魔女の刻印

「ほんとにいいのかよ?」

 やけにはっきりと男の声を覚えている。しゃがれた声で楽しそうだった。母はうなずくと、タバコをくわえて火をつけた。男はいったん車を降りると、後ろの座席、つまりあたしの横に座った。

「静かにしてればすぐに終わるから」

 そう言うとにやにや笑いながら、あたしの肩に手をかけた。男の顔は覚えていないのに、その時の笑顔だけはよく覚えている。顔がわからないのに笑顔だけわかるなんておかしな話だけど、あたしの頭の中にそれははっきり刻みつけられている。その時から男の笑顔は恐怖と憎悪の対象になった。殺されると思ったあたしは泣き出した。

「うるさい」

 母が怒鳴り、男があたしの顔を殴った。そんなに痛くなかったけど、全身が恐怖で凍りついた。ほんとに殺されるんだと確信した。あたしはもう泣くこともできなかった。とにかく怖くて、逃げたいのに指も動かせず、ただじっとうつむいているだけだった。男はあたしを殺しはしなかった。裸にして写真を撮り、それから犯した。身体の痛みよりも、不安と恐怖でいっぱいだった。なにも考えることができなくて、ただされるがままになっていた。

 その時はひどいことをされたとしかわからなかった。しばらくして、それがレイプだとわかった時は、全身ががたがた震えて涙が止まらなかった。二度犯されたようなものだ。いや、二度じゃない。あたしは思い出すたびに、あの時の恐怖と屈辱を体験した。

 やがて全てが終わると、あたしは最初の駐車場まで車で連れていかれ、母と一緒に家に帰った。男に犯された余韻は怯えとなって残り、あたしはしばらく口もきけなくなったし、ちょっとしたことで泣くようになった。母が望むとおりの愚かな泣き虫になったのだ。

 小学校ではただ無口で勉強も運動もできない目立たない子供として過ごした。来る日も来る日も犯された時のことと、自分はもうふつうに生きられないのだ、という思いに苛まれていた。学校の楽しい話題にはついていけなかった。この世の中に楽しいことがあるのが理解できない。笑うのはわかる。あたしのように愚かな人間は見ていておもしろいだろう。蔑んでいい気分になって笑いたくなるのだ。でも幸福な気分で笑うという感覚はわからない。家族旅行も誕生日もあたしにとっては楽しいものではなかった。それらは母が居場所を誇示するためのイベントでしかない。あたしは主役ではなく添え物だ。こんなことを死ぬまで続けるくらいなら、早く死ぬたいと思うようになった。


 やがて母は弟を産んだ。あたしが思った以上に使い物にならないことに気づいたせいかもしれない。自分の居場所を確保するためには、手間のかかる子供が必要だけど、手間がかかりすぎると厄介者扱いされるようになる。あたしよりまともなスペアを作っておきたかったのかもしれない。


 中学校に入学すると、違う小学校から来た子供たちがいた。彼女はその中のひとりだった。ひときわ目立つかわいい子なのに、親しい友達はいないようだった。「九条はヤバい」と同じ小学校から来た子供たちが言っているのをよく聞いた。なにがヤバいのかはわからない。でも、あたしには九条サオリの孤独が素敵に見えた。いつの間にか気づくと、サオリを目で追っていた。

「なんであたしを見てるの?」

 放課後、あたしが校門を出たところでサオリに話しかけられた。とっさに怒られると思って、うつむいて黙った。

「すごく気になるんだけど」

 あたしは、「ごめんなさい」と小さな声で言うとその場からそろそろと歩き出した。逃げるなら走った方がよかったけど、あたしは走れなかった。よけいに怒らせてしまいそうな気がしたのだ。

 サオリはあたしの後をついてきた。このまま家まで着いてきたらどうしようと思ったけど、歩くしかなかった。学校から離れ、生徒の姿がほとんどなくなると、サオリは後ろからあたしの肩をつかんだ。あたしは立ち止まるしかなかった。サオリはあたしの前に回り込むと、袖をまくって左腕を突き出した。手首から肘にかけて何本も淡い肌色の線が走っていた。ひとつだけ鮮やかな赤い線があって、あたしはそこから目を離せなくなった。胸の鼓動が激しくなり、頭がくらくらする。あたしは恋に落ちた。

「あんたは?」

 サオリは、あたしの返事を聞かずに腕をまくった。そこにはサオリのきれいな腕とは似ても似つかない火傷の痕があった。母にタバコを押しつけられた痕だ。サオリはしばらく見つめた後で、愛おしそうにこぶになった火傷の痕を撫でてくれた。

「自分でやったの?」

 問われてあたしは首を横に振る。

「じゃあ、仕方がないね。今度、切り方を教えてあげるから友達になろう」

「え?」

「一緒に死のう」

 なにを言われているのかわからなかったが、言葉が意味を持たないことが直感でわかった。サオリもあたしを見ていたのだ。

「あの……」

「火傷させたヤツを殺したいなら手伝ってもいい。そうだ! 一家皆殺しとかよくない?」

 絶対に友達になってはいけないタイプだ。好きに名なんて狂気の沙汰だ。わかっていたけど、サオリの言葉のひとつひとつがあたしの脳髄に染みこんで離れなくなった。なんで母を殺そうと思わなかったんだろう。自分の都合で勝手にあたしを生んで、あたしを知らない男に犯させたあいつなんか殺してしまえばいい。


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