第2話 見えない同居人

アパートの部屋を出た後すぐに矢尻が事前に手配していたらしい引越し屋がやってきた。

俺は目を点にして自分の部屋の荷物がどんどんトラックの荷台に積み込まれていくのを無言で見つめる。大した量のないそれは直ぐに積み終わってしまい、こちらが口を挟むまでもなく「では!」と颯爽と走り去ってしまった。


「え?ではって!俺の荷物どこに持ってくんだ!?」


どんどん小さくなるトラックの後ろ姿を見つめていると、アパートの大家と話していた矢尻がいつの間にか隣に立っていた。


「荷物はここから三十分くらい離れた場所の一軒家に運ばれるように手配してる」

「何だそれ。俺まだ家の契約とかしてないし、あの引越し屋も連絡した覚えないんだけど」

「家の契約は大丈夫。引越し屋の代金もアンタのお兄さん持ちだから、金のことは気にしないで平気だよ」


自分の知らないところでどんどん進んでいる話に着いていけず、頭が痛くなる。


「頼むから、俺にも分かるように一から説明してくれないか?」

「んー、じゃあ駅前の喫茶店でも行かない?立ち話で話すには天気も良くないし」


立ち込める雲は更に空をどんよりと埋めつくし、今にも雨が降り出してきそうだった。腑に落ちないながらもその提案に賛同すると、矢尻はにんまりと胡散臭い笑みを浮かべて駅前への道へと歩を進めた。





駅前に着くと矢尻は迷うこと無く人通りの少ない路地にある雑居ビルに入っていく。事務所などの看板がいくつか付けられたそこは、一見して飲食店が入っているようには見えなかった。

特に会話のないまま取り敢えず着いていくと、ビルの一角にひっそりと間取りをとっている古びた喫茶店があった。スタンド式の看板には『喫茶 マラカイト』と刻印されている。矢尻は当然のようにその扉を開けて中に入ったため、同じように店内に歩を進める。

いかにも純喫茶といった雰囲気で来たこともないのに懐かしい気分を味わう。コーヒーの香ばしい匂いと共に、柔らかな橙色の照明が俺たちの入店を迎えている。


「いらっしゃいませ」

「二人。喫煙席で」

「あちらの窓側のお席にどうぞ」


店内はチラホラとお客がいるが一人の時間を過ごしている人がほとんどで、控えめにかけられたジャズの店内BGMが聞こえるくらいだった。

入店した俺たちに気がついて初老の男性が声をかける。きっちりとしたオールバックに、清潔感の漂うバーテン服という物語から出てきた見本のような喫茶店のマスターだ。

物腰の柔らかそうな口調で席に促され、二人で窓側のテーブル席に座った。


「煙草吸うのか」

「吸わないよ」


当然のように喫煙席を選んでいたため、喫煙者なのかと思ったが予想外の返答に首を捻る。


「何で喫煙席にしたんだ?」

「アンタが吸うかと思って…吸わないの?」

「俺も煙草は吸わないんだけど」


喫煙者でもない二人で喫煙席に座っているという謎の状況だったが、矢尻は「そっか」と一言だけ呟いてからメニューを見始めてしまったため特に追求出来なかった。

どうにもこの男のキャラクターを掴みかねている。何を考えているか、何を見ているのかも分からない。時折まるで別の種族の生き物と話している気分さえ感じる。


「ここにはよく来るのか?」

「まあね。静かだし、ここのピザサンドとフルーツオレがすごく美味いから…針山さんはどれにする?」

「じゃあ俺はミルクティーにするかな」


矢尻は慣れた様子で近くを通り過ぎたウェイトレスに注文を告げると、一息ついてからこちらをじっと見つめてきた。またこの目だ。夜の海みたいに深くて暗い色がこちらの中身を見透かそうと覗き込んでくる。


「それで、さっき言っていた説明をしてもらってもいいか?」

「もちろん。実は昨日針山さんのお兄さんから電話が入ってさ。アンタが退院するっていうのを聞いて慌てて俺に電話したみたい。それでアンタが実家には戻らないって事を伝えたら、もう電話越しで大発狂しちゃって困ったよ」

「…それは、すまなかった」


もともとは親戚といえどほとんど他人の矢尻を巻き込んでしまっている事に、罪悪感を感じる。


「俺は別に気にしてないから大丈夫。それでアンタに内緒で引越し先を決めて欲しいって頼まれたんだ。だけど一日二日で、尚且つ本人でもない俺が針山さんの家を勝手に契約する訳にもいかないから…お兄さんにも相談して俺の家で一緒に住めばいいって話に落ち着いたんだよね」

「ええ!?」

「俺の家は平屋の一軒家なんだけど両親も田舎に引っ込んじゃったから、今は独りで住んでるんだ。た。ちょっと古いのを除けば結構いい家だよ。小さいけど庭ついてるし」

「いや、待ってくれ。こんな大事な話、普通本人不在で進めるものか?それに見ず知らずの俺を家に住まわせて、君はそれで大丈夫なのか?」


もう彼の常識がバグっているのか、自分が的はずれなことを言っているのか分からなくなってきた。

世間話でもする程に軽い口調で話される内容とは到底思えない。

困惑した様に問い詰めれば、矢尻は少しだけ目を細めながら椅子の背もたれに寄りかかった。年季の入った椅子からは少しだけ軋む音が聞こえる。


「じゃあ針山さんは、この前言ってたみたいに家を探すまではネカフェ生活するのが得策だと思うの?貯金とか全然ないんでしょ?今月分の光熱費と家賃だって払ってない人間が、引越し代金諸々すぐに払えるとは思えないんだけど」


ぐさりと矢尻の言葉が胸に突き刺さる。

金銭面の話を出されると、彼の言うとおり完全に首の回らない状態に陥っていることは確かだ。

グウの音も出せずに、思わず彼の真っ直ぐな視線から顔を背けた。


「あの時点で実家に帰りたくないってことは家族に迷惑もかけたくないってことでしょう」

「そりゃあ、社会人になったのにまた家族に甘えるのは嫌だけど…でもこれじゃあ結局矢尻さんに甘えているのと一緒だし」

「別に俺だって見返りなしで住まわせようとは思ってないよ。家賃も一応取るつもりだし、それにアンタが一緒に住んでくれると俺にとってメリットがあるんだ」


その声がやけに嬉しそうで、一体どういうことか確認しようとしたが、丁度注文していた熱々のピザトーストと飲み物が運ばれてきてその会話は一旦打ち切りとなった。

ピザトーストをあっという間に平らげてしまった矢尻とともに、彼の家に向かう事になった。

この生活感の薄い男の家というのが全く想像できず、もしお化け屋敷みたいな家だったらどうしようと不安になる。しかしバスと電車を乗り継いでついた先には、なんとも普通の住宅地にある少し古びた平屋の一戸建てがあるだけだった。

昔ながらの瓦屋根に、ブロック塀で中までは見えないが確かに庭もあるようにだ。


「想像していたのと違ったって顔しているね」

「え!?あ、いや、そんなことはないけど。立派な家だなって思って」


にんまりと弧を描いた矢尻の顔が俺を覗き込む。思っていたことを当てられてしまい思わずひるんだ声が漏れた。

しかし気にした様子もなくそのまま家に入ろうとする矢尻についていく事にした。玄関で鍵を開けようとしている背中を横目に、先ほどは外から確認できなかった庭の方に視線を向ける。

雑草がちらほら生えておりあまり手入れされていない様にみえるが、その庭には一際目立つ民家に生えているのは珍しい大きさの木が一本植わっていた。植物の知識について明るい分けではないが、おそらく桜の木の様だ。


「針山さん?」


いつの間にか玄関を開けて俺が入ってくるのを待っていてくれた矢尻が不思議そうな声をあげる。


「ああ、すまん。おじゃまします」


直ぐに視線を桜から離して家の中に上がる。玄関は石畳で、本当に昔ながらの一軒家という雰囲気だった。俺の実家はもともと分譲売りマンションの一部屋だったため、こういう雰囲気の家にくると物珍しさがある。

外観からも思ったが本当に独り暮らしでは使いきれない程に広い家だ。

案内されて少しだけ軋む廊下を抜けて居間に通された。割と片付いている部屋の中には大きな本棚がいくつも置いてあって、そういえばこいつが小説家だと話していたことを思い出した。


「これって矢尻さんが書いた本とかも置いてあるのか?」

「いや、自分の書いた本を見るの苦手でさ。出版社から送ってきてもらった分は全部押し入れにしまってあるんだ」

「へえ、そういうものなのか」

「適当に座ってて。なんか飲み物取ってくるから」


そういわれて素直に部屋の真ん中に鎮座していたちゃぶ台の傍に腰を下ろす。部屋を見回すが本棚と、恐らく小説を書く作業に使うのであろうデスクトップパソコンが書き物机の上に置いてあるだけだった。

居間の横には少し日に焼けた障子を挟んで廊下があり、その向こうには先ほど見ていた庭が見えた。とうとう天気が崩れて、先ほどよりも暗くなった空から雨粒がパラパラと降り始める。

一人になった部屋の中にはかすかな雨音が窓ガラスを叩く音と、部屋の壁に掛かっている時計の秒針の音だけが響く。

人の家ではあるが落ち着く静けさだ。思わず目の前のちゃぶ台に突っ伏して目を閉じる。久々に外にでたせいかも知れないが疲労感がどっと体に押しかかってくるのを感じた。

強烈な眠気に襲われ、ゆっくりと思考がぼやけていく。

浮かんでは沈む意識の中で、俺は変わった夢を見た。

ちゃぶ台の向こう側に優しそうな男の人が座っていて、俺の頭を優しく撫でてくる夢だった。年のころは恐らく俺と同じか、もしかしたら三十代くらいかもしれない。見た事の無い男の人だったが、昔から知っている様な既視感があるのが不思議だ。その人は本当にうれしそうに眼を細めて頭をなでるものだから、俺は嬉しさで胸がいっぱいになる。

男は何も言わずにただ照れくさそうに笑いながら時折髪に指を絡ませながら、頭をなで続けた。

しばらくそうしていたが、次に気が付いた時にはあんなに重たかった瞼がようやく辛うじて開く。


「大丈夫?」


覗き込んでくる真っ黒な瞳は先ほどまでの男とは正反対の色を湛えていて、慌てて体を起こした。人の家に着くなり居眠りをかましてしまった罪悪感に、矢尻の顔を見詰めるが言葉が喉に詰まってしまい何も言えない。


「そんなに慌てなくても大丈夫だよ。病み上がりで体力無くなってたんでし、それ以前にもう今日からここは針山さんの家でもあるんだから」

「…すまない」

「それで?何かいい夢でも見た?」

「え?」


じっと何かを探るような視線が向けられる。

どういう意図なのかは分からないが、先ほど喫茶店で言っていた矢尻の言葉がふと頭をよぎる。


『アンタが一緒に住んでくれると俺にとってメリットがあるんだ』


あの言葉と何か関係があるのだろうか。

先ほどの夢に出てきた男の姿を思い浮かべる。夢特有のぼんやりとした記憶の中で顔をはっきり思い出すことは叶わなかったが、柔らかく人好きのする笑顔を浮かべていたことは思い出せた。


「いや、特に。どうしてそんな事聞くんだ?」

「…針山さんがあんまりだらしない顔で寝てるから、少し気なっただけだよ」


平静を装った矢尻の言葉になんだか余計に裏がある様に感じて俺はそれ以上追及することをやめた。恐らく何か詮索されたくない理由があるのだろう。

「それじゃあ針山さんはこの部屋使って。一応客間として使ってたからあんまり使い勝手がいいかは分からないけど。他の部屋とか台所も勝手に使って大丈夫だし、俺は大抵居間で過ごしてるから分からないことあったら声掛けて」

「分かった。ありがとう」

「…」


引越し屋が持ってきた荷物は矢尻が案内してくれた部屋に運び込み、一段落したところで矢尻はそう言った。俺が礼を言ったあとも何を考えているか分からない視線がしばらくこちらに向けられていたが、何となく気が付かないふりをした。

少しすると部屋の襖が閉まる音がして、矢尻の気配も消える。怖々と背後を確認して彼が部屋から出ていったことに安堵の溜息を零す。

住む所を用意して貰ったのは素直に有難いが、数日前に出会ったばかりの人間とひとつ屋根の下に暮らすことにイマイチ実感が湧かない。

部屋の中を見回す。客間と言っていたが部屋の中には小さな書き物机以外に家具すらも置いていない。

自分の家には客間なんていう豪勢な部屋は無かったから、これが普通の客間なのかも分からない。

庭の方に向いている窓を少しだけ開けると、雨の日特有の土の匂いのする空気が部屋に入ってくる。徐々に強くなってきている雨を確認してから、そっとまた窓を閉めた。


「あ」


病院から出てから一度も触っていなかったスマートフォンを鞄から取り出すと、予想通り不在着信が兄ちゃんから何度か入っていることに気がついた。

最後の着信はつい数分前で、俺はコールバックのボタンをタップした。

ワンコール目の呼び出し音が終わる前に、聞き慣れた声が返ってくる。


『忠志!もしもし!?』

「もしもし。兄ちゃん?全然連絡できなくてごめん」

『体は大丈夫か?』

「もう退院もしたし体調は大丈夫だよ。それより矢尻さんの事なんだけど…」

『ああ、矢尻の家に一時的に住むことになったんだったな。心配しなくとも引越しの費用とかは兄ちゃんが全部払っとくし、今度の休みの日には一緒にちゃんとしたアパート探しに行くからな』


矢尻の言っていたことはどうやら本当の事だったようで、兄は心配そうな声色のままで話し続ける。


『お前は昔から変な奴らに好かれやすいから心配だ…っとすまない、忠司。仕事の連絡が入ってしまったから一回切るぞ。また手が空いたらかけるが、何か困ったことがあったらすぐに連絡するんだぞ』

「ああ、うん。分かった」


本当は矢尻がどんな人物かが知りたかったのだが、せわしない様子の兄の時間を割くのにも罪悪感があったためそのまま通話を切る。

結局俺は、矢尻という男の事を何も知らないままだ。

少し日に焼けている畳の上に寝転がる。本当に体力が落ちてしまった様で、立ったり座ったりしているだけでも体にのしかかるような倦怠感を感じた。

ゆっくりと目を閉じる。

窓を叩く雨粒の音だけが聞こえて、先ほどまで寝ていたのにまた睡魔が襲ってきた。

体がふわふわと宙に浮かんでいる様な心地よい感覚に身を委ねる。徐々に雨の音さえも遠のいていく気がするのと同時に、自分の意識だけは妙にはっきりしてくることに気が付いた。

体は睡眠状態に入っており指先一本動かせないのに、頭の中は覚醒している不思議な感覚。

徐々に閉じているはずの瞼の裏側にうっすらと光が見え始めた。ぼんやりとしたその光は徐々に瞼全体まで広がり、まるで目を開けている時の様に部屋の中の風景が見えるようになった。

こんなに意識ははっきりしているのに夢を見ているのだろうか。やはり先ほどと同じで体は自分の意志では動かせないため、閉じたままの瞼の下でその部屋の中をくまなく眺めてみる。部屋の間取りは眠りに落ちる前と同じ様だが、寝転んでいる畳や木の柱は先ほどより真新しい色合いをしている事に気が付いた。

夢の中だからだろう。先ほどまで降っていた雨は止んでいて、窓の外に見える桜の木は花こそ咲いていないものの澄んだ青空を背景に誇らしげにたたずんでいる。

しばらく部屋を眺めていると、ふと自分の背後の襖が開かれた音がした。

これは夢か現実か、頭さえ動かせない俺には背後を確認することができないため分からない。今度はゆっくりと静かに襖が閉まる音が閉まる音がしたが、自分以外の人間がこの部屋に留まっている気配は感じる。

体は動かないまま、その気配の正体が何なのか見える範囲の視界に焦点を彷徨わせるしかない。

畳の上をするように動く足音は俺の頭の後ろあたりで止まり、正面にある畳にうっすらと影が落ちる。どうやらその人物は俺の後ろで座り込み、顔を覗き込んでいる様だ。


「いい子だね」


動けない恐怖とは裏腹に直ぐ耳元で聞こえてきたのは優しい男の声だった。その声を聴いた瞬間に先ほど居間で居眠りをしたときに夢に見た青年を思い出す。

顔は見えないものの、何故だか声の主が彼であることは理解できて、少しだけ安心した。するとすぐに壊れ物に触る様な柔らかな手つきで髪の毛を撫でられる。夢なのか、現実なのか。その感触は凄くリアリティがあるのに、どこかふわふわとした実態のないものにも感じる。

不思議な感覚だ。

昔、父さんから古いものや家には使った人の記憶とか歴史が宿るという話を聞いたことがある。それがふとした瞬間に近くに居た人に追体験をさせる…なんて不思議なエピソードもあるそうだ。

もしかしたらこの家も大分古そうだから、この景色や感触は以前に住んでいた人の体験した思い出の追体験なんだろうか。

流れ込んでくる暖かい風も、眠くなるような優しい手も、生気に満ち溢れているあの桜の木も。相当幸せな思い出が、家の端々に残っているのだろう。

目頭が自然と熱くなってきて、両目から涙が次から次へと流れだす。

俺のアパートに居た彼女も、傍にいる青年も人間の強い思いの産物だと思った瞬間に感動がこみ上げてしまった。


「泣かないで大丈夫。君はいいこ、いいこだね」


青年は少しだけ困ったように俺の頭をなで続けた。

徐々に疲れが勝ってしまったのか俺の意識はまた徐々に遠のいていく。夢の中で意識を失うなんて、これまた珍妙な現象だ。しかし抗いがたいその感覚に俺はそっと身を任せるしかなかった。

「針山さん」


目を開けると、寝転がった俺を覗き込んでいる矢尻が見えた。

一瞬思考が停止するが、直ぐに矢尻の家に居候を始めたばかりだというのに気が付いて、慌てて起き上がる。夢とは違い当然の様に体の自由はきいたが、加減を間違えて勢いよく起き上がったせいで眩暈がした。


「大丈夫?」

「ああ、ちょっと低血圧っぽいだけだと思う。すまない」

「まだ病み上がりだからね。無理しちゃだめだよ。寝起きでどうかとは思ったんだけど、晩御飯作ってみたんだけど食べれそう?」


そっと背中に添えられた掌の暖かさを感じる。

少しだけ目を閉じると少しづつ眩暈は収まってきて、矢尻の顔を見ることができた。


「矢尻さんって料理とか作れるんだな」

「いや、そんなに大したもんじゃないよ。オムライスとサラダしかないけど、それでも良ければ一緒に食べよう」

「ありがたくいただくよ」


矢尻の肩を借りて居間に移動すると少しだけ不格好に卵が破れているオムライスが二つ、机の上に並んでいる。湯気を立てているそれは出来立てらしく、見ているだけで腹の虫が卑しい事に鳴いてしまった。

食卓について、早速スプーンを持ったところで先ほどの夢の事を思い出す。

日中はどこまで立ち入って聞いていいものか分からず話さなかったが、今目の前で少しだけ楽しそうに笑っている矢尻を見た俺はついその話題を口にした。夢の内容を聞いて矢尻は微妙な表情をした。

困ったような、それとも嬉しそうな、あるいは心配するような。その表情から俺が読み取れる事柄は、もしかしたら自分は余計な話をしてしまったのではないかという事だけだった。


「やっぱり針山さんをこの家に連れてきてよかったよ」


俺がオムライスを半分ほど食べたところで矢尻は口を開いた。彼の皿はすでに空っぽで、コップに注いであったお茶を一気に飲み干す。


「どういうことだ?」

「その針山さんの夢は、この家の記憶だよ」

「記憶?それってやっぱりあれか?以前の持ち主が思い入れをもっていた物とか家とかに歴史が刻みつく…ってやつか」

「まあそんなもんだね。サイコメトリーを使って行方不明者を探すときに霊視をするために、本人の遺留品に触れることで過去の事を言い当てたりするじゃない。そういうのが物とかの記憶だね。今回の針山さんの夢は十中八九この家の記憶にアンタが干渉を受けたものに違いないと思う」


ごくり、口に運んだオムライスを飲み込む音がやけに大きくこだました。

矢尻と出会ってから俺は随分と不可思議な現象に出くわしていると思う。


「じゃあ俺は超能力者みたいな力があるってことか?」

「超能力というより針山さんは霊媒体質だからね。共感しやすいタイプってやつ。そういう人って周りからの影響を受けやすいから、寝ている時なんかの意識の浮き沈みが激しいタイミングで憑かれたり見えたりしやすいんだ」


あっさりと超能力説を否定され少しだけ落ち込む。しかしながら今回の様な影響なら悪くないかなんて考えてしまう。

前の家人の幸せな記憶を見させられるだけなら怖くもないし、体調に影響を及ぼすこともない。

思い出しただけで胸の奥が暖かくなる感覚に、思わず頬が上がるのを感じる。


「…こんなこと、ここに連れてきた俺が言える資格はないとは思うんだけど」

「え?」

「以前も病院で言ったけど、同情や共感をすることがいい結果につながるとは限らないよ」

「なんだ?どういう事だ?」


俺の顔を見ていた矢尻は視線を逸らしながら、しばらくの間何も言わなかった。昼間も感じた何かを隠そうとするその様子に、俺はまた踏み込んでいい境界線を見極めきれない。

じっと矢尻の顔を見詰めると、とうとう向こうが折れたのかゆっくりと口を開いた。


「針山さんが見た記憶は十数年前のこの家の記憶なんだ。もともとここには一人の小説家の男が住んでいて、話を聞く限り針山さんの夢に出てきている男はその小説家だと思う」


一人暮らしの小説家がこの家に住んでいたというのを聞いて、まるで矢尻の様だと思う。代々小説家が住んでいる家なんて、この家にはインスピレーションを掻き立てられる何かがあるんだろうか。

矢尻は目を逸らしたままでつづける。


「小説家はある日庭にある桜の木が一向に咲かないことが気にかかった。春が来て、夏が来て、秋が来て、季節が巡ってまた春が来て。何年も待ったけどあの木に花が咲くことはなく、男は年月を重ねる毎にあの桜が咲く姿がどうしても見たくなったんだ。植物様の栄養剤を撒いてみたり、水を毎日やってみたりもしたがそれでも一向に咲かない」

「桜って、今も庭にあるあの桜か」

「そう。あの枯れ木の桜だよ。確かに春になっても全然咲かないからこの前業者に見て貰ったら中は虫に食い荒らされてスカスカになっているせいで、もう完全な枯れ木なんだってさ。恐らくその小説家の男が住んでいる時からそうだったんだろうね」


確かに夢の中の桜も花をつけている様子はなかった。堂々とした佇まいに生き生きとしているようには見えたが、見えない気の中は虫に侵されていたという事なのだろう。


「でも男はどうしてもあの木が満開の花をつけている姿が見たかった。何本か賞を取ってた作家だったけど、桜の木に入れ込み始めてからは執筆活動もおざなりになってしまってね。自分の食事も忘れて毎日桜の木の木の世話をしていたくらい。でも花は咲かない。そこで男はある小説の話を思い出した。満開の桜の木の下には屍体が埋まっているっていうところから始まる短編小説だった」

「その話って小説なんだな。都市伝説かと思っていたけど」

「もう精神的におかしくなっていた男はその話に則ってみることにした。自分の小説のファンで家に通っては甲斐甲斐しく世話を焼いてくれていた近所の女学生を監禁して、殺害した後に庭の桜の木の下に埋めた」


嫌な事件だ。十数年前の事件だからか聞いたことの無い話だったが、この家が現場だと思うとぞっとしてしまう。


「待ってくれ、矢尻さん。でも俺の夢はもっと幸せそうな夢に見えた。あの夢はきっとその女の子から見た景色だったんだと思うけど、男の人も優しいしとても殺人をしそうな感じの人にはみえなかったぞ」

「針山さんが部屋で寝てしまった時、横たえられた体が動かなかったのは何故だろうね。急に涙があふれてきてしまったのは何故?もしアンタの夢が家の記憶だとしたら、針山さんの意志や気持ちは夢にはなんの影響も及ぼさない」

「つまりどういう事だ」

「はっきりというなら、彼女はあの客間で縛られ身動きが取れなくなり恐怖で泣き喚いたところを男に殺害されて、木の下に埋められた。そしてアンタが見た夢はその死の間際の家の、いや彼女の記憶ってことになるね」

「そう、なのかな」


本当にあの時感じた感情は俺の勘違いだったのだろうか。

もう暗くなった空の下で佇んでいる桜に目を向ける。あの足元に埋められた女生徒が居た。


「分かってるとは思うけど、もう遺体は無いから。彼女の家族が捜索願を出して、ちょうど遺体を埋めている作家を警察が見つけて事件が発覚してね。遺体もちゃんと家族の元に返したって当時の新聞記事に書いてあったよ」


ぼうっと見つめていた桜の木はやはり綺麗な花が咲くことは無かったけれど、自分の命であの木が綺麗に咲き誇るなら、それはなんて素敵で恐ろしいことだろうか。

耳元でザクザクと、少しぬかるんだ土を掘る音と男の泣いている荒い息遣いが聞こえる気がした。

なんで彼はーー先生は泣いているのだろうか。俺が埋まれば桜はきっと華やかに咲き誇る姿を見せてくれるのに。喜ばしいことではあっても悲しむことなんて微塵もないのに。

冷たい土が顔にかかる感触がする。先生が頬を撫でてくれたのと同じくらい優しく、土は俺の顔を覆っていく。

大好きな先生と、この尊き桜の木の為になれるなんてなんて『私』は幸せ者なのだろう。


ぱちん

今だに桜の木に釘付けになっていた俺の目の前で、矢尻が両手を打ち合わせた。相撲の猫騙しの様で、思わず矢尻の顔をまじまじと見詰める。


「針山さんならこの家の記憶を見ることができると思ったよ。本当にその飛び抜けた共感心には恐れ入るね」

「俺、今、何考えてた?」

「俺は超能力じゃないからアンタの頭の中までは分からない。でも、もう思い出さなくてもいいくらい針山さんには関係の無い記憶だ」


関係ない。今の今まで考えていた思考が一気にぼやけてくる。

「それで、矢尻は俺をこの家に連れてきてどうしたかったんだ?君はこの家に俺が来たらこうなるって分かってたみたいだけど」


俺の言葉に矢尻はなんでもない事のように口を開いた。


「取材だよ。小説家だって言ったでしょ」

「取材」

「いたいけな女生徒を手にかけるイカれたサイコパス文豪なんて、ミステリアスでいい題材だと思ったんだけど。針山さんを見ていると、どうやら少しだけ話の路線を変えないといけないみたいだね」


初めから利用されることは分かっていたため、俺は純粋に矢尻の言葉を不思議に思う。

彼は俺より霊感があって、普通の人間が見えないものを見ることが出来る。それなのに俺をこの家に連れてきて態々、あの記憶を見させる意味があるのだろうか。

自分で見たことを書籍にした方が、もっと忠実で臨場感に溢れる文章がかけるのではないだろうか。


「どうして自分が頼られたのかわからないって顔してるね」

「ああ。君くらい霊感があるなら俺なんかに聞かなくても、全て分かったんじゃないか?」

「それが出来ればよかったんだけど。俺はこの家に来て1ヶ月くらい経つけど、この家の記憶が見れたことがないんだ」


矢尻は寝癖がついている頭をかきながら表情を歪める。


「俺は見えはするけど幽霊から好かれるタイプでは無いから、この家のお眼鏡に叶わなかったんだろうね」


そして言葉の最後に彼は感情を失った人形の様な表情になり、すうと細い息を吐き出した。


「焚火の燃えカスみたいな奴らが、随分と舐めた態度をとってくれるよね」


その声は俺に対して話しかけるというよりは独り言の様で、いい返事が出てこなかった。淡々とした言葉は空気に混じって、この重苦しく後味の悪い余韻だけ残して消えてしまう。

時折見え隠れするこの男の不気味で人間性を欠如した言動に、俺ははっきりと彼に対する恐怖を覚えた。

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人生は憑かれることばかり えたの @subasaya2

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