5-3

 心地よい気怠さが薄れてきた頃、彼方は体を起こし、周りを見た。もうすっかり夜の帳が降りている。希海の表情も、はっきりとは見えなくなっていた。

「希海、寒いか?」

 彼方がそう訊くと、希海が軽く首を振る。

「ううん、大丈夫。彼方くんが温めてくれたから」

「そっか」

 彼方は唇に軽く口づけをすると、希海を抱きしめた。

「希海はなぜ、塾でいじめられるようになったんだ?」

 彼方は、気になっていたことを希海に尋ねる。

「手紙をね、見られたんだ」

「手紙?」

「うん。いつか渡そうと思って、ずっと持ってた手紙」

「渡したい人がいたのか?」

「うん。その人、とても輝いてた。自信満々で、でもいつもにこにこ笑ってて、かっこよかった」

「なんて、手紙に書いてたんだ?」

 そこで希海は、口をつぐんだ。そして彼方の腕から体を離すと、自分から彼方の胸に顔をうずめる。

「はやせくん、すきです。って」

 希海の吐息が、彼方の胸を締め付けた。

「なんで」

 彼方はそれ以外言葉が出てこず、希海の頭を腕で抱きしめる。

「ずっと、見てたよ。ずっと、君を追いかけてた」

 希海が彼方の背中に腕を回した。

「じゃあ今度は、俺がお前を追いかける番だ」

 彼方が希海の髪に口づけをする。希海は「うん」と嬉しそうにうなずいた。

 すっと彼方が寝台から立ち上がり、服を探し始める。

「彼方くん?」

 希海も体を起こした。

「ここを出よう」

 彼方が希海にそう呼びかける。

「わかった」

 希海が、微笑みながらそう返事をした。

 彼方は下着とジャージを身に着けると、希海が十二単を着るのを手伝う。全てを元通りに着るのは無理そうだったので、単衣と袴を着た後は、寒くないよう三枚ほどの着物だけを希海に羽織らせた。希海の手を引き、帳、そして部屋を出る。

 母屋の階段を下りようとして、あの能面の女がその下に立っているのが目に入った。

「希海を連れて行く。いいよな」

 彼方は、能面の女にそう声を掛けた。しかし、女は動こうとしない。

「俺は希海が好きだ。大好きだ。これからずっと、一緒にいる。だから」

 能面の目の真ん中、瞳だけが全ての光を吸い込んでしまったように黒い。彼方はその穴から視線を外すことなく、じっと見つめる。

 ふとその能面の表情の意味が、彼方には分かったような気がした。

 不安、心配、そして願い。

「心配するな。希海を、一人にはしない」

 彼方がそう言った瞬間、能面にひびが入り、そして割れた。その下では、『佳月』が、眉を顰めながら彼方を見ていた。

 佳月の口元にわずかな、ほんとうに僅かな笑みが浮かぶ。そして、融けるように消え失せた。

「行くぞ」

 彼方が後ろにいた希海に声を掛ける。希海が大きくうなずいた。その手を引き、屋敷の門へと歩く。二人とも裸足ではあったが、彼方は不思議と寒いとは感じなかった。

 門の前に立つ。閂(かんぬき)はかかってはいない。左の門の取っ手を彼方が、右のものを希海が握る。そこで希海が、眉を少し中に寄せる。

「どうした?」

 彼方はそれにすぐ気が付き、希海に声を掛けた。

「少し、怖いかな」

「俺がいる」

「うん」

 希海の顔から不安が消える。

「彼方くんが、僕の扉を開けてくれたね」

「えっ?」

「ううん、何でもない」

 希海が、天使のように微笑んだ。

「さあ、開けるぞ」

「うん」

 二人で同時に門を引っ張る。門が開くと、二人の正面には青い月が空に浮かんでいた。そして眩いほどの光が二人を包み込む。

 二人は抱き合ったまま、その光の中に溶けていった。

 目を開ける。彼方の視線の先に、夕日に照らされたマンションのエントランスの床があった。左手を床についてはいたが、右手は誰かに握られている。彼方はゆっくり顔を上げ、自分の手を握っている人物の顔を見た。

 希海が、そこにいた。

 何と声を掛けていいのか、彼方が一瞬迷う。希海がしゃがみ、顔を彼方へと近づけた。

「希海」

 辛うじて、名前だけが彼方の喉から外へ出る。希海が、手で彼方の顔に触れた。

「何、彼方くん」

 そして微笑む。彼方は、我を忘れ、希海に抱き着いた。その拍子に希海が尻餅をつく。

「希海、希海!」

「か、彼方くん、ここ、マンションの入り口だよ」

 希海が彼方にそう言うと、彼方は慌てて希海から離れた。

「ご、ごめん」

 二人ともが床に座り、見つめ合う。そしてどちらからともなく、笑い合った。

「心の中、全部、見られちゃったね」

 希海が恥ずかし気に彼方を見る。

「俺も、自分の気持ち全部、希海に見せた。だから、おあいこだ」

 彼方も恥ずかしくなって、視線を希海から外した。そしてまた希海へと戻す。どちらともなく笑いが漏れた。

「N高合格に向けて、勉強しないとね」

「そうだな。英語はなんとかなるが、国語と社会、厄介なのが二つもある。しばらくは、勉強以外できそうにないな」

 彼方が肩をすくめる。すると希海がぷっと噴き出した。

「何で笑うんだ?」

 彼方が不思議そうに尋ねる。

「彼方くん、受験科目に社会はないよ」

 希海はそう言って、また笑った。

「あ、あれ、そうだっけ?」

「うん。そんなことも知らなかったんだね」

 希海の声には、少しだけ呆れたというニュアンスが混じっている。

「だって、受けるつもりなかったしな」

 バツの悪さをごまかすために、彼方が少し顔を背ける。希海は笑顔のまま、彼方の横顔に向けて「ありがとう」とつぶやいた。

「それは受かってからだ」

 彼方が立ち上がる。つれて、希海も立ち上がった。

「国語は、僕が教えてあげるよ」

「ほんとか?」

「うん。その代わり、数学を僕に教えてくれる?」

「任せろ」

 彼方が右腕に力こぶを作る。希海が口元に手をやり、笑いを隠した。

「じゃあ、一緒に、勉強しなきゃね」

 希海の目に少しだけ熱いものが宿る。

「しばらくは勉強だけだぞ」

 彼方の顔が、少し赤くなった。

「そ、そうだね」

 希海の顔も赤くなる。それは夕日のせいではないだろうと、彼方は目を細めながら思った。

 希海が、自分の母親に彼方を紹介すると言い出したが、彼方にはその前にやっておきたいことがあった。翌日にまた来ると約束し、彼方は自分の家へと戻る。家に帰ると、真っすぐ父親の部屋に行った。

 部屋では、父親が机に向かって何か作業をしていた。仕事で使う資料でも作っているのだろうか。

「何だ」

 父親は、部屋に入ってきた彼方に目を向けることもなく、作業の手を動かし続けている。

「N高を受けたい。受けさせてくれ」

 父親の背中に向けて、彼方はそう言った。父親の手が止まる。顔だけを彼方の方に向け、しばらくの間彼方の目を見ていたが、「好きにすればいい」と言うと父親はまた作業に戻った。

 次の日から彼方は、希海と一緒に勉強を始めた。年末年始、そして受験まで、そのほとんどを希海と過ごす。

 そして、受験日を迎えた。

「自信ないなあ」

「あれだけ一緒に頑張ったじゃない。大丈夫だよ」

 合格発表の日、彼方は希海と一緒にN高へと向かった。希海は手ごたえ十分だったらしいが、彼方はやはり国語の出来に自信が持てない。それなりにできるようになったとは思っていたが、結果を見るまで分からないというのは、つらいことだった。

 もし自分が不合格だったら、そう思うと自然にうつむき加減になる。その度に、希海は彼方を励ますのだった。

「ほら、彼方くん、こっち」

 希海が彼方の手を引っ張っていく。校門を入って、結果が張り出されている体育館へと向かった。中に入ると、いくつかのグループがいて、何組かの親子が声を上げて喜んでいる。それを見て、彼方の緊張がさらに増した。

「行こう」

 入試結果は、体育館の二階席の手すり部分に白い紙で貼ってあった。それを見上げる親子もいる。

 希海がその前へと駆け足で近寄り、上を見上げた。彼方も見ようとしたが、受験番号が何番だったか不安になる。慌ててカバンから受験票を取り出し顔を上げると、希海が貼り出されている紙を見つめながら、軽く口を開け、固まっていた。

「の、希海」

 彼方が、希海に声を掛ける。と、希海の目から涙がこぼれ落ちた。そしてゆっくりと彼方の方を向く。

「これからもずっと、一緒にいられるね」

 そう言って微笑んだ希海の顔は、とても美しかった。

「ああ」

 彼方がゆっくりと頷く。希海は人目もはばからずに、彼方へと飛びついた。

 お互いの温もりを確かめ合うように、抱きしめ合う。


 二人の世界は、いつまでも続いた。


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三日夜の月をキミと一緒に たいらごう @mucky1904

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