人生は憑かれることばかり

えたの

第1話 幸せを壊す足音が聞こえる

どんどんどんどん

どんどんどんどん


玄関の扉を激しく叩く音がする。もはや叩いているという表現よりは殴っていると言った方が正しいかもしれない程の音だ。


どんどんどんどん


築四十年のアパートの扉がその外からの圧力に耐えかねて、徐々に軋みを上げるのをじっと見つめる。外に居るであろう恐ろしい存在を扉越しで睨みつけるが全く効果はなく、徐々に扉を叩く音が強くなっている気さえしてくる。

俺はなるべく音を立てずに隣で俺を怯えた様子でじっと見つめてくる妻に、小さくうなずく。自分はどうなっても良いが彼女だけでもこの部屋から逃がしてあげなければ。

それは信じられない程怖がりで小心者の俺が出したとは思えない程男らしい決断だった。


ドンッ


扉が一際大きく揺れる。

同じくらいの大きさの衝撃が、先ほどよりは少し時間を空けて何度も何度も扉を打ち付けている。恐らく手で叩くのをやめて足で扉を蹴りつけているのだろう。

玄関の振動が伝わってきているのか部屋の畳も揺れている様な錯覚に陥る。自分の心臓の音が大きく聞こえているのか、蹴破ろうとしている悪魔の足音が聞こえているのか。

背筋は総毛立ち、額からは冷たい汗が一筋流れ落ちた。


「大丈夫。君には手は出させないよ」


自分の喉から出た声は信じられない程に掠れて震えていたが、妻は俺の目をしっかりと見つめてコクリと頷き返す。




俺たちがなぜこんな恐ろしい目に遭っているかというと、話は一か月前に遡る。

今年で二十八歳になった俺は可愛らしくて優しい妻と結婚をした事をきっかけに、今まで世話になっていた実家を出て彼女と二人暮らしを始めた。

医療機器メーカーで働いていた俺は朝から晩まで上司の無理難題を引き受け、営業先の病院の医師に冷たくあしらわれながらも家に居る妻の為に精一杯働いていた。きっと家で妻が待っているという希望が無ければ俺は直ぐに精神を病んで居たかもしれない。

そんな俺を妻は優しい笑顔で出迎え、時折零す愚痴に天使の様な柔らかな表情でそれを聞いていた。自分には本当に出来た嫁だ。

勤めていた会社は世間で言うところの所謂ブラック会社で、給料も安かったため神奈川にある古びたアパートの中で俺たちは過ごしていた。家具だって日常生活に最低限必要な家電くらいだったが、彼女は文句も言わず「あなたと一緒ならどこでも素敵なお城よ」と言ってくれた。

しばらくそんな細やかな幸せを堪能していた俺達だったが、ある日突然に彼女が少しだけ表情を曇らせて俺に相談を持ち掛けてきた。


「実はここ数日変な電話が家にかかってくるの」

「電話?どんな」


夜十時に仕事から帰ってきた俺はハンガーにスーツを掛けながら、妻の様子を伺う。いつもの穏やかな笑顔はそこにはなく、そんな表情を見たことの無かった俺は彼女の前に座り込んだ。


「それが私が電話に出ると凄く怒鳴り声がして切れてしまうの。なんて言っているか分からないんだけど、すごく怒っている様で…」


彼女はその電話を思い出したのか少しだけ肩を震わせている。

そんな様子に彼女を安心させようと思い自分が出せる限界の明るい声を出す。


「そんな酷い悪戯電話なんか無視しよう。ここに引っ越してきてから新しい固定電話に変えたから、きっと誰かの間違いの電話なんだよ」

「そうかしら」

「きっとそうだよ。そうだ。明日は電話を留守番電話にしておこう。俺が帰ってきたら聞くから、君は出なくて平気だよ。あまり酷い様なら電話番号を変えてもらえばいいんだし」


ね、と彼女の同意を得るように見つめれば、先ほどの緊張が少し解れたのか彼女がそっと首を縦に振った。


「私、あなたとこうやって普通に過ごすことが一番の幸せなの」


恥ずかしそうに頬を赤らめる様子に、愛しさがこみ上げるのを必死に抑えながら務めて冷静に笑顔を作る。

ああ、俺の奥さんはなんて可愛いんだ。


「もちろん、一生幸せにしてあげるからね」


俺の言葉に彼女はまた頬を桜色に染めて、伏し目がちにそっと頷いた。




次の日、会社に行くといつも通りパワハラ上司が俺の顔を見るなり、それが客前に出る顔かといちゃもんを付けてきた。始業時間1時間前から来ててんこ盛りの仕事を先々に片づけている人間が、そんなに意気揚々とした表情ができる訳がないのだ。

その後もスーツに皺が付いているだとか、目が充血してるだとかなんやかんや理由をつけて俺に文句を言いたいのだろう。スーツはいつも妻がアイロンをかけてくれているし、顔色だって朝玄関を出る前に妻がチェックしてくれていた。

上司の言葉を話し半分で聞き流しながら、直ぐに外回りに出る。今日は近くにある病院が新しく病棟を増設したらしいため、そこに営業をかけにいく予定になっている。会社から徒歩圏内にある為、人通りの多い道を早めの歩調で歩いていく。

スマートフォンと片手に通り過ぎていく女子高生や、自分と同じスーツ姿のサラリーマン、自転車で颯爽と駆けていく若者。様々な人が行きかう雑踏の中で、ふと俺は違和感を感じる。自分の背後から嫌な感じがした。

「視線を感じる」なんてそんな鋭い感覚は持ち合わせていないが、その嫌な感じに惹かれてゆっくりと後ろを振り向く。


「あ」


雑然と行きかう人並みの中で、俺の数歩後ろに長身の男が歩いていた。自分より背の高い男はじっと俺を見詰めて、にやりと気味の悪い笑みを浮かべる。

見た目は白いワイシャツに有名ブラントの黒いジャージと近所のコンビニにでも行くときの様な恰好だったが、いかんせん周囲には通学途中の学生やサラリーマンで溢れているためその姿はどこか周囲から浮いて見えた。

そいつは俺と同じように立ち止まって、四角いスクエア型の眼鏡ごしにただこっちをじっと見つめている。レンズ越しでも分かる不気味な目線に俺は、先ほどの嫌な感覚はこいつだったのだと気が付いた。

しかし向こうから特に何か行動を起こすでもないため、すぐにその視線から逃げるように駆け足でその場を立ち去った。

暫くして目的地の病院の玄関まで来ると、あの男が付いてきている様子もなく俺は安堵のため息を吐き出した。

その後は特に変わったことも無く仕事を終え、定時をとっくにすぎた頃に家に帰ると妻が心配そうな表情で出迎えた。また例の電話がかかってきたのだろう。


「やっぱり今日も電話があったわ」

「わかった。留守電を聞いてみようか」


スーツも脱がずにそのまま固定電話の操作をして、今日あった留守電を再生する。夜の六時に着信のあったそれは見たことのない電話番号だったが、市外局番からするに東京からかけられてる様だ。

無機質な再生音がピーッと鳴った後、二、三秒ほど沈黙が訪れた後に低い男の声が聞こえ始めた。最初は小さく篭ったような声がぶつぶつと何かを唱えている。

妻と視線を合わせて不思議に首を傾げる。


「なんて言ってるのかしら」


その小さな声は録音時間一杯まで続いており、終了を伝える無機質な音声アナウンスに強制的に終了させられていた。

もう一度今度は電話のスピーカーに耳を近づけながら再生ボタンを押す。先程と同じく数秒の沈黙の後に低い声が始まった。しばらく耳を澄ましていると、ようやく慣れてきたのか僅かながら相手の声が聞き取れるようになってきた。



ぶっせつまかはんにゃはらみたしんきょう・・・



「うわっ」


言葉が聞き取れた瞬間に俺は反射的に停止ボタンを押していた。

あまり詳しくない自分でもすぐにそれが葬式などで耳にするお今日であることに気がつく。低く抑揚のない声はある意味で機械的な響きをもって、延々と今日を唱え続けていたのだろう。

君の悪さにしばらく電話の前で惚けていると、妻は泣きそうな顔になりながら俺を見つめる。毎日毎日電話をかけてきてはこんなどうしようもなく気味の悪い悪戯をする奴の気が知れない。

妻の怯える様子に、顔も見た事ない悪戯電話の相手に無性に腹が立った。きっとこんなことをするのは相当陰湿で根暗な奴に違いない。

陰湿で根暗な・・・。

そこまで考えてふと日中に出会った気味の悪い男の事を思い出す。


「あなた、私怖いわ」

「あ、あぁ。うん。そうだね。あんまり続くようなら警察に被害届だせるか聞いてみよう。それともう僕が留守の時にかかってくる電話には出なくて大丈夫だよ」


日中の男も不気味だったが、偶然の可能性も考えて取り敢えず妻には黙っておくことにした。

考え出すと頭が痛くなってきて、俺は早々に着替えを済ませてから風呂に入った。

湯船に浸かりながら仕事と趣味の悪い悪戯のせいで疲れきっていた体から力が抜ける。くらくらと目眩がし始めてゆっくりと体が湯の中に沈んでいく。


『そ・・・め・・・さま・・・ほ・・・いい』


夢現に浮かされた瞬間に耳元で男の声が聞こえた気がしたが、途切れ途切れの意識では何を言っているのかまでは分からなかった。


『そろそろ目を覚ました方がいい』


耳を澄ましているとようやく聞こえた声にハッとした瞬間、俺は完全にお湯の中に沈んでしまっていて一息で水を吸い込んでしまう。

ツンとする鼻腔に慌てて湯船から顔を出せば、足りなかった酸素が一気に肺に入り込んできて噎せこむ。

危うく風呂で溺死してしまう所だった。しばらく咳き込んでいると、部屋から妻の心配そうな声が聞こえてきて俺は、先刻の声の事をすっかり忘れて風呂を出た。

悪戯電話や溺れかけた事で疲れたせいで、その夜は飯も食わずに死んだように眠ってしまった。

お陰で目覚ましを掛け忘れてしまい、次の日は遅刻ギリギリで出社したせいでまた上司に怒鳴られる。そんな大声も疲労のせいなのかぼんやりとしか耳に届かず、なんだか頭に靄がかかったように何も集中できない。

気が付いたら上司の怒鳴り声も消えており、俺は会社の近くの道路に突っ立っていた。

あまりにお説教が長すぎて無意識に会社を出てきたのかもしれない。片手には営業用の資料を持っているから、逃げるように出てきたのかもしれないが思い出そうにも記憶がすっかり抜け落ちている様だ。

取り合えず持っていた書類に目を向けて、また近くの病院を回ろうと顔を上げた瞬間に背筋に寒気が走った。

目の前に昨日俺の背後に居た男が立っていたからだ。一歩踏み出せばぶつかりそうな至近距離で立ち止まっている男は、俺をじっと見つめている。昨日の様な気色の悪い笑みは浮かべていないが、無表情で俺をただ見つめている。

周囲を通り過ぎていく人は他人のことなど気にしていないせいか、誰も俺と男の異様な雰囲気に気づく人間はいない。

昨日今日と明らかに自分を付けている男を見て、俺はふと悪戯電話の事を思い出す。


「あんた、誰なんだ」


俺が睨みながら出した声は震えていたが、男は何も答えない。ただにやりと眼鏡の奥にある瞳を少しだけ細めてみせた。

その様子に俺は確実にこの男があの悪戯電話の相手だという事に気が付く。


「なんでこんな付きまとったり、嫌がらせするんだ。俺達どこかで会った事あるか?」


男はやはり何も答えない。徐々に苛立ってきた俺はその男に掴み掛らんばかりの勢いで詰め寄り、声を上げようとした瞬間。

目の前の薄い唇がようやく開く。


「そろそろ目を覚ました方がいい」

「何?」


聞いたことがある声だ。それも昨日風呂で聞こえた声と似ている響きに、頭がクラクラと揺れる気がした。

今まで感じたことの無かった強い眩暈に抗えず、俺は歩道のど真ん中にしゃがみ込む。しゃがんでもまだ地面が、世界が揺れるような感覚とともに目の前がチカチカと光り始めた。白と黒に点滅する視界に飲まれた俺は、ストーカーみたいな男の前であっさりと気を失ってしまった。



気がつくと俺は家のベットの上で眠っていた。

ゆっくり起き上がって部屋の時計を見ると8時をさしていて、部屋の中の薄暗さから考えるに夜なんだろうと考える。ぼんやりしている頭で部屋の電気をつけた所で、妻が慌てた様に声をかけてきた。


「あなた、起きて大丈夫なの?」

「あぁ、俺どうなったんだ?会社の前で変な男に会ってから意識がないんだけど」

「・・・そうなのね。会社の前で倒れてるあなたを同僚の方が見つけて家まで運んでくれたのよ。働き詰めだったから少し休んだ方がいいって」

「それなら会社にも連絡しないと」

「同僚の方が部長さんにも伝えておいてくれたみたいで、しばらく会社は休んでいいって話になったみたい」


妻の話を聞いて、頭の中にあの上司の嫌味が聞こえてくるようだった。そのまま俺が辞めてもあの男はなんとも思わないのだろう。

ブラック企業の割には名前はそこそこ知れ渡っている会社なので、きっと俺が辞めても新しい社員は入ってくる。むしろここで休みをくれるという事はもう来なくていいと、言われている様なものだ。


「・・・俺、多分クビになるかもしれない」


俺の言葉に彼女は少し口を噤んでから、ゆっくりと口を開いた。


「私はあなたが会社からくたびれた様子で帰ってくる度に心配だったの。もうあなたが辛い思いをする必要は無いわ。ずっと私の傍に居て、二人だけで幸せに過ごしましょう」

「でも、それだと生活が」

「大丈夫よ。あなたは何も心配しないで」


彼女は俺を見詰めて優しく微笑む。気が付いた時には自分の両目からとめどなく涙が溢れてきていて、本当に自分の精神は限界を迎えていたんだと気が付いた。

俺はしばらくの間子供みたいにわんわん泣き続けた。そんな情けない様子を妻はただひたすらに母親の様な慈愛に満ちた視線で見守っている。

ひとしきり泣いた後何だか気恥ずかしくなって妻を見ると、彼女は気にした様子もなく穏やかな様子で微笑んでいた。


「ご、ごめんな。子供みたいに泣いちゃって」

「いつも私が頼ってばかりなのだから、こんな時くらいは私があなたを支えるわ」


またこみ上げてきそうになる涙を拭いて、俺が大きく息を吐き出すのと同時に部屋の中に一つの音が鳴り響いた。


ピンポーン

そのインターホンの音は聞いた瞬間に何か悪い知らせを持ってきたに違いないと、直感的に感じてしまった。


「早退したから会社の方がお見舞いに来たのかしら」

「いや。なんだかそんな感じじゃない」

「え?」


妻は不思議そうに俺の顔を見ている。インターホンは一度だけ鳴ってから、しばらくは部屋の様子を伺うように静まり帰っていた。

そのまま声を潜めているともう一度


ピンポーン


と先ほどと同じ音が聞こえた。

そもそもこの家に引っ越してきてからこの家に誰かが訪れた事は実のところ一度もない。通信販売を使うこともほとんどないから宅配便も来ないし、知り合いも多い方じゃないから様子を見に来た人間も居ない。

もしかしたら新聞か宗教の勧誘かもしれないが、自分の直感を信じて居留守を使う事を心に決めた。ちらりと横目で妻を見て、安心させるように微笑む。


「大丈夫しばらくすれば居なくなるよ」

「あ、あなた。あれ」


妻は恐怖にひきつった顔でゆっくりと震える指先を玄関に向けた。

え、と短い言葉を吐いてからゆっくりと視線だけ玄関に戻す。視界に入るドアは先ほどと同じように閉ざされているが、一つだけ変わったところがあった。

ドアノブが動いている。がちゃ、と一周。続けざまにがちゃがちゃともう一周。もうその後は部屋の中にドアノブを回す音だけが響き渡るほど何度も何度も、金属音が響き渡る。

鍵がかかっているから開くわけは無いのだが、執拗に何度も回されるその音に俺と妻は完全に恐怖に苛まれてしまった。

得体のしれない人物が古びたドアを挟んで立っていると思った瞬間に、脳裏に過ったのは一人の男の事

あの暗そうな長身の男。

そう思った瞬間に俺は何だか変な勇気が湧いてしまった。身長は大きかったがひょろっとしたその見た目に、もしかしたら自分でも勝てるかもしれないと自信を持ってしまったのかもしれない。


「俺が見てくるから君はここにいてくれ」

「えっ。変な人だったらどうするの。刃物でも持っていたら危ないわ」


怯えている彼女を置いて俺は恐る恐る扉に近づきながら口を開いた。


「おい、一体誰なんだ」


緊張しているせいか喉から出てきたのは想像以上に弱弱しい声だったが、扉の向こうの人間にも聞こえたのかドアノブの動きが止まる。

一瞬全くの無音になった後、俺がもう一度声を出そうとした瞬間に今度はどん、と大きな音が聞こえた。

扉が、床が揺れる。

もう一度、どん、と音がなる。


ここで話は冒頭に戻る。

何度も何度も打ち付けられた扉はとうとうひしゃげて、鍵まで壊れたようだった。

その空いた隙間から、不健康そうな白い手がにゅっと伸びる。やや骨ばった手は壊れかけの扉を掴んで、ゆっくりと開き始めた。


「あなた…」

「だ、大丈夫だ。お前だけは絶対に守るから」


ぎ、ぎぎ、ぎ

脆い折れかけたベニヤみたいな扉は、低い軋みを上げながら白い手の力に抗えない。

本当に徐々に開いていく音に混じって、ぶつぶつと部屋の外から地を這うような低い声色が聞こえてきた。どこかで聞いたことのある音だと直感的に感じた瞬間に、背筋に悪寒が走る。

数日前に留守番電話に残っていた、あのお経だった。

人の家の扉をこじ開けながらお経を唱える人間の…恐らく人間の心理が全く分からないが、正気の沙汰ではない事だけは確信できる。


べき


最後の抵抗もむなしく、嫌な音を立てて扉がこじ開けられた。

そこにはやはり職場の前であった黒髪のあの男が陰鬱そうな瞳で、こちらをじっと見つめている。


「な、んなんだよお前ぇ。なんでこんな事するんだよ」


情けないことに自分の声が異常なほどに震えていて、気が付くと両目からとめどなく生ぬるい液体が流れている。妻の前で怖くて泣くなんて男としての矜持は完全に死んでいたが、そんなことに構っている雰囲気ではない。

壊れた扉をそのままに部屋に土足で上がりこんできた男は、部屋の中を一瞥するとその薄い唇を動かした。


「そろそろ目を覚ました方がいい」

「何言ってるんだ!俺たちに嫌がらせなんかしても何の得にもならないぞ!」

「…あんたと、誰にだ」

「は?」


初めてこの男から別の言葉が発された事に動揺する。

俺の言葉に反応したのか。完全にいかれたサイコ野郎だと思っていた男の言葉に、俺は狼狽える。


「俺と、妻に」

「あんたに妻なんていない」

「何言ってんだ。だってここに」


視線を傍に居た妻に向けようとした瞬間、違和感に気が付く。

今の今まではいつも通り整頓されていたはずの部屋の中が、ぐちゃぐちゃに荒らされている。部屋にはごみが散らかっており、脱ぎ散らかした様な服や、洗っていない食器などが台所のシンクに山を成している。

おかしい。


「妻はここに」

「どこに」

「俺の後ろに」

「あんたの後ろに」


「あんたの後ろにある家具の隙間に居るそれか?」


背後からぞっとするほど冷たい空気が流れだした瞬間、俺は反射的に振り向いていた。

そこに先ほどまで俺の傍に居た妻は居らず、大きな本棚とクローゼットの数センチの隙間から見える色を失った黒い瞳が此方を見詰めていた。

人間が入れるスペースはないその隙間から、落ち窪んだ瞳と、明らかに生きている人間ではない皮膚、真っ黒な長い髪と洋服が詰められている。無理やり縦に引き伸ばされた加工写真の様なそれは、ぎょろりと俺を見詰めて地を這うような重い響きの咆哮を上げた。

見てはいけないのものを見ると、人間は体が動かなくなるらしい。

俺はその場で失禁していた。


「この人はあんたにはあげれない」


いつの間にか近づいていた男が俺の肩を引き寄せて、信じられない力で俺の胸を叩く。丁度心臓の上あたりを平手打ちされたせいで、一瞬心臓が止まったのではないかと思った瞬間に視界がブラックアウトした。

次に目を覚ました時には俺は見慣れない天井の白さに眼を細めた。

意識を失う前の記憶あるが頭が混乱して思考が働かない。

ゆっくりと視線だけを左右に動かしてみると、右側には淡い色のカーテンがひかれていた。今度は左側に視線を動かすと、俺の部屋に土足で上がりこんできたお経男が椅子に座って文庫本を読んでいる。俺も持っている本格派ミステリ小説だった。

声をかけようと思ったが、乾燥した口からはうまく言葉が出なくて立て付けの悪い窓から出てきた隙間風みたいな弱弱しい音が鳴った。

それでも気配を感じたのか紙面の文字を追っていた視線は、素早く俺の方に向けられる。


「ここは病院だよ」

「・・・」


もう一度視線を部屋の中にさ迷わせる。自分が寝ているベッドの傍にある窓からは穏やかな明るい光が差し込んでいて、耳を澄ませるとざわざわと人の動き回る声や物音が聞こえた。

男はやけに甲斐甲斐しく俺の寝ていたベッドを頭の方だけ起こして、脇に置いてあった備え付けの床頭台から水のペットボトルにストローを入れて差し出す。口元に寄せられたストローに吸い付けば冷たい水が流れてきて、乾燥した粘膜を潤してくれる。

数口飲んでから落ち着いて、よくよく自分の体をみてみると左腕から点滴が二本繋がっていた。体もうまく力が入らない上に、以前より自分の手足が細くなっている気さえする。


「聞きたいことが沢山あるんだけれど」

「うん。俺も別に暇だから、ゆっくり話そうか」

「君は、一体何者だ?」


大ぶりの眼鏡の反射でやや見えにくいが、彼の黒髪の隙間から見える細い瞳がにんまりと弧を描く。


「俺は矢尻。普段はいわゆる物書きの様な仕事をしているんだ」

「小説家ってことか?」

「そんなに大それたものではないけどね」


まじまじと男の顔を見る。

確かに会社勤めをしている人の雰囲気ではなかったせいか、小説家という抽象的なイメージしかない職業がしっくりくる。


「どうして俺の家に?」

「アンタのお兄さんに頼まれたんだ。以前から知り合いでね。たまに連絡があるとこういう厄介事の手伝いを頼まれるんだよ」

「兄ちゃんが」


俺には両親と歳の少し離れた兄と弟が一人いる。

兄は結婚して実家をでたが、家族愛が強いせいか一週間に一度は実家に帰ってきているから俺が実家から出たことも知っていた。なにより実家を出ることを延々と反対していて、実家に残るか家を出たいなら自分と同じ家に住むかという二択を詰め寄ってきていた程だ。新婚の家に厄介になる訳にもいかず、兄には引越し日を内緒にして家を出たくらいだったのに。


「一人暮らしをするって言って出ていったアンタが一向に連絡も寄越さないから俺に頼んできたんだ。あの人日中は忙しいし、あんまり直接行ってお節介やくとまたアンタが嫌がるかもって思ったらしい」

「・・・一人暮らし。そうか俺は一人暮らしだったんだな」


実家を出た時の記憶がうっすらと蘇ってくる。

社会人になって間もなくして一人暮らしに挑戦してみたくなったこと。勿論、家族にその事を相談した時に彼女は傍にいなかった。どうしてあの家にいる時には結婚するために実家を出たなんて勘違いしてしまっていたのだろうか。

一人暮らしを始めたが特に大きな理由はなかった。両親や兄弟と不仲だった訳では無いのだが、周りの友達も就職を機に一人暮らしを始めているのを見て何となく羨ましい気持ちになっていたのだろう。

それで会社から近くて家賃がすこぶる安いアパートに越した。一人暮らしという新しい生活を見据えて浮かれていたのか、あまり不動産屋の話を真面目に聞いていた訳では無いが、そういえば言葉を詰まらせる場面がいくつかあったことを思い出す。


「アンタの事を頼まれてから何日か出勤する時間辺りにアパートの前で待ってたんだが、一週間前から出勤時間になっても部屋から出てこなくなってたから心配になってね」


矢尻の言葉に俺は天井を見上げる。

一週間?


「俺は昨日も会社に行ったはずなんだけど。何か勘違いしてないか?」

「いや、アンタは一週間前からあのボロアパートに閉じこもって出てこなかったよ。部屋の電気メーターも確認したし、悪いとは思ったけど聞き耳立てたら部屋から話し声も聞こえてたから間違いない」

「でも俺、一昨日君と会社の前で会っただろう?」

「・・・いや、俺があんたと会ったのは部屋に乗り込んだのが初めてだ」


自分の記憶と違う話の内容に頭が混乱する。

動揺を隠しきれない俺に、矢尻はバカにするでもなく真っ直ぐにこちらを見つめる。メガネの奥の深い色の瞳に息を飲み込む。頭の中まで見透かされそうなその不思議な視線に、目をそらすことができない。


「アンタ、あの部屋で一緒に住んでた時の女の顔覚えてるか」

「えっ」


突然の問いかけに思わず言葉が詰まる。

自分が妻だと思い込んでいたあの隙間の女、思い出そうとするが顔を思い出せない。顔どころかあんなに毎日のように話していた筈なのに声も思い出せない。


「隙間女っていう都市伝説って知ってる?」

「いや、怖い話とか苦手だから」

「男が1人で暮らしてる部屋の家具の隙間に住み着いて、家主を魅了する女の霊なんだ」

「・・・」


じゃああの子は都市伝説の幽霊だった?

矢尻の言わんとしている事に俺は視線を逸らした。


「あの霊はさアンタがまるで普通の生活を送っている様な気分にさせるために思い込みをさせていたんだよ。まぁ、食事もまともにとってないし、家にいる時にはあの女の話相手してるんだから睡眠時間だってほとんど無い。そんな相手なら幽霊じゃなくても幻覚をさせるくらいは簡単なことだろう」

「俺は君とあった記憶が残ってるんだけど、これも幻覚か?」

「それは幻覚と言うよりは俺がアンタの家の留守番電話にメッセージを残したから、それが幻覚と入り交じったんじゃないかな。夢現の時にテレビとか他の話し声に影響された夢を見るのと同じ」

「あのお経の留守番電話か」


時折聞こえていた「目を覚ました方がいい」という言葉も実は矢尻が留守番電話に吹き込んでいた声だった事が分かった。


「どうして俺が隙間女に取り憑かれてるって分かったんだ?」

「隙間女かどうかは確信がなかったけど、霊的なものなのはすぐ分かったよ。俺、そういうの見えるから。アンタが外出する度に、首に長い髪の毛括り付けられていたから女の霊だとは思っていたけど」

「えええっ。髪の毛!?」

「地縛霊みたいなものだから、家の外にアンタが出る時の首輪代わりだったんだろうね」


あの家に過ごしていた時には全く気が付かなかったが、矢尻の言葉の光景を想像すると背筋が冷たくなる気がした。かなり恐ろしい光景に違いない。

そこまで話してから矢尻は何かを思い出したように、立ち上がる。


「そういえばアンタの意識が戻ったらナースコールする様に言われてたんだった」

「あ、その」

「ん?まだ何か聞きたいことある?」


彼のナースコールに伸びかけた手を咄嗟に捕まえてから狼狽える。聞きたいことは沢山ある気がしたが、直ぐには出てこなくて思わず口ごもってしまった。

数秒してから、どうしても伝えておきたい一言だけを辛うじて吐き出す。


「助けてくれて、ありがとう」


一瞬だけ本当にぽかんと驚いた表情を見せた矢尻は、すぐに先程までのにやにやとした笑みを浮かべてナースコールを押した。


「どういたしまして」


いつの間にか緩んでいた俺の手の中からするりと抜け出した手は冷たい。

ナースコールのあとには看護師さんが直ぐ来て、俺の血圧や熱を測る間に矢尻は静かに病室から去っていった。

一通りの処置が終わったあとに、白い天井を見上げながらふと考える。矢尻の声が留守番電話で聞いた声だったのは分かったが、どうして俺は彼の姿までも知っていたのだろうと。

しばらく頭の中で考えていたが、体力が相当落ちているのか気がつくと昼下がりの暖かな光に負けて眠ってしまっていた。


次に目が覚めた時にベッドサイドに居たのは今にも泣きそうな母と、心配そうに俺の頭を撫でている父だった。

窓から見える景色は眠る前より幾分か日が落ちかけていて、しばらく寝入ってしまっていたようだ。


「父さん、母さん」

「忠司、起きたか。体の調子はどうだ」

「大丈夫だよ。少し体は痩せちゃったみたいだけど」


父さんの穏やかな声を聞いて安心する。そういえば二人の顔を見るのも凄く久しぶりだ。

母さんは涙ぐんだままで、俺の手を力強く握りしめる。暖かくて柔らかな感触は、昼間の矢尻とは正反対な感触だった。


「よかった。美命君から意識が戻ったって連絡があって来てみたらまだ眠ったままだったから。すっごく心配したのよ」

「美命君って?」

「矢尻美命君だよ。お前も会っただろう?」

「兄ちゃんの知り合いなんだよね。あの人一体なんなの?」


聞きなれない名前に聞き返すと父さんが説明してくれた。上の名前しか聞いていなかったが、どうやら父さん達とも面識がある様だ。


「何なのって、美命君はうちの親戚の子だよ。お前からしてみると従姉妹になるのかな」


えっ。と口から素っ頓狂な声が漏れた。

矢尻からそんな話は一言も聞いていなかったからだ。兄ちゃんの知り合いというから大学の友達とか、そんな所かと思っていたがどうやら違うらしい。


「俺もあの人に会ったことある?」

「どうだろうな。美命君の住んでいたところは広島だったから、あまり関東で親戚が集まる時にも顔出すことが少なかったから」

「でも一度だけ夏休みに一週間くらい遊びに来ていた事があったわね・・・って、その話はまた今度にしましょう。まだ病み上がりなんだから横になってなさい」


母がゆっくりと俺をベッドに寝かしつける。

不思議な雰囲気を纏ったあの人の事が頭の片隅に残っていたが、ひとまず両親の顔を見たら安心感で胸が一杯になった。矢尻は両親に、俺はひとり暮らしの最中に風邪をこじらせてしまったせいで脱水になり病院に入院したと説明していたらしい。

確かにひとり暮らしの部屋にいた地縛霊に取り憑かれて、体を壊したと説明をしてどれ程の人が信じてくれるだろう。嘘をついている罪悪感は多少あったが、その話に合わせて俺も両親にこの一ヶ月の事を伝える。

母さんにはとてつもなく健康管理が大切であることについて再三説教を受けたが、父さんは「男の一人暮らしはそれくらいのハプニングが大切だ」と穏やかに母さんを説得してくれていた。

しばらく話をして安心した様子で両親は帰宅した。帰り際に兄ちゃんが物凄く心配していたから連絡するようにと言われ、俺は近くの机に置いてあった自分のカバンからスマートフォンを取り出す。

恐らくこの荷物も家族か、もしくは矢尻が気を使って持ってきてくれていたのだろうか。メッセージアプリを起動させると、兄ちゃんから目を疑うほどの通知が来ていて二、三度見直してしまうくらいだった。


『兄ちゃん、心配かけてごめん。矢尻さんのお陰で俺は大丈夫だよ』


と一文だけ入力して、送信した所でスマートフォンの電源が切れた。何日も充電していなかったせいだろうと、カバンに一緒に入っていた充電器を差し込んだところで看護師さんが夕食の配膳に来る。

数日ぶりの食事ということで出てきたのはお粥と、消化に良さそうな柔らかいおかずだったが目の前で湯気を立たせている食事にごくりと唾を飲み込む。


『あなた』


あの家にいた時のことを思い出す。幻覚だったし、彼女の顔も声も思い出せないが、二人で楽しく食卓を囲んでいた事がぼんやりと頭に浮かんでくる。

あの幸福な日々が幻だったということが、なんだか受け入れ難い気もするのだ。


「・・・」


食べ始めた食事がやけに塩辛く感じる。俺はボロボロと理由の分からない涙が次々と流れ出していることに気が付いた。

きっとあの生活のすべてが嘘だったとしても、俺は彼女を本当の妻のように愛してしまっていたんだろう。


「うぅ」


しばらくの間、俺は呻くように涙を流し続けることしか出来なかった。




ただの栄養失調と脱水だったお陰で、数日後には退院できることになった。

主治医はにこにこと愛想のいい男の先生で、まだ体調が回復しきっている訳ではないから一週間くらい入院をしてても大丈夫だよと言われたが丁重にお断りした。食事も最初は少量しか食べれなかったが一日経てば比較的食欲も戻ってきていたし、何より日がな一日静かな病室に居ると考えなくてよい事まで考え込んでしまうから早めに退院したかったのだ。

俺の目が覚めた次の日にも両親が見舞いに来て、もう一人暮らしはやめて実家に戻って来いと言われた。今回の事で相当生活力が無い人間だと思われたらしい。しかし社会人になって一か月で実家に出戻りというのも何だか気が引けて、その提案は曖昧な返事で誤魔化したのだ。


「あ」


床頭台に備え付けられているテレビを見ていると、不意に充電をしたままで放置していたスマートフォンが視界に入る。電源が切れたままだったことを思い出し、手に取ってから電源を入れた。

しばらく起動するのを待っていると、メッセージアプリに大量の通知マークがついていることに気が付いた。そういえば一言だけ兄ちゃんに返信を返してから電源が切れたのだった。

アプリを開くと案の定、兄ちゃんからの心配メールが次々と届いている。


『目が覚めてよかった』『体は大丈夫か?』『退院したら一緒に暮らそう』『今は出張中で見舞いに行けないから毎日電話でもメッセージでもしてくれ』『どうして返信してくれないんだ?』『そういえば既読もついてない』『まさか体調が悪いのか?』


と怒涛のメッセージ攻めにありがたさ半分と、若干の不気味さを感じながらスクロールをしていく。

すると最新のメッセージが数分前に届いており『今から病院に行く』と短文で表示されたため、慌てて返信をすることにした。


『スマホの電源が切れちゃってただけで体は大丈夫。出張頑張って』


と、当たり障りのない文章だけを返信した。これからはこまめに返信しないとまずそうだと、頭の片隅で考えてそっとアプリを閉じる。

そこでふと、とても重要な事を思い出して全身の毛穴が開くのを感じた。


「そういえば、仕事ってどうなったんだろう」


あの状態の自分が会社に連絡を入れて休みをもらえるわけないし、何より休みなんて貰おうものならそのままクビになるに違いない。電話の着信履歴もここ数週間に新しいものはなく、もしかしたら家の電話に掛かってきている可能性もある。

そうなるともう居ても立ってもいられずにベッドから降りようとした瞬間に聞きなれた声が、頭の上から聞こえてきた。


「ん?どこか行くのか」

「矢尻さん」


片手にクラッチバックとコンビニの袋を下げた矢尻が俺を見下ろすように立っていた。物音も気配もないその登場に少しばかり驚いたが、仕事の事が気になってしまいあまり反応できない。


「血相変えて、まだ完全回復じゃないんだから安静にしてた方がいいんじゃない?それとも何かあったの」

「その、俺が部屋に閉じこもってた間、仕事どうなっちゃったのかなって心配で。家電ならもしかしたら連絡入ってるかもしれないから外出できないか聞きに行こうと思ってたんだ」

「仕事?ああ、それならもう一週間以上前にクビになってたよ」

「え」


何でもない事の様に衝撃の事実を伝えた矢尻をぽかんと見上げると、持っていた袋をがさがさと漁って中に入っていた紅茶のペットボトルを手渡される。思わず反射的に受け取ると、自然な足取りでベッド横に置いてあった丸椅子に矢尻が腰かけた。


「一週間以上って。どうしてそんな前から」

「会社の中での会話は直接見たわけじゃないから分からないけど、針山さん半月位前から相当意識朦朧といった感じだったからね。家の留守電は悪いとは思ったけど病院に連れてきた後に確認させてもらってね、クビになってたっていうのもその時知ったんだ」

「…そうか」


急いていた気持ちが、一気に脱力感に変わる。


「よく考えたら針山さんが部屋からでなくなったのはその解雇の連絡があった次の日だったんだ。突然のクビで落ち込んだところを付け込まれたんだろうね」


持っていた紅茶のボトルを少し強めに握りしめる。

「付け込まれた」という言葉に、何故だか胸が締め付けられるような思いに駆られる。

矢尻の言葉は間違っていない。彼女は取り憑けるなら誰でも良かったのかもしれないが、それでも彼女を憎みきれていない自分がいることに気がつく。


「そういう言い方は」


思わず口から小さな呟きが零れていた。

矢尻は一瞬だけこちらの表情を読み取ろうとする様に鋭い視線を向けてから、大きなため息をひとつ吐き出す。


「もう憑かれてはいないよね?」

「えっ?恐らく」

「アンタのそういうお人好し過ぎるところは美点でもあるけど、人ならざる者にしてみれば扱いやすいただの馬鹿だ」


馬鹿という言葉を言われたのは小学生以来で、思わず言い返そうと思うが彼の凄みの効いた視線に押し黙るしかない。


「アンタが大切にしたいのは何?アンタが倒れた時に心配してくれる家族か?それとも上辺だけの幸せな夢を見せてくれる異形か?」

「分かってる。彼女に同情しちゃいけないことは分かるんだけど…」


手の中のペットボトルがパキリと鳴る。力を込めてしまったせいか微かに変形し始めていた。

あの生活すべてが全てまやかしだったとしても、胸に残っている柔らかく幸せだったあの気持ちが全て消えてなくなっているわけではない。いっそう全部記憶から無くなってしまっていれば、恐怖だけを残して忘れたい過去にできただろうに。

俺が言葉を詰まらせて俯いていると、隣からまたガサゴソと袋を漁る音が聞こえる。何をしているのか視界の端で見ていると、俺の手元によくコンビニで並んでいるスナック菓子の袋が置かれた。

思わず顔を上げると、そこには頭をかきながら戸惑ったように視線を逸らせる矢尻が見えた。会う度に飄々としている浮世離れした印象だったが、こんな人間らしい表情も出来るのか。


「別にアンタを責めている訳じゃないんだよ。こういう相手を追いつめる言い方が癖なんだ。ごめん。でも、アンタはそうやって誰にでも仏心を出してしまうみたいだから、これからも、そういう優しさに付けこもうとする奴が現れると思う。それこそ異形もそうだけど、人間にだってお人好しを騙そうとする悪いやつもいるから。だから…」

「心配してくれたのか」

「アンタの兄さんに頼まれたからっていうのもあるけど」


そこまで話して矢尻は言葉を止めた。含みのある言い方だと思ったが、静かになってしまった病室の雰囲気に此方まで黙り込んでしまう。

数秒か、数十秒か。微妙な空気の沈黙が訪れてからしばらくして、先に口を開いたのは俺の方だった。


「そういえば明日退院していいって言われたんだ」

「そう」


なるべく努めて明るい口調で話すと矢尻は少しだけ怪訝そうに眉を寄せて、俺の体を眺める。


「まだ全快したって風には見えないけれど」

「確かに体重も大分落ちたけど、もう点滴も取れたし検査は問題ないって先生も言っていたんだ。ずっと病院に籠っている方が体に悪いだろ」

「退院したらどこに行くの?」

「どこにって家に」


そこまで話した瞬間、矢尻の顔が感情を失った。先ほどまではどこか心配そうに此方の様子を伺っていた瞳が、完全に失望した色を湛えている。あまり見たことがないが恐らく彼は今相当な怒りの感情を表しているらしい。


「そんなに死にたいなら俺が殺してあげようか」


ぞっとするくらい感情の読み取れない声に、俺は何も言えずに固まる。


「もうあの家に帰ったら命はないと思った方がいい。それでも帰りたいっていうなら、ここで俺がアンタを殺してあげるよ」


座っていた椅子から立ち上がった矢尻は持っていたお茶のペットボトルを床に投げ捨てて、ベッドに片膝を乗せる。一気に接近した体をただ見つめていると、白くて骨ばった二本の手がゆっくりと俺の首にかかった。

彼は先ほどからまったく表情を変えぬままでゆっくりと俺の首を絞めるために、指先に力を入れる。

脅しでは無いであろう気迫に思わず俺は半ば叫ぶように口を開いた。


「違うって!」


その一言に矢尻の手の動きが止まる。

正直どうしてこんなに彼が俺の心配をするのかは分からなかった。その前に心配をしている相手を殺そうとする心情もよく分からないが。


「俺が帰るのはあのアパートじゃない」

「実家に帰るの」

「いや、実家にまた戻るのもあんまり気乗りしないから、新しいアパートでも借りようと思ってるんだ。それまではネカフェとかで泊まろうと思ってるんだ」


自分の口からスラスラと思っても無かった退院後の計画が紡がれて、自分が一番驚いてしまった。本当はあのアパートには戻れないとは薄々考えていたがそこまで細かく計画していたわけではなかった。

取り合えず今はこの首に掛かっている手を外すために言い訳をしなければいけないという事で思考が一杯になってしまう。


「じゃああの家には帰らないんだよね」

「荷物の運び出しがあるから一回は帰らなきゃいけないけど…って手離してくれって!でも一人で帰るのは心配だから友達に一緒に来てもらうように相談しようと思ってる」

「…」


無言のままだったが矢尻は何かを考えている様だった。しばらくそうしてからようやく俺の首から手を離すと、ゆっくりとベッドを降りた。

長身に見下ろされる威圧感があったが、先ほどの底冷えする冷たい視線が無くなったことが唯一の救いだ。

自分でもよくここまでの口から出まかせが出るものだと感心してしまう。しかし言ってみてから考えると悪くない案だった。


「アンタって友達居るの?」

「君って失礼を通り越した質問するんだな」

「霊視ができる友達いるの?」


霊視…と俺が言葉を詰まらせると、矢尻はにんまりと眼鏡の奥の目を細めて見せた。





「針山さん。お大事にしてくださいね」

「ありがとうございました」


そんなに多くない荷物を持って病室の前で看護師さんに別れの挨拶をする。そんなに長い入院期間ではなかったが、空っぽになった病室を振り返ると何だか名残惜しい気さえしてしまう。

無事退院の手続きを終えて病院を出ると、正面玄関の前にここ数日で見慣れてしまった長身を見つける。少し肌寒いせいか今日はいつものジャージの上にこれまた黒のジャンパーを羽織っており、全身真っ黒の烏コーディネートが完成していた。

矢尻は何をするでもなく今にも降ってきそうなどんよりとした曇り空を見上げていたが、俺が自動ドアを通った音に気が付いて此方を振り向く。


「忘れ物ない?」

「大丈夫だと思う。悪いな待たせて」

「いいよ。俺が付き添うって提案したんだから」


生憎とどんよりとした曇り空だったが、並んで歩き出すと久々の外の空気に気分がよかった。病院に入院している時にも時々は院内にある小さな庭まで散歩をしていたが、やはり自由に外を動ける方が清々しい心持ちだ。


「そういえば矢尻さんて歳はいくつなんだ?」


隣を歩いている矢尻を横目で見ながら、そういえば初対面らしい会話なんてしていなかったと思い聞いてみる。見た目からすると比較的若そうに見えるが、言動は飄々として不思議な雰囲気を纏っている様子からもう少し歳を重ねている様にも感じる。


「二十八。針山さんも同い年でしょ?」

「えっ、同い年なのか」

「その反応はどう受け取ればいいの。俺ってそんなに老けて見えるかな」


俺は慌てて頭を振りながら、否定をした。


「いやいや、年齢不詳感が凄かったから驚いただけだ。そうか…なんだか同い年って分かっただけで一気に親しみやすさが湧いてきた」

「親しみねぇ」


間延びした声は何だか上の空なようだった。

矢尻が見つめている方に視線を向けると、そこには少し大きめの交差点がある。車通りの多いそこは事故があったのか信号機の足元に花束と、子供用のぬいぐるみや絵本を入れた袋がおいてあった。

明らかにここで子供が犠牲になった交通事故があったことは明白だ。矢尻はじっとその供え物の辺りを見つめてから、俺の腕を掴む。


「ねえ針山さん」


何故腕を掴まれているのか分からず目を瞬かせていると、矢尻がにんまりと口元を緩ませる。しかしメガネ越しに見えている瞳は全く笑っているようには見えず、思わず体が強ばる。


「あそこ、何がいると思う?」


あそこというのは先程から見つめている供え物が置いてある信号機の事だ。

何がと言われても自分には何も見えない。矢尻はいわゆる幽霊が見えると言っていたので、そういう意図をもって考えればいいのだろうか。


「事故にあった子どもとか?」

「惜しいね」

「じゃあ何がいるんだ?」

「一生懸命電柱の付け根舐めてる上半身がおっさんで下半身が犬みたいなやつ」


えっ、と自分でも間抜けな声が出た。一瞬言葉の意味を捉えきれなかったせいで、矢尻の言った言葉が想像できた瞬間に不気味な感覚に陥る。

想像してはいけないというのは頭の片隅で思うが、何度も矢尻のいった『それ』の姿が頭を過っては消えていく。

子供の供え物とか、事故が多そうとか全く関係ないのが更に気持ち悪さを際立たせていた。


「そんなのが視える俺でも親しみがわくって思える?」


矢尻の瞳はまだ笑っていなかった。

じっとこちらを値踏みした視線を送り、ただ笑みの形をとっただけの表情を貼り付けている。

感情の読み取れない異様な雰囲気に、沈黙を破れずにいる俺の手を彼はそっと離した。あまり大きな通りではなかったが、微妙な雰囲気を察知してか時折通り過ぎていく人達が探りを入れるように不躾な視線を向けてくる。

なんて答えたら彼が不快にならないか考え込んだが、うまい答えが見つからずに供えられているぬいぐるみを見つめるしかない。


「針山さん。行こうか」


矢尻は態とらしいほどに優しい声でそういうと、供え物や先程の異形がいる場所には目もくれずに俺の家への道を進み始める。

その背中から彼の真意は読み取れない。寂しそうにも、はたまた怒りを背負っているようにも、それとも何も変わらないようにも見えるその雰囲気になんの言葉も出てこない。同い年とわかって少しでも距離が近づいていたのは俺だけだったようで、胸にモヤモヤした罪悪感が芽生える。

それから家路に着くまでの間は重たい沈黙を保ったままだった。


「針山さん」

「え?」

「鍵。俺が開けようか?」


自分の部屋の前まで来てじっと動きを止めると矢尻の手が目の前に差し出される。

家に入って良いものか困惑していたのを読まれたのだろう。自分の鞄から家の鍵を取り出すと、矢尻にそっとそれを渡した。

自分の手が微かに震えていて、自分でも気が付かないうちに恐怖を感じていたらしい。


「あ、あのさ。あの子はまだ家の中にいるのかな」

「あれはこの家に住み着いているからまだ中にいるよ。でも家から離れてしまえば着いてくることはないから大丈夫」

「そうか」


また彼女は一人になってしまうのか、と零れてしまいそうな言葉は無理やり飲み込んだ。

矢尻は俺の考えを気づいているのかいないのか、何事も無いように玄関の鍵を開ける。よく見ると扉は矢尻が乗り込んできた時の凹みや歪みが無くなっていて、綺麗な状態に修繕されていた。


「あれ?どうしてドア直ってるんだ?」

「引っ越すのに、あのままじゃまずいから昨日修理屋呼んで治してもらったんだよ。まあ壊したのは俺だからね。修理費もこっちで持つから安心して」

「助けて貰ったのはこっちの方なんだから、修理費は俺が…」


矢尻の言葉に食いつこうとした瞬間に、玄関の扉が開かれ思わずそちらに視線が向く。あの部屋の中に。

ゴクリと無意識に喉が鳴って、迷うことの無い足取りで部屋の中に入っていった矢尻を追いかけるように自分も部屋の中に踏み入れた。

天気の悪さのせいか日中なのに部屋の中は薄暗くて、どんよりとした重い空気が漂っている。部屋の中はあの夜のまま時が止まっていて、日に焼けた畳の上にはいくつものゴミが散乱していた。

久しぶりの自宅は懐かしさと、恐怖とは少し違う緊張感を俺に与えてくる。入った瞬間から視線を感じるのは気のせいだろうか。


「あれ?」

「どうしたの針山さん」


視線は感じるものの部屋の中をいくら見回しても、彼女がいない。視線が部屋の中を彷徨う。

タンスと壁の隙間、冷蔵庫とキッチンの隙間、押し入れの襖が少しだけ空いている隙間。どこを見ても彼女の姿は見つけられなかった。

くるくると部屋の中を見回す俺に、針山さんは何でもないように呟く。


「針山さんはもう取り憑かれてないから見えないよ。部屋の中に気配はあるけど、この部屋から出ていくアンタにはもう手出しはしないだろう」

「そ、そうなのか」


ジロリと怪訝そうな瞳で矢尻がこちらを見る。まだ情をうつしているのかと責めるような幻聴が聞こえたが、それに気が付かない振りをして俺も部屋の中を掃除しはじめた。

幸い引っ越して一ヶ月しか居なかった部屋には荷物も少なく、ゴミさえ片付けてしまえばあっという間に殺風景な部屋になってしまった。


『あなた』


もう聞こえるはずのない悲しそうな彼女の声が聞こえた。


「駄目だって言ってるでしょ」

「え?」

「なんでもないよ」


すぐに矢尻の言葉にかき消されたその声は、部屋を後にするまでもう二度と聞こえなくなっていた。

彼女はまたこの部屋に来るであろう誰かをひとりで待つのだろうか。そう思うと、同情では決してないが少しだけ胸が締め付けられるような気がした。

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