はじめての女(その3)
佳代を三ノ輪の辻の乾物問屋の二階に押しこめておいて、俊吉はほぼ毎日通って来る。
三太郎は、「俊さん、そろそろ長屋に出そうよ」と判で押したようにいうが、俊吉はいつまでもぐずぐずしている。
煮え切らないのは、じぶんでも分かっていた。
佳代のような若くていい女を、化け物屋敷などといわれる売春宿で男の袖を引かせたくなかった。
いや、袖なぞ引かなくとも、若い男が列をなしてやってくるにちがいない。
俊吉は、男たちに佳代を抱かせたくなかった。
あの佳代のからだに、若い男の指が触れるのを想像しただけで、俊吉は嫉妬で気が狂いそうだった。
・・・といって、じぶんの家で囲うほどの財力もなし。まして三畳の物置小屋同然の部屋に辛うじて身を置く半隠居では。
今日も俊吉が三ノ輪へやって来ると、三太郎が手ぐすね引いて待ち構えていた。
「俊さん、今日は上がっちゃいけねえ。もうこれっきりだ。うちの手代や丁稚が、佳代のあのときの声のすさまじさに音を上げてさ。女を追い出すか、じぶんたちが出て行くか。こう来たもんだ」
そこまでいわれたら、俊吉は覚悟を決めるしかなかった。
「ちょっと、話をさせてくれ」と、俊吉は三太郎を押しのけるようにして、二階へ上がった。
―俊吉の顔を見ると、花のような笑顔の佳代は、抱きついてきた。
女を押しもどし、俊吉は「話がある」と無理にも座らせた。
「もうここには、いられない」
と、俊吉が切り出すと、佳代は俊吉の顔をまじまじと見つめた。
「そうはいっても、お前に長屋で春を売らせたくはねえ。・・・ほんとうの気持ちは、お前を囲ってじぶんだけのものにしたいのさ。だが、俺にそこまでの甲斐性はねえ。なにせ息子の世話になっている隠居の身なのでね」
俊吉がわが身を嘆くと、佳代はにじり寄り、
「小父さん、あたいを捨てるの?」
と美しい眉を寄せて、真顔でたずねた。
俊吉は、佳代の肩を抱き寄せ、
「そんなんじゃねえ。ただ、ちょいと世間を知ったおとなの分別、というやつだ」
と、かわいらしい耳元でささやいた。
「この間、池の端ですれちがった若い男が、驚いた顔でお前を見て、たしか『小百合ちゃん』とかいったね。お前、ほんとうは小百合という名前で、どこかいいところのお嬢さんじゃないのかい。なにか、つまらない料簡で家を飛び出し、自棄になってこんなところで女郎になろうと・・・」
そこまで聞いた佳代は、ぱっと離れ、恐ろしいモノでも見るように俊吉を見た。
「あたい懸命に働いて、小父さんを養う。後生だから、そんな薄情なこと・・・」
みるみる佳代の目には、涙があふれた。
「俺も、もっと若ければ、命がけでお前を守れる。が、もう先の見えた老いぼれだ。どうにもならねえ」
両の肩をつかんで、「さあ、家へ帰ろう」と促すが、佳代はいやいやと首を振って立とうとしない。
―なんとか佳代を説き伏せ、実家があるという神田明神下の屋敷街に足を踏み入れるころ、暮れなずむ藍色の空の下を、暮れ六つの鐘が鳴り響いた。
「ねえ、明日また出直しましょう」
広壮な屋敷の前で、佳代は俊吉の袖をしきり引いて、尻込みする。
その腕をつかんで、俊吉はずんずんと門地に入り、玄関で案内を乞うた。
応えはない。
家の中は、薄暗い。
意を決した佳代は上がり込み、中廊下をずんずん進み、突き当りの座敷の引戸をぱっと引いた。
・・・どこからか、血の匂いが漂ってきた。
その瞬間、後頭部に痛みを感じた俊吉は、血の海の中に倒れ込んだ。
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