会話から始まる

赤林 楓

海と酒

「落ちたね」

 波紋を見た君が呟いた。


 3月。都内の開花宣言から10日が過ぎ、鎌倉は多くの観光客であふれていた。桜は暖かい風に揺られているが、満開というにはまだ早い。場所によってほぼ咲いていない木もある。境内には多くの出店が連ねており、昼時の空腹を満たそうとする客達が列を作っていた。

 この間大学院を修了した。何とか完成させた修士論文は教授から合格をもらえたが、お世辞にも良い出来だとは思えない。特にうちの研究室はコアタイム等もなく、他の研究室より時間や成果への姿勢が緩いため、この2年間で一体何が身についたのだろうかと思う。まだよく知らない研究への憧れで大学院進学を希望した当時とは違い、いつしか研究を続けたいとは思えなくなっていた。来月から働く仕事も研究職以外から探した。

「良い天気だねぇ」

 空を仰ぎながら隣を歩く君が言った。君は天気の話をよくする。今日も既に何度目だろうか。

 言われて首を上げると、澄んだ青空が広がっていた。雲一つない空を見ていると、吸い込まれそうな錯覚に陥る。風は穏やかで、木々はわずかに揺れていた。

「そうだねぇ」

 反射の様に僕は答えた。面白い会話をすることが苦手で、気の利いた返しなど思いつくはずもない。しかし、それでも君との会話は楽しかった。

「天気の話をするような相手とは、あまり仲が良くないと言うよね」

 話題提供のつもりで、空を見ながら話し始めた。

 以前、サークル同期の女子と二人きりで駅から一緒になったことがあった。その時はほぼ無言で、会話といえばその日の天気についてだけだった。当時はもう大学4年の夏だったのでその女子とも4年目の付き合いになっていたはずだが、他に共通の話題が分からなかった。早く集合場所に辿り着きたいと思いながら歩いていた記憶がある。

「そんなつもりで言ってないよ。そもそも独り言のつもりで……」

 言い訳の様に君は言葉を重ねる。

 君と知り合ってからもう9年になる。高校時代に同じ部活に所属していた仲だ。試合は男女別だったが、練習は分かれることなく一緒にしていた。当時はクラスも違ったので部活以外での接点はなく、制服姿の君を見慣れないと思うほどだった。

 他に印象的なことと言えば、誕生日が近いことだ。僕と1日違いなので君の誕生日を忘れることは中々ないだろう。

 高校卒業後はお互い別の大学に進学した。そもそも君にちゃんと進学先を聞いたことがあったのか覚えていない。人伝てで知ったような気もする。

「あれは独り言だったのか。毎回何かしら応えていたのに」

「天気が良いと思わず言っちゃうの。そういう気分になることない?」

 君は僕を見上げながら言う。

「分かるよ。今日は、僕も思わず空を眺めながら歩いてしまうから」

 今日は本当に良い天気だった。非常に心地よい。つい呆然と空を見上げてしまうことがあったほどだ。

 僕の回答に満足したのか、君は前を向いて歩き始めた。その時、君の首元を見た僕は、君がつけているネックレスの留め具が鍵形であることに気づいた。金色に光るそれを、綺麗だな、と思った。


 参拝の後、海へ向かった。砂浜には多くの人が訪れていた。

「高校生がいるね」

 裸足で砂浜で遊ぶ制服の女の子達を見て僕は言った。

「あっちにじゃんけんしてる大学生もいるよ」

 君の言葉に波打ち際を振り向くと、橙色に染まる空を背景に数人の若者達が盛り上がっているのが見えた。彼らの人影はもう暗くなっていて、服装等は詳しく分からない。

「誰が海に入るか決めているのかもね」

 こちらを向き楽しそうな声で君は言った。

 辺りを見渡すと、砂浜を割るように海に続く川沿いが石造りになっていた。僕たちはそこに腰かけた。川の対岸では、グラブとボール、バットを使って野球をする4人の男の子達がいた。おそらく高校生くらい。彼らは順番にバットを持ち、グラブを付けた3人の方へボールを打っている。取り損ねたボールが川に落ちたりしないのだろうか。

「最近、仕事で悩み事があって」

 君は突然口を開いた。どうやら、現場における感覚と上司からの指示が合わないと感じているようだ。アルバイト以外の仕事をしたことがない僕には、簡単に応えられる内容ではない気がした。

 少し興奮気味に続ける。

「研修で言われることは分かるけど、お客様へ丁寧な対応をしようとするとそうはいかないの。これは、日本人のおもてなしの心が原因だと思うのよ」

 外国人へは思わず英語で対応してしまうでしょ? 確かに僕もそうだな。しかも向こうは、世界でスタンダードな言語を話しているから日本語を使わずとも日本人と会話できると思って話しかけてくるのよ。そういえば、外国人ってどこでも英語で聞いてくるよね。そうなの、だから私達は相手に伝わりやすい英語で話さないといけないと思ってしまう、それが日本人の持つおもてなしの心が厄介なところだと思う。

 君の解釈が入った話を聞くのは面白い。先ほどの不安はどこかへ行ったのか、僕は思うままに応え会話していた。真剣に悩んでいる君に申し訳ないと思いつつ、このまま話を続けていたかった。


 しばらく無言で対岸の野球を眺めていると、案の定というべきか、飛んだボールを捕れずに川に落としてしまったようだ。

「落ちたね」

 波紋を見た君が呟いた。その表情は悲しげで、君の気持ちを読み取ることはできなかった。

「もう帰ろうか」

 辺りを見渡すとすっかり日は落ち、人影も減っていた。裸足ではしゃぐ女子高生やじゃんけんをしていた大学生達も、既にいなくなっていた。

「そうだね」

 同時に立ち上がると、僕たちは駅に向かって歩き始めた。南風が脇を通り抜け、少し肌寒く感じた。


 夜の海で一人、砂浜に座っていた。手にはハイボールを持っている。缶を開けてからずいぶん時間がたったが、気温は低く冷たい風も吹いているので未だに冷たいままだ。

 あの日からずいぶん経った。今では僕も社会人として働き始めてしばらくが経ち、仕事にも多少慣れてきた。今なら、あの時君が話していた会社の上司との認識の違いについての話にもついていけるかも知れない。

 いや、本当は話す内容なんて何でも良かった。とにかく君と話している時間が楽しかった。

「楽しかったんだ……」

 指先が冷たい右手に水滴が触れるのを感じながら、僕は下を向いて呟いた。

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会話から始まる 赤林 楓 @turtle_neck

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