春になったら

雨世界

1 私が転んだときには、いつもあなたが必ず手を差し伸べてくれた。

 春になったら


 プロローグ


 ……あれ? 私、泣いているの?


 本編


 私が転んだときには、いつもあなたが必ず手を差し伸べてくれた。


 桜野燕が高校の制服に着替えをして、朝、凹んだ気分のままで、家を出ると少し歩いた道の上に、背の高い一人の男子高校生の姿があった。

 燕もよく知っている顔の男の子だ。

 その男子高校生は冬の寒い空気の中で、首に巻いたマフラーを軽く口元にあてるようにして、透明ななにもないからっぽの空を、電信柱の近くに立って、じっと見ていた。

 でも、その男子生徒はやってきた燕にすぐに気がついて、耳に白いふかふかの耳当てを当てて、その細い首に真っ白なマフラーを巻いている燕の姿を見つけて、にっこりと満面の笑みで笑うと「やあ。おはよう」と片手を上げて、燕にそう言った。


 ……でも、燕はそんな愛想のいい男子高校生を無視して先に進んだ。


 燕は普段からとても礼儀正しい子で、自分に挨拶をしてくれる人を無視するような女の子ではなかった。

 では、なぜそんな燕が今日に限って、その男子高校生のことを無視したかというとそれにはちゃんとした理由があった。

 それは二人が昨日、大きな喧嘩をしたからだった。(つまり燕は怒っているのだ)


「燕。ちょっと待ってよ」

 そう言って男子高校生は燕のあとについてくる。でも、燕はそれでも、その男子高校生のことを無視し続けていた。(顔を左から出せは自分は右に、右から顔を出せば左に動かす、と言った感じだった)


 その男子生徒の名前は、三森愁(みもりしゅう)くんと言った。

 愁くんと燕は、幼馴染の関係で小学校の低学年のころからの大の仲良しの関係だった。

 そんな二人が大きな喧嘩をした理由。(小さな喧嘩はたくさんあったけど、大きな喧嘩を二人は今までしたことは一度もなかった)


 それは愁くんが燕にある重要な出来事を、ずっと秘密にしていたからだった。

 それは愁くんの家族の引越しのことだった。


 愁くんの家族である三森家は、燕の桜野家のすぐ隣の家だったのだけど、(二人はお隣さんの関係でもあった)もう少しして、冬が終わるころになると、愁くんたち三森家の家族のみんなは、お父さんのお仕事の都合で、二人が住んでいる東京から、遠くの街に引越しをしてしまうということだった。

 そのことを愁くんは「僕から燕に伝えるから」と言って、燕に秘密にしていたのだけど、ある日、ずっと愁くんがそのことを燕に言えずにいると、周囲のご近所の奥様からの噂話として、燕の耳に三森家の引越しの話が聞いてしまったのだった。(その奥様は話したあとに、しまった、と言う顔をしていた)


 燕はそのことをすぐに愁くんに問い詰めた。

 すると愁くんは「ごめん。それは本当のことなんだ。もっと早くに僕の口から直接燕に伝えるつもりだったんだけど、なかなか言えなくて……」と燕に言った。

 それで、そのあと二人は大げんかをしたのだった。


 その日のひとりぼっちの帰り道で、燕はずっと泣いていた。(それが燕の気分が今朝、すごく凹んでいる大きな理由だった)


 燕は愁くんと離れ離れになりたくなかった。

 ……でも、これは、もう二人にはどうすることもできないことだった。


 燕は道の途中で立ち止まると、くるりと体の向きを変えて、後ろからついてくる愁くんを見た。

「え? おっと」

 と言って、愁くんは思わず、突然立ち止まった燕とぶつかりそうになった。

 燕はじっと、怒った顔をしたまま、愁くんのことを見ている。

 そんな燕に向かって、「やっと、僕と話をしてくれるつもりになったんだね。燕」とにっこりと本当に嬉しそうに笑って、燕に言った。


 そんないつもの愁くんの温和な笑顔を見て、燕はなんだか一人でずっと怒っているのが、馬鹿らしくなってきてしまった。

 燕は「はぁー」と大きなため息をつくと(それは白い雲のような息となって、透明な冬の空気の中に消えていった)じっと、小さく笑いながら、愁くんのことを見つめた。


「本当に、冬が終わったら、引越ししちゃんだね。愁くん」と燕は言った。

「うん、そうなると思う。引越し先の家にも、夏休みに一度みんなで行ったし、新しい学校も、最近、見学に行ったんだ。山と緑の溢れる場所の中にある高校だった。本当にすごくいいところだったよ。それと、その街では夜には星がすごく綺麗に見えるんだ」愁くんは言う。


「私も東京からそっちの高校に通おうかな?」燕は言う。

「無理だよ。東京からじゃ、高校に着くころには授業が全部終わっちゃうよ」とにっころと笑って愁くんは言った。


「じゃあ、こっちに残ってよ。愁くんがさ。一人暮らしとかできないの?」燕は言う。

「無理だよ。僕だけこっちに残るなんてできない。僕はみんなと一緒に向こうの街に引越しをするよ」

 と愁くんは言った。(まあ、愁くんからそう言うだろうな、と燕は思った。愁くんは、とても家族を大切にする優しい人だから)


「じゃあ、遊びに行ってもいい? 春休みとか、夏休みとかに、冬休みとかの期間に、ときどき」と歩きながら燕は言った。

「もちろん。途中まで迎えに行くよ。燕にも、あの綺麗な山の風景を見て欲しい」と愁くんは言った。

「わかった。じゃあ、『約束』だからね。絶対忘れないでね」燕は言う。

「わかった。これは『二人の絶対の約束』だね」とにっこりと笑って愁くんは言った。


 三森愁くんは、身長が180センチ近くあり、(燕は小柄だったから、二人の身長差はかなりあった)痩せ型で、温和な顔をしている、いわゆる好青年と周囲のみんなから呼ばれているような、そんな、どこにでもいるような普通の高校生だった。(私は顔はかっこいいと思うけど)

 少し癖っ毛で、優しくて、いつも笑っていて、怒ったりすることがほとんどなくて、大人しい性格をした男の子。(小学校のころからずっとそうだった。あのころは今と違って、すごくちっちゃかったけど……)

 燕の初恋の相手でもある、男の子。(今、燕が愁くんのことをどう思っているかは、燕はみんなには秘密いしていた。……まあ、ばればれではあったけど)


 ずっと、一緒だった男の子。

 これからも、ずっと一緒にいると勝手に思い込んでいた、……私の大好きな人。


 燕は隣を歩いている愁くんの顔を、ちらちらとときどき見つめた。

 愁くんは、そんな燕の視線には気づかないままで、透き通るように高い、青色をした雲ひとつない朝の時間の冬の空を見たり、その辺りを歩いている猫を見たり、遠くをみんなで一緒に歩きながら登校しているランドセルを背負った小学生の列を眺めたりしていた。


 二人はやがて、高校に向かう途中の道にある大きな交差点のある場所までやってきた。

 そこで二人で信号待ちをしているときに、「そういえばさ。一つ、引越しをする前に、燕に聞いておきたいことがあるんだ。今、聞いてもいいかな?」とちょっとだけ照れながら愁くんが燕に言った。

「私に聞きたいこと? 愁くんが? 今更? それっていったいなに?」と本当になんのことなのかわからずに首をかしげながら、燕は言った。


 すると愁くんは燕を見て、「燕ってさ、今、好きな人とかいるの?」とそんな直球の質問を(いきなり)燕にしてきた。

 その愁くんの言葉を聞いて、燕は本当に驚いた。(そして、その顔を真っ赤に染めた)


 燕は一瞬、自分が愁くんに、なんて言えばいいのか、(自分の気持ちを素直に伝えるべきなのか)よくわからなくなってしまった。(頭の中が真っ白になった)

「誰か好きな人とかいるのかな?」愁くんは珍しくとても真剣な顔をして燕に言った。

「え、あ、あの、……えっと」燕は困った。

 それは、今、目の前にいるあなたのことです。私が好きなのはずっと昔からたった一人、三森愁くんだけです。と勢いのままで、言えばいいのだろうけど、実際にこう本人から、誰か好きな人はいるの? と質問されると、(しかも突然、それもなぜか朝の登校のときに)なかなか正直に、急には、そうは言えないものだった。(こっちにだって準備が必要なのだ。心の準備が……。なので燕は顔を真っ赤にしながら、口ごもってしまった)


「もし、好きな人がいるなら、……それは、それでいいんだ。僕は燕の友達として、本当にその恋を応援する。僕にできることなら、相談に乗ったり、協力だって、なんだってするよ。でも、もし好きな人が今、いないのだとしたらさ、……その、つまりね、まだ僕にもチャンスがあるんだとしたらさ……」

 と顔を赤くして愁くんはきょろきょろと視線を動かしながら、そう言って、それから最後にじっと燕を見る。


「……いつか、僕の大切な話を、聞いてもらえるかな?」

 と燕に言った。

 

 燕は本当に驚いていた。

 燕はずっと愁くんのことが大好きだったのだけど、愁くんのほうから(嫌いってことはないと思うけど)こんな風に、燕に向かって友達以上の関係を求めてくるような行動をすることは、今日が本当に初めてのことだった。(燕は自分の気落ちを、片思いの恋だと思っていた)


「その話。絶対に聞きたい」

 燕は言った。

「本当に?」

 と驚いた顔をして、愁くんは言った。


「うん。もちろん。本当だよ。絶対に聞きたい。それも、できるだけ早く聞きたい」とにっこりと笑って(その大きな目を、きらきらとさせながら)燕は言った。

「わかった。すぐに話すよ。僕の本当の気持ち」とにっこりと笑って愁くんは燕に言った。

 そのとき、交差点の信号が赤から青に変わった。

 それを見て、二人は一度、会話をやめて、十字の形に交差している大きな交差点の横断歩道の上を、周囲にいる大勢の人々と一緒に歩き始めた。


 横断歩道を渡りきったときに、燕はなんだかいつの間にか泣いていた。


 ……今、私は、嬉しいから泣いているのだろうか、それとも、悲しいから泣いているのだろうか、これはいったい、どっちの涙なんだろう? と愁くんに隠れて涙をそっと指で拭いながら、そんなことを燕は思った。


 その答えは、自分でもよくわからなかった。


 大きな交差点を渡って、二人はいつものように、自分たちの通っている高校までの道のりを、二人で一緒に、仲良く(楽しそうに笑いながら、ずっと一緒にいた、小学校時代のときのように幸せそうな顔をして)歩いて行った。


(次の日は、……今年初めての雪になった)


 春になったら 終わり

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春になったら 雨世界 @amesekai

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