はじめての女(その9)

浮多郎は三ノ輪の蕎麦処・吉田屋に呼び出された。

いつものように、岡埜はおかめ顔の女将に酌をさせ、酒を呑んでいたが、その顔は厳しいものがあった。

「霊厳島の料亭・丸高屋の善市は、表向きは料亭の主だが、賭場もやるし金も貸す。ここの賭場ですって善市から金を借りる破目になった幸次郎は、父親に泣きついた。ところが、とんだ藪蛇で、断られるだけでなく、養子の縁を切るとまでいわれてしまった。困った幸次郎は善市に、手島屋の本宅に押し込み強盗に入るように頼んだ。奪った金で借金をチャラにしようというわけだ。善市は一匹狼の強盗の床屋の兆次に話を振ったが、奪った金を持ち逃げされるのを恐れて、丸高屋の若い衆を三人ばかり付けた」

ここで、岡埜は蕎麦をすすり、盃も立て続けに三杯も干した。

「この床屋の兆次というのは、渡りの髪結い職人で、あちこちの旗本・御家人やお大尽の家に呼ばれて髪を結う。そのときに、その家の金の在り処をさぐっておいて、一年後ぐらいに、その家に強盗に入る。歯向かえば、縛り上げて、剃刀で首を斬る恐ろしいやつだ」

「幸次郎は、いっしょに押し込みに入らなかったので?」

「じぶんはどこかで遊んでいたようだ。そこまでの度胸はない。・・・まさに殺した直後に、幸次郎の許婚の小百合を連れた俊吉が現れたので、若い衆は俊吉を殴り倒した。これが兆次だったら、剃刀で喉笛を掻かれていたろう。兆次は小百合に目を奪われていたのが幸いした。ひと目で惚れ込んだ小百合を連れ去った」

「小百合というのは、主の吉太郎の妾だった女が里に帰って産んだ子で、しばらく疎遠にしていたが、養子の幸次郎の嫁にしようと最近上州から連れて来たそうで。ただ、幸次郎は気に入らねえって追い返そうとした。それで、小百合は捨て鉢になって、佳代という名で女郎なろうと三太郎の長屋に・・・」

口をへの字に結んだ岡埜は、そんな下世話な話を、まるで聞こうとはしなかった。

「・・・この事件は、若造の村田勘四郎の、とんだ見立てちがいだった。養子の幸次郎の素行を、番頭にちょっとでも聞いていれば、本筋が分かったはずだ。俊吉ばかりを追いかけて全くの無駄骨だった」

「俊吉は、無罪放免で?」

「全員を拷問にかけて、自白がすべてドンピシャになってからだ。・・・だがな、浮多郎、手前もこの俺に詫びのひとつもあってしかるべきじゃあねえのかい」

岡埜は、浮多郎をじろりとにらんだ。

それは、火盗の重野清十郎のことだ、とすぐに分かったので、すぐさま浮多郎は、「出過ぎたまねをしまして」と素直に詫びた。

岡埜は、それほど根には持っていないようで、

「・・・重野も、縛った上に、首の後ろを剃刀で切って殺す手口と聞いて、すぐに床屋の兆次とピンときたのだろうよ。しかしなあ、ひとりで捕縛にかかるなんざ、粗忽者の極みだ。おかげで女は死に、うまうまと兆次には逃げられてしまった」

と、重野を嘲笑った。

しかしは、話の力点はここではなかった。

「奉行所では、この床屋の兆次のことは、まるで知らなかった。そんな手口の一匹狼の押し込み強盗なら、とっくに押さえておくべきだった。ところが火盗では前から兆次を押さえていた。そこでだ・・・」

岡埜は、ここでもったいぶって、残りの蕎麦を酒とともに流し込んだ。

「手前が、火盗の目明しをやってもいいのではないかな。この岡埜吉衛門の犬として働くかたわらに、だが。・・・奉行所と火盗で縄張り争いしている場合じゃねえ。互いに同じネタを共有して、手柄を競ったらどうなんだい」

しごくまっとうな話をして、岡埜は昼の酒席を締め、座を立った。

―泪橋へもどると、政五郎が、「つい今しがたまで、俊吉の倅の嫁がいたんだが」と悔しそうにいった。

浮多郎が、奉行所と火盗の両方を掛け持って働くことになった話をすると、喜んでくれると思った政五郎だが・・・。

「とんでもねえ。それじゃあ、からだがいくつあっても足らねえよ。お新がかわいそうだぜ」

と怒りだした。

・・・たしかに、お新のことをすっかり忘れていた。

―しばらくして、奉行所から俊吉を無罪放免するとの知らせがあった。

浮多郎は、倅の伸吾と三ノ輪のお化け長屋の三太郎とともに、小伝馬町の典獄へ迎えに行った。

俊吉は、足を引きずりながら、獄舎を出て来た。

三太郎が、かなりの賄賂を典獄の同心につかませたが、牢名主までは渡らなかったのか、牢屋で連日痛めつけられたようだった。

三人で肩を並べ浜町河岸を歩いていると、俊吉が不意に思い出したように、

「佳代はどうしたい?」

と、三太郎にたずねた。

ただ首を振って、三太郎は何も答えず、

「はじめての女は、いけねえよ。とんだ厄病神だ」

と、天を仰いだ。

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