5-2

「希海!」

 希海がドアの向こうへと入ろうとしている。その背中に声を掛けた。希海が、歩みを止める。

「馴れ馴れしく呼ばないでって、言ったよね」

 振り向きもせず、希海が答えた。背中まである希海の長い髪が、ダッフルコートのフードに掛かっている。低い位置まで降りてきた太陽が発する琥珀色の光がその髪の反射し、輪を作っていた。

「ご両親、アメリカに行くんだってな。でも希海はN高に受かったら、日本に残るんだろ?」

 遠い存在。別世界の存在。彼方は希海のことをずっとそう思っていた。でも、もうそれはやめよう。

「N高は、受けない」

 しかし希海の答えは、彼方の想定とは違っていた。

「な、なぜだよ。受けるって言ってたじゃないか」

「君には関係ない」

「関係ある。お前をあの屋敷から連れ出すと約束した」

 彼方は、焦りを感じた自分の心を一生懸命に鎮める。そう、自分は、その別世界へ希海と一緒に行くと決めたのだ。

 希海が、振り向く。眉を顰め、彼方を睨みつけた。

「できもしないこと、言わないで」

 怒り、ではない。憐みとも少し違う。希海の瞳に浮かんでいる色は、悲しみと、そして失望だった。

「希海」

 彼方は言葉を失った。

「君は逃げたじゃないか、彼方くん」

 心が一瞬ぐらつく。しかし、『佳月』が彼方の名前を初めて口にしたのに気が付き、彼方はもう一度自分を奮い立たせた。彼方は希海に駆け寄り、コンビニの袋を持っていた左手をつかむ。

「希海、聴いてくれ」

「もう、僕の心の中に入ってこないで。僕の心の中を、見ないで!」

 希海が叫びにも似た声を上げ、体をよじり、彼方の手を振り払おうとした。彼方が希海の手を離さないように強く握り、もう片方の手も取る。

 希海がはっとした表情を見せた。

「俺は、俺は希海のことが」

 見つめ合う二人。希海の黒い瞳に、彼方の姿が映し出された。

 その後の言葉を言おうとしたが、彼方を強烈な揺れと視界が崩れるような眩暈が襲う。彼方は、希海を離すまいと、その体に抱き着いた。

「お前のことが」

 もう一度言おうとして、しかし彼方はとうとう我慢できなくなり、希海の体の上を滑るように床に膝をついた。

 我慢できないほどの気持ち悪さに耐えきれず、彼方は床に身体を伏せた。これまでとは比べ物にならないほどに強く、そして時間も長い。時折、胃の中のものが喉を上がってきたが、それを何度も飲み込んだ。

 気持ちの悪さが治まった時、彼方は、もう少しで自分の想いを希海に伝えられたのにという悔しさと、そしてもしかしたらという期待を持って、顔を上げた。

 果たして、彼方の目の前に、屋敷の門が立っていた。

――ここにまた、来られた。

 彼方の心に湧き起こった歓喜は、しかしすぐに、様子のおかしさを訝しむ気持ちに変わる。立派だった門構えは、屋根が落ちそうな程に壊れていて、そこから両側に伸びる土塀のあちらこちらにもひびが入っていた。所々、崩れている場所さえある。

「どういうことだ」

 彼方の口から思わず独り言が漏れた。立ち上がり、手と足についた土を叩き払う。門に近寄り、力の限り叩いた。

「誰かある! 誰かある!」

 中だけではない。屋敷にも聞こえるように、彼方はあらん限りの声を張り上げる。

「誰か! 誰か!」

 しばらくの間門を叩き続け、声を出し続ける。声が喉に引っかかり、むせる。咳が治まったら、また彼方は門を叩き始めた。時々門に体当たりをしてみるがびくともしない。蹴ってみたものの、結果は同じだった。疲れて、お尻から地面に座る。

 視線の先、地平線が燃えるように赤く輝いていた。しかし、それはどこか消えゆく灯火が放つ最後の光のように見える。空は、地平線から上にあがるほどに青さを増していき、彼方の頭上から反対側の空はもう瑠璃色の濃い闇に沈んでいた。

 門の向こう側に人がいる気配はない。門が動く様子もない。彼方はふと、土塀の崩れた個所なら上に手が届くのではないかと考えた。立ち上がり、切り込みが入ったように崩れている場所に近寄る。そして手を伸ばしてみた。

 そのままでは手は届かないが、助走を付ければもしかすれば届くかもしれない。彼方は少し壁から離れると、勢いをつけて走り出し、壁に向けて跳んだ。駆け上がるように足を動かし、手を伸ばす。足は滑り落ちたが、しかし右手はむき出しになった土をつかんでいた。

 しかし、瓦の破片だろうか、鋭いものが手のひらに食い込んでいる。彼方は、うめき声をあげながら右手で体を持ち上げ、左手を土塀の上に掛けた。そのまま力を振り絞り、足も使いながら塀の上へと上る。それを乗り越え中へと跳び入ると、その場に座り込んだ。

 右手を見る。土は付いていたが血は出ていない。彼方は手の汚れをジャージのズボンで拭いて払った。

 屋敷は闇に沈もうとしている。その屋敷を見て、彼方は息を飲んだ。まるで廃墟のような見目に変わり果てている。渡り廊下はもう完全に崩れていて、それに連なる母屋部分も屋根が崩れ落ちていた。母屋の屋根を覆っていた瓦は半分近くが剥がれていて、木の板のようなものがむき出しになり反り返っている。柱は屋根の重みで曲がっていた。

「希海!」

 彼方は大きな声で希海を呼びながら、屋敷の方へと走った。所々穴の開いた階段を駆け上がる。縁側にも、そして柱の内側の廊下のような板張りにも、木が割れて穴の開いた箇所が数多くある。部屋を隠す御簾は、まだ掛かってはいるものの破損がひどく、そのほとんどが斜めを向いていた。

 もう一度希海の名を叫びながら、彼方は御簾の中へと入る。奥に見える壁、そして天井も一部が崩れていた。部屋の真ん中、寝台を囲う帳が、明らかに分かるほど汚れ、ボロボロになってはいたが、それでもまだそこにあるということに彼方はほっと息をついた。

「希海、いるのか?」

 声のトーンを少し落とし、呼びかける。そっと帳を開け、思わずあっと声を上げた。

 十二単姿の希海が、胸の上で両手を組んだ状態で寝台に横たわっていた。長い髪が頭を中心に扇のように広がっている。目をつむっている様は、まるで静かに最期の時を待っているようだ。

「どうして」

 彼方が傍に駆け寄る。しかしどうしていいか分からない。

 眠っているのか、それとも――そんなことは考えたくない。彼方の手が、希海の体の上で、すべきことを探して彷徨った。

 希海が着ている十二単までもが、かなりの年数がたったかのように色褪せていて、あちらこちらに綻びができている。

 と、希海の口が僅かに動き、微かな声が漏れる。それが彼方を我に返らせた。

「希海!」

 そう呼びかけ、希海の体を揺らす。彼方は、顔に手を当てようとして、自分の手が汚いことを思い出し、またジャージに手をこすりつける。そして、希海の顔を両手で包み込んだ。

 思わず手を引っ込めそうになり、それを我慢する。それほどに、希海の顔は冷たくなっていた。自分の熱が伝わるようにと、彼方はそのまま希海の顔に手を押し当てる。

 希海が僅かに目を開けた。

「彼方……くん」

「ああ、そうだ。良かった。どうした、具合が悪いのか?」

 彼方は、希海の体を見回してみる。怪我をしているわけではなさそうだった。

「どうして」

 希海がつぶやくように声を出す。

「何が」

 彼方は返事をしながら希海の額に右手を当てた。熱があるどころか、冷たさばかりが伝わってくる。

「どうして、また来たの?」

 視線だけを彼方に向け、希海が小さく口を動かした。

「お前を、ここから連れ出すためだ」

「でも」

 希海が手を動かし、彼方の手を握ろうとする。

「大丈夫か? どこが悪い。どうすればいいんだ」

 そう言って彼方は、希海の右手を左手で握りしめた。

「とても、寒いんだ」

 希海はそう言うが、彼方には部屋の中がそこまで寒いとは感じられない。希海の体も震えているわけでは無かった。

「ここは、そんなに寒くはないぞ」

「さむい、よ」

 希海の左手が、彼方を求めてゆっくりと動く。

「分かった。俺が温めてやる」

 彼方は靴を脱ぎ捨て、寝台へと上がる。そして希海を横から抱きしめた。しかし十二単が邪魔で、うまく体を密着させることが出来ない。

「ど、どうだ」

 彼方の問いかけに、しかし希海はわずかに顔を左右に振るだけで、眉を寄せ、苦しそうな表情を見せている。

 彼方は、自分の頬を希海の頬に押し当てた。やはり冷たい。彼方はすっと立ち上がると、自分が着ているジャージを脱ぎ始めた。

「ちょっと待ってろ」

 そう言って彼方は下着まですべてを脱ぎ捨てる。決して筋肉質ではないが均整のとれた彼方の体を、希海は目を細めて見上げた。

「それじゃ、彼方くんが、寒いよ」

「いいから」

 彼方が、希海の十二単の帯を外し始める。多少乱暴な手つきでそれを引き抜いた後、唐衣(からぎぬ)、表着(うはぎ)、五衣(いつつぎぬ)とよばれる十二単の重ね着の前を開き、希海の腕を袖から引き抜いた。

「どう、するの?」

 希海の問いかけにも、彼方は答えない。袴の腰ひもをほどき、袴を下にずらす。希海の口から「あっ」という声が漏れると、何も身につけていない希海の下半身が彼方の目前にさらされた。希海が恥ずかしさに少し身をよじる。彼方はそれを気にすることなく、希海を覆っていた最後の着物である単衣(ひとえ)の袖から希海の腕を抜いた。

 彼方の目の前、広げられた十二単の上には、希海が生まれたままの姿で横たわっている。希海は、右足を少し曲げて、彼方の視線から自分のものを隠すように、左足の方へと傾けていた。

 彼方と比べると、希海の身体の線は細すぎるほどに細い。それでも、絹のような滑らかな肌、体の造形、そして恥ずかしさに悶える表情を、彼方は美しいと思った。

 彼方が、希海の上に自分の体を覆いかぶせる。足と足、お腹とお腹、胸と胸、顔と顔、そして下腹部と下腹部が重なった。

「嫌、か?」

 彼方が希海にそう尋ねる。

「ううん」

 希海が、軽く首を振った。希海の腕が彼方の背中へと回され、彼方の体を抱きしめる。彼方の鼻と希海の鼻が触れ合った。

 彼方が左右の十二単をつかみ、二人の体をくるむ。

「これで、どうだ?」

 彼方の肌に、希海の肌の冷たさが伝わってくるが、それはつまり彼方の熱が希海に伝わっているということでもあるのだ。

「もっと」

 しかし希海が、囁くようにそう言葉を漏らす。彼方はもう少しだけ体重を希海に預けた。

「こうか?」

「もっと」

 希海はそう言うと、彼方をきつく抱きしめた。彼方の手もそれに応えるように希海の頭を抱えた。二人の頬と頬が触れ合う。

「僕を、ここから連れ出してくれるの?」

 彼方の耳に、希海がそう囁く。

「ああ、そのつもりだ」

「じゃあ、連れ出してくれた後は?」

「ずっと、希海と一緒にいたい。来年も、再来年も、もっと後も」

 そこで言葉を切り、くっつけていた頬を離すと、彼方は希海を真正面から見据えた。

「でも、希海がどう思ってるのか分からない。そう思ってるのは、俺だけかもしれない。もしそうなら」

 彼方の口が更に言葉を繋ごうとするのを、希海が唇で塞いだ。そのまま希海が自分の舌を彼方の口へと差し入れる。彼方の口の中で二人の舌が絡み合い、唾液が混ざり合った。

 今度は彼方が希海の中へと舌を入れる。希海が息継ぎをするように息を漏らした。その後しばらく、二人は息を吸うのも忘れ、お互いの舌を吸い、唾液を飲み込んだ。

 つと、希海の口が彼方の口から離れる。二人を繋ぐ唾液の糸が一瞬のきらめきを放った。

 希海がふっと悲しげな表情を見せる。それを見た彼方の心に、不安の影が差した。

「希海」

「僕も……僕も、彼方くんと一緒にいたい。ずっと、ずっと、すっと一緒にいたい。でも、僕が思ってるのと、彼方くんが思っているのとは違うかもしれない」

「違う?」

「うん。彼方くんは、僕とどんな関係になりたいの?」

 どんな関係。

 改めてそう訊かれ、彼方はそれをはっきりと口にすることに臆病になった。その関係になるのが怖いのではない。それを口にした時に、希海に拒否されるのが怖い。

「希海は」

 だから彼方は、希海の気持ちを聞こうとした。しかし、希海が首を左右に振って、彼方を遮る。

「僕が、じゃなくて、彼方くんがどうしたいか、聞きたい」

 希海の顔にも、不安が形となって表れている。二人ともが、お互いの心を怖がっているのだ。

 彼方は、希海にそんな表情をさせたくはないと思った。希海の心から、負の感情を一つでも多く取り除いてあげたい。だから、自分の気持ちをすべて伝えて、それで希海の気持ちと違っていたのなら、希海の気持ちに従おう。彼方はそう心に決めた。

「希海が好きだ。希海と、恋人になりたい」

 彼方は、自分の心の中にいつのまにか芽生えていた気持ちをはっきりと言葉にして、希海に打ち明けた。

 彼方には、それが希海の気持ちと一致しているのかは分からない。だから、その言葉を聞いた希海の反応が怖い。

 でも、と思う。もう自分は、逃げたりなんかしない。

「僕たち、男同士だよ」

 しかし希海の表情は、彼方の言葉では変わらない。

「構わない」

 彼方が、一瞬の間も置かずにそう答える。

「みんなに知られたら、きっと陰口をたたかれるよ」

「構わない」

「いじめられるかも」

「構わない。俺が希海を守る」

 彼方は、真っ直ぐ希海を見つめたまま、そう答えた。

 希海の手が、彼方の頬に触れる。

「彼方くんが一緒じゃなきゃ、僕はN高には行きたくない。一人じゃ、あそこに行くのが怖いんだ。でもN高に行かないのなら、僕は」

 希海がそこで言葉を切った。

「アメリカに行かなきゃいけない、んだな」

 彼方がそう確かめる。希海が小さくうなずいた。

「俺がN高に受かればいいんだろ」

 彼方の言葉に、希海が少し驚いたように目を見開く。

「でも、彼方くんは」

 希海がそう言うのを、今度は彼方が唇で遮った。

「俺は希海が、好きだ。大好きだ。だからやってやるよ。それがお前の望みなら、バケモノだろうが何だろうが、なってやる」

 彼方が、希海の鼻に指でそっと触れる。

「俺が、お前の住む世界へ行ってやる。今からでも絶対に合格してやるよ」

 そして希海に向けて一つ、片目をつむって見せた。

 希海の目から雫が一粒、目尻からこめかみへと落ちていく。彼方がそれを指で拭った。

「彼方くん」

「なんだ」

「お願いがあるんだ」

「ああ、いいぞ。言ってみろ」

「もっと彼方くんを」

「ああ」

「感じたい」

 希海の言葉に、彼方が希海に頬を寄せ、ぎゅっと抱きしめる。

「もっと、温めて。僕を、中から」

 そう言うと希海は、手を彼方の下腹部へと動かした。希海の手に、彼方の硬くなったものが触れる。

「彼方くんの、かたい、ね」

「希海のも、な」

「恥ずかしい」

 そう言いながらも、希海は張り詰めるほど硬くなった彼方のものを、自分の隠された蕾へと導いた。

「入れて」

「痛く、ないのか」

「彼方くんの、濡れてるし、それに」

 希海の手に力が入り、彼方のものを蕾へと押し付ける。

「君と、一つになりたい」

 希海が、熱い吐息を漏らした。

 彼方の中で、本能に掛けられていた理性の箍(たが)の外れる音が響き渡る。彼方は欲望のままに、自分のものを希海の中へゆっくりと、入れていった。

 希海の口から苦悶の声が漏れる。彼方は慌てて動きを止めた。

「やっぱり」

「お願い、そのまま」

 痛みに我慢しながらも懇願する希海の声を聞き、彼方が再び動き出す。中へ、中へ。それをゆっくり抜き、そしてまた中へと入れる。

 その度に希海の口から声が漏れたが、苦悶に満ちていたものが次第に喘ぎへと変わっていくと、彼方はその動きを速めていった。

 襞から伝わる快感に、彼方の口からも時折声が漏れる。彼方が希海のものを手で握りしめた。そして、自分の動きに合わせてそれを動かす。希海の喉から、驚きとも歓喜ともつかぬ叫び声が発せられた。

 彼方と希海、二人の声がまるで呼応し合うように部屋の中に響き、それが限界まで早まった時、彼方の精が希海の中へと放たれる。それと同時に希海の精も宙を舞った。

 つながったまま、それが自然と離れるまで、彼方と希海は抱き合い、荒い呼吸を交わす。希海が彼方の耳に唇を寄せ「彼方くんの、温かいね」と囁いた。そしてまた、舌を絡めあう。

 このまま融け合いたい。彼方はそう思った。

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