです。あなたは太陽の数しかいない。


 私は一人で時計をつけられない。私の利き手は左。利き手ではない方の手でリングにバンドを入れて、あんな小さな穴にあれ以外にない角度の金具を通すのは不器用な私にとって案外難しい。昔は龍太郎が着けてくれていた。とても丁寧に着けてくれた。あなた好みであればと買った藍色の腕時計。今はもう身に付けることもできない。与えられた本来の仕事も放棄して時間も教えてくれない。相も変わらず11時24分20秒ということをいつも教えてくれる。

 龍太郎、今なにをしているんだろう。まったく、仲の良かった男女が学校を卒業して疎遠になるというよくある話。よくある話のど真ん中。


 「なに、溜息なんかついてんの?幸せが逃げていくよ」

クラスで一番の美人の石神国子が急に話かけてくる。彼女は美人だ。驚くほど美人だ。彼女が転校してきたとき、教室の階級がひっくり返る音が聞こえたほどだ。一国の王女だった私は今じゃ日陰もの。

「え?逃がしてるの。周りの人たちが幸せになるように。」

「だれのことを考えているんだか。」

「は?」

「あっ、これ返すね。」

 国子がLサイズのポロシャツを渡してくる。私も国子も同時期に同じ飲食店のバイトを始めている。別に合わせたわけではないし、合わせられたわけではない。たまたまだった。偶然だった。近頃はなかなかに法令順守が徹底されているはずの飲食業界では珍しいテキトーな店長が、ストックが一つしかないという理由で明らかに大きいサイズのバイト着を私と国子で交代で着てくれと言って渡してきた。私がわずかに早く履歴書を送ったのに。サイズの大きいバイト着を着させられている小柄な女の子はたまに見るが、まさかそれを着まわしている人種は私らぐらいだろう。


「このあと、時間ある?」

「これから、時計屋さんに行くんだよね。」

「ふ~ん。がんばってね。」


 含みのある笑顔で私を見送る国子。何を頑張るのか。そういえば、「しのぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで」なんて一首があった。昔、ちはやふるのブームで百人一首の大会に参加していたから和歌は得意。でも、まさか無理やり覚えさせられた和歌と同じ状況になるなんて思わなかった。時代は巡ると言うけれど、これじゃ、あまりに進歩がなくていやになっちゃう。それに、あの和歌を作った人なんて百人一首に選ばれたから令和まで名前が残っていただけで、どうせあれ以外は大したことないはず。藤原定家に感謝しなくちゃね。自分に対する照れ隠しでそんな悪態をついてみたけれど、さっきの私はどんなに頭の悪そうな顔をしていたのかな。

 疎遠になった龍太郎は、まったくの疎遠というわけではなく、連絡を取ろうと思えばできなくはない距離間だ。中途半端がイチバンちょうどいい。私の状況もこの春に散るこの文章も。気にならないというと嘘になる。しかし、知らない方がいいこともある。知ることの責任の重さはみんな隠して生きているはず。たとえば、シリアの紛争地域にアシリナという街がある。ここは、毎日500人以上の人々が餓死で亡くなっているらしい。今、この事実を知ってしまったらもう他人事ではいられない。人であれば、共感する。何かしたいと思うはず。それぐらい知ることはリスキーなんだ。知っていながら、知らないふりはできない。この事実を知ったすべての人のこれからの人生を規定する。知るというのは残酷だ。といっても、シリアのその何とかって街なんて今私がテキトーに言っただけ。天文学的な数値でたまたまアシリナという街があるかもしれないが、たぶんない。良かったでしょ。責任の大きなことを知らなくて。自分に言い聞かす。


雑種の螢惑のホタル、傾国の美女に勝つ。


足跡のない蛍になる。


青い炎が燃える。


 ぎこちなく私は一人で時計をつける。時計は右回り。天体は左回りに回る。11時24分21秒を針がさす。私の青い羅針盤の針が〇〇を指す。

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火星の蛍と青の羅針盤 あいちゃん @aichan31

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