5日目・早朝(残り59㎞)

アリシアの歌声と、ゆらゆらと揺れるトレーラーの振動が心地良くて、私はいつの間にか座ったまま眠ってしまっていたようだった。時間にすればせいぜい一時間とかそこらだろうが、我ながらこの状況で良く居眠りが出来ると思ってしまった。周囲が白み始めている。朝が近い。


彼女はまだ歌っていた。それは恐らく、二十世紀の終わり頃から二十一世紀の初頭にかけての日本のバラードだった。私にとってはもはや古典に等しいが、今でも郷愁を誘う名曲として、著作権が終了していることもありよくカバーされているものだった。原曲は男性ボーカルが歌っていたものだった筈だが、女性の歌唱によって聞くと、また別の趣がある。


夜が白々と明けていく。私は素直にそれを美しいと思った。ほんの数百年前までは、人間は宇宙服を着なければ生きていられない星だったここを人間が人工的にそのようにしたとは思えないくらいの美しさがあると思った。昼間に何の備えもなく佇んでいたら命の危険もあるような過酷な環境なのは確かだが、少なくとも今のこの時間は単純に美しい。地球に比べても何も劣っていないだろう。ただ人間だけがいがみ合ってるだけだ。


だが、私は決して人間の存在を否定したりはしない。人間を、自然から逸脱した存在だとも思わない。惑星の環境を丸ごと変えてしまったとしても、それすら宇宙全体から見れば取るに足らぬ些細なことだろう。人間がどんなに傍若無人に振る舞ったとしても、およそこれから数万年後であっても、宇宙そのものをどうにか出来るような存在になれるとは思えなかった。


まあ、数億年単位の話になってくれば少しは違ってくるかも知れないが、人間程度の生き物が、そこまで生き延びられる気もしない。しかも、宇宙そのものをどうにか出来るようになれば、それはもはや人間とは別の存在のような気もする。


そんなとりとめのない思考を巡らせてる間にも空は明るくなり、ついには日が昇り始めたのだった。


地球でもそうだったが、こういった砂漠や荒れ地において太陽は、必ずしも歓迎される存在ではない。生き物を焼き焦がし命を奪う悪魔そのものとみる人々もいる。灼熱の天空にこそ地獄があり、日の光が届かぬ冷たい地の底にこそ天国があると信じている人々もいる。


だから私には、人間は、環境に合わせて自らの価値観そのものを変えて適応しようとする生き物なんだという実感があった。地球においてはもうただ野蛮なだけの武力衝突も、ここではまだ必要なものとして認識されてるんだとも思う。そして私自身、その価値観の恩恵に与って財を成しているんだ。


別にいまさらそれを悔やむつもりもないし、間違ってるとも思わない。地球ではどうでも、ここではそれは認められてるのだから。ただ、私のそういう生き方が今のこの状況を招いたのだとすれば、なるほどそうかも知れない。だがしかし、だからと言って大人しく殺されてやるつもりもない。一体、誰のどんな思惑が私を殺そうとしているのかも分からないまま死ぬのは御免だ。どんな手を使ってでも生き延びて、何が起こっているのか確かめてやる。私のそういう気概こそが、自らを今の地位に伸し上げたのだからな。


私がそうやって静かに闘志を滾らせている時も、彼女は歌い続けていた。


再び彼女を見る。


さすがに明るくなってきたことで、腕や脚の、痣のようにも見える防弾スキンの変色も、また目立つようになってきた。やはり痛々しくも見えるのは相変わらずだが、さすがに少し慣れてきたかも知れない。すると不意に、彼女が歌うのを止めて、私に問い掛けてきた。


「気温が上がってくる前に、お食事になさいませんか?」


痣だらけと見紛う顔をこちらに向けて、しかし彼女はあの微笑みを浮かべていた。


「…そうだな、そうしよう」


少し慣れてきたように思っても、まだ彼女の顔をしっかりと見る気にはなれず、私はつい視線を逸らしていた。


そんな自分を、情けなくも思う。つい先ほど、今の状況を受け止めた上で生き延びる覚悟を決めたというのに、私が招いた彼女の<傷>を直視することを避けてしまうのを不様とさえ思った。彼女はただのロボットだ。道具に過ぎない。道具を道具として使って傷付き朽ちていくことから目を逸らしていて、その道具を作る者としての矜持が守れるはずがない。


とは言え、頭ではそう思っていても、感覚としては痛々しいと受け取ってしまうのも人間なのだと思った。


それくらいの錯覚を起こさせる程の品質を、アリシア2234-LMNは、我が社の製品は持っているのだ。これは本来誇るべきことなのだと、私は自らに言い聞かせた。おぞましいとさえ思わせるのは、その高い品質だからこそなのだから。


手頃な岩陰を見付け、日が高くなり影が短くなるまでの間に、食事を済ませることにする。食料の中にあった、高温多湿の状態でも長期保存が可能なパックが施されたハムを取り出し、缶詰のブレッドを手にした彼女が、私に話しかけた。


「千堂様、十秒間だけ戦闘モードの使用を許可願えますか?」


戦闘モード? 何をするつもりかと思ったが、


「あ、ああ、許可しよう」


と応じた。すると彼女は、


「ありがとうございます」


と応えつつ、まるで紙袋でも破るかのようにブレッドの缶を千切り開き、中から缶の形のままのブレッドを取り出して、食料と一緒に備え付けられていた果物ナイフでそれに切れ目をいくつか入れて、そこにそれぞれハムを挿んだのだ。


更にはハムと同じようにパックされたレタスも挿み、瞬く間にサンドイッチのようなものが出来上がっていた。


「過酷な状況だからこそ、お食事には潤いが必要だと考えます。見た目は良くないですが、どうぞお召し上がりください。よろしければ、食後のコーヒーもご用意いたします」


広げられたブレッドの缶を皿代わりにして、彼女はそれを私に差し出した。


「器の縁は切れやすくなっております。どうぞお気を付けて」


彼女に言われたとおり、私は怪我をしないように気を付けながら受け取った。


「なるほど、荒野のワイルドサンドイッチというところだな、これは」


有り合わせのものでも少しでも工夫することで人間により良いものを提供しようという彼女のアルゴリズムのなせる業だと思った。我が社の製品ながら、洒落の利いたことをする。


見た目にはなかなかのボリュームになっているそれに、私は遠慮なくかぶりついた。


「…美味い」


思わず声が出てしまう。特に気の利いた味付けがされてるわけではない、缶詰のブレッドにハムとレタスを挿んだだけのそれが、何だかとても美味く感じられた。この状況に思わずそういうものが出てきたからだろうか、それとも彼女のもてなしによるものだろうか。


腹を減らした子供の様にがつがつとそれを食べ切ると、まだ少し物足りないような気がした。だが、彼女が言う。


「現在の千堂様が置かれてらっしゃる状況を考慮しますと、満腹を感じるほど食べることはリスクが伴うと思われます。少し物足りないと感じるくらいが適量だとご理解ください。その分を、コーヒーにて補われるとよいでしょう」


彼女は物足りないとか感じてる人間のことは察することが出来る性能を持っていることを改めて感じた。


「分かった。コーヒーを頼む」


今は彼女に従った方がいいと、素直に思えた。


「コーヒーのカフェインには利尿作用がありますので、本来は砂漠で飲むには適しませんが、嗜好品を少量摂ることは精神の安定にも寄与しますので、一杯程度であれば体の負担もないと思います」


用意されたコーヒーを飲み終える頃、岩が作る影もかなり短くなり、彼女が再びシートをマントのように纏ってそれを広げ、自らを支柱に簡易テントで私を太陽の光から守ってくれるのだった。


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