懐風藻

はなからやばいやつやん

『懐風藻』 編者未詳 天平勝宝3年(751)


もうあかん。ほぉんまあかん!


なにがって、あんた。

淡海帝の息子の大友皇子やん。

せや、帝のいっちゃん上の。


それがな、唐から来はった人がな、大友皇子と会うてな

「うっわ!こら大したもんやで!もうこんな人、この国には勿体ないわ!」

言わはってんな。

な、この時点でフラグ立ったやろ?うん。


でな、なんや知らんけど、大友皇子な、夢見はってんけど、それがまた、あかんねん!


天の穴から赤いおべべ着はったジイさん出てきはって、お日さんをやで、大友皇子に授けはってん。

せや。

うっわ!やろ?な?


その上や、脇から人出てきはって、そのお日さんをや、横取りしはってんて!

お日さんやで?よりによって!


こらもうエッジの効いたヤバさやろ?

何処の閉店セールや言うくらいフラグ立ったんちゃう?


で、またな、それを藤原鎌足に相談しはってな、ほんなら鎌足な

「いっや、そんなん気にすっことあらしまへん。

そんなんより、普段からあてがゆーとりますように、真面目ぇに暮らしはったらよろしいんえ。

なんなら、あての娘を嫁はんにどないどす?」

で、鎌足の娘、嫁にしはってな、ズブズブの仲にならはってん。


で、皇子はん、政治すんようにならはったら、またこれが、これが!

天才ゆんはこうゆうことやで、っちゅーまぁ、天才の見本みたいな凄腕や。


イケメンやし、頭はええし、性格はええし、何さしてもプロ級や。


過ぎたるは及ばざるが如し、やで。

そら、やばい。もうあかん。

もう、フラグの立つとこないくらい、立ちまくりやで。


で、案の定、壬申の乱でやられてん。

ほんま最初っから飛ばし過ぎなんや、なぁ?


え、鎌足?

そんなん、あんた、馬から落ちはって、早うに亡くならはってん。

ほんま、フラグ立てるだけ立てて、なぁ?

どない?


✳︎✳︎✳︎日本最古の漢詩集なので、原文の下に訳文つけときます✳︎✳︎✳︎


『懐風藻』 編者未詳 天平勝宝3年(751)

(近江朝から奈良朝までの64人の作者による、日本に遺る最古の漢詩集)


淡海朝大友皇子 二首

 皇太子者 淡海帝之長子也。

魁岸奇偉 風範弘深 眼中精耀 顧盼煒燁。

唐使劉德高 見而異曰

「此皇子 風骨不似世間人。實非此國之分!」


 嘗夜夢 天中洞啟、朱衣老翁 捧日而至。擎授王子。

忽有人 從腋底出來 奪將去。覺驚異 具語藤原內大臣。


歎曰

「恐聖朝萬歲之後、有巨猾閒釁。」然臣平生曰

「豈有如此事乎?臣聞、天道無親唯善是輔。願大王勤修德、灾異不足憂也。臣有息女、願納後庭、以克箕帚之妾。」

遂結姻戚、以親愛之。

 年甫弱冠,拜太政大臣,總百揆以試之。皇子博學多通,有文武材幹。始親萬機,群下畏莫不肅然。年二十三,立為皇太子。廣延學士,沙宅紹明。塔本春初,吉太尚許率母木素貴子等,以為賓客。太子天性明悟,雅愛博古。下筆成章,出言為論。時議者歎其洪學未幾,文藻日新。會壬申年亂,天命不遂。時年二十五。



✳︎✳︎訳文(麒麟屋訳なので適当です)✳︎✳︎


大友皇子は淡海帝(天智天皇)の長子である。

逞ましく立派な身体つきで、風格といい器量といい、両方ともに広く大きく、眼はあざやかに輝いて、振り返る姿は大層美しかった。

唐の使い劉徳高は皇子と話をし、これは普通ではないと、驚いて申し上げた。

「この皇子、風骨世間の人に似ず、実に此の国の分にあらず」


皇子はある夜夢見た。

天中にあなひらいて、朱衣の老翁が太陽を捧げ持って来、大友皇子に授けた。

ところが、すぐさま脇下から人が出てきて、太陽を奪って持ち去った。

大友皇子は驚いて目が覚めて、すぐに藤原鎌足に語った。


内大臣(鎌足)は歎きながら、

「恐らく天智天皇崩御ののちに、悪賢い者が皇位の隙をねらうということでしょう。

しかし、どうしてそのような事が起りえましょう。わたしは天の道は人に対して公平であり、善を行う者だけを助けると聞きます。

徳を積まれるようにお勤めください。災害変異などご心配に及びません。

わたしの娘を後宮に召し入れて妻にし、身の廻りのお世話を命じて下さい」と申し上げた。

そこで藤原氏と親戚関係を結び、親しく付き合うようになった。


皇子が二十歳になられたとき、太政大臣の要職を拝命し、参政され、さまざまなことを取り仕切られるようになった。

彼は博学で、各種の方面に通じ、文芸武芸の才能にめぐまれていた。

はじめて政治を自分で執り行うようになったとき、多くの臣下たちは恐れ服し、慎み畏まらない者はいなかった。


齢二十三のときに皇太子になられた。


学者である沙宅紹明、塔本春初、吉太尚、許率母、木素貴子などを招いて顧問の客員とした。

皇太子は生まれつき悟りが早く、元来ひろく古事に興味を持たれていた。

筆を執れば文章となり、ことばを出すとすぐれた論となった。

当時の議論の相手となった者は皇太子の博学に感嘆していた。学問を始められてからまだ日が浅いのに、詩文の才能は日に日にみがかれていった。


ところが壬申の乱にあい、天から与えられた運命を全うすることができないで、二十五歳の年齢でこの世を去られた。


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