5-1
眠りたくなくても人は眠る。でも、眠りたくても眠れない夜もある。
彼方は、全てを忘れてただ眠っていたいと思った。しかし、目をつむれば希海の声が聞こえてくる。それが夢の中の出来事なのか、それとも目が覚めていても聞こえる幻聴なのか、彼方には分からなかった。
気が付けば、窓の外が明るくなっている。冬至を過ぎたばかりのどれほど夜が長い季節であっても、日の出は必ずやってくる。しかし、彼方の心は暗いままだ。
屋敷での出来事が、単なる妄想であるのなら、どれほど楽だろうか。別世界の人間とのつかの間の邂逅という、夢。しかし、彼方の体に残る希海の肌の感触は、シャワーを浴びても、微睡(まどろみ)から覚めても、消えてはいない。
彼方は重たい体をベッドから引きずり下ろすと、洗面所へ行って顔を洗った。台所へ行くと、食卓にはトーストとハムエッグ、そしてサラダが並べられている。彼方の席の前には、すでに食べ終わった後の皿が置かれていた。父親はもう朝食を済ませたのだろう。
彼方が朝食を食べ始めると母親が彼方に話しかけてきたが、彼方は生返事を返すだけで、話は適当に聞いていた。
「今日から冬休みね。今日は何をするの?」
「勉強」
「そう、偉いわね」
母親は随分彼方のことを気にかけている。しかし思春期にありがちな反抗心は、彼方の場合、主に父親に向けられていて、母親につらく当たることはほとんどない。強いて言えば、一人にしておいて欲しいと願うくらいだろうか。
朝食を済ませると、彼方は自分の部屋に引きこもった。かといって、勉強をするという情熱は湧いてこない。それでもなんとか腕を動かし、本棚に刺さっている古典の問題集をつかむ。
『明日も、来てくれるかな』
希海の声が聞こえて、彼方は本から指を離した。
あの屋敷に行くには、『佳月』に会わなければならないだろう。希海は、土曜は用事がなく家にいると言っていた。
でも。
行ってどうする。会ってどうする。また同じことの繰り返しになる。
希海と一緒にいようと思うのなら、N高に受かれ?
希海には地上に下りてくる気はないのだ。彼方はそのことにまた苛立ちを感じた。
希海に対して感じた熱いものは何だったのか。改めて考えてみる。自問自答を繰り返すうちに、彼方にはふとそれが一時の気の迷いに過ぎなかったように思えてきた。
誰かと肌を合わすことが初めてであり、肌を合わすという行為そのものに熱くなっただけのこと。相手が男の子だろうと女の子だろうと、思春期の抑えきれない性欲のなせる業だったのだ……彼方は自分自身をそう納得させた。希海でなくても、そんな気分になったはずなのだ、と。
本棚から英語の問題集を取り出し、ページをめくる。問題は解かず、文章を読むことにした。
全く集中できない時間が刻々と過ぎていき、そのこと自体に彼方が嫌になってしまった時、スマホが唸るような振動音を立てた。見ると、正樹からのコールだ。
「もしもし」
『よお、彼方』
「どうしたんだ?」
正樹は、今日から塾の冬期講習があると言っていた。塾から電話しているのかと、彼方は少し呆れてしまう。
『いや、ちょっとな、ネタをゲットしたらお前に教えてやろうと思って』
「どうせしょうもないことだろ」
『ふーん、いいのか、そんなこと言って。佳月のことなんだけどな』
その瞬間、彼方の息が詰まった。返事の言葉が出てこない。
『おい、聞いてんのか』
「あ、ああ、聞いてる」
『聞きたくないなら、別にいいんだぜ』
彼方の心の中で一瞬だけ葛藤が起こったが、その決着はすぐについた。
「いつもネタを提供してやってるだろ。聞くだけ聞いてやるよ」
『なんだよ、その言い方。なんか佳月のこと、気にしてたみたいだから、教えてやろうと思ったのに』
正樹の声が少し不機嫌になった。
「ごめん、ちょっと嫌なことがあって。悪かった」
しかし彼方がすぐに謝ったのには、正樹は少し驚いたようだった。
『まあ、いっか。実はよ、佳月と父親同士が知り合いだって奴に聞いたんだけどな』
実際のところ、正樹は手に入れたネタを誰かに言いたくて仕方なかったのだろう。何と言っても彼方の親友であり、その辺り、些細なことはお互い引きずらない。正樹の機嫌がすぐに治ったことを、彼方は改めて有難いと思った。
『佳月んとこ、来年の春にはアメリカに引っ越すらしいぜ』
しかし正樹が仕入れてきたネタが、彼方のそんな感傷的な気持ちを一気に吹き飛ばしてしまう。それは正樹にとっては単なる『有名人ネタ』に過ぎなかったのかもしれない。しかし、彼方の頭の中は真っ白になってしまった。
「のぞ……佳月は、N高受けるんじゃないのか?」
『いや、そうなんだけどよ。佳月が公立を受けるって話を聞いたことが無かったからな、おかしいと思ってたんだよ。どうも、N高に落ちたら両親についていくらしい。合格したら佳月だけ日本に残るんじゃないかって』
彼方の耳から、スマホが離れる。
正樹は一体どこでそんな話を聞きつけてきたのか。隆ならそちらの方に興味を持ったことだろう。しかし彼方には、正樹のネタ元よりも、正樹のネタの真偽のほうが重要だった。
「それ、ほんとなのか」
『もちろん。こないだ佳月の話を教えてくれた奴のお父さんが、佳月の父親と知り合いらしくてな』
その後も、正樹の説明は続いていたが、彼方にとってはもうそのことはどうでもよくなっていた。
――アメリカに引っ越す。そういうこと、だったのか。
希海はなぜそのことを自分に教えてくれなかったのか。そう思うのは、彼方の身勝手と言える。希海とゆっくり話す時間は限られていた。希海が全てを彼方に伝えていなくても、それは仕方のないことだろう。
――でも、それを知ったからと言って、俺に何ができるんだ?
希海がN高に合格すれば、日本に残る。不合格ならアメリカに行く。ただそれだけの話。はっきりしたことと言えば、希海が受験に成功しようが失敗しようが、彼方とは別世界に行くことに変わりがないということだった。
『おい、彼方。返事しろよ』
通話口から、正樹の怒鳴り声が聞こえてくる。彼方は慌ててスマホを耳に当てた。
「ごめんごめん。そ、それはすごいネタだな」
『な、そうだろ? 驚いたか』
「驚いた」
『ふっふーん。じゃあ、これからもネタ提供よろしくな』
正樹は彼方の反応に満足したのだろう。彼方の返事も待たずに電話を切ってしまう。彼方は部屋の中でしばらくの間、音のしなくなったスマホを見つめていた。
彼方の心のどこかで、万が一にでも希海が受験に失敗すれば彼方と同じ高校に通うことになるという考えがあった。しかし、それすらももう起こり得ないことになってしまっている。
と、そこでふと思った。もし、希海が彼方と同じ学校に行ったとしても、そこにいるのは、『希海』ではなく『佳月』なのではないだろうか、と。
希海は、いじめられた経験から心を閉ざしてしまったのかもしれない。そのきっかけが何だったのかは、彼方にはいまだ分からないが、希海をあの屋敷から連れ出さなければ、希海はずっと『佳月』のままなのではないのかと思った。
――知ったことか。
どうやっても手の届かない場所にいるお姫様は、いつか月へと帰っていく。しかし、地上にいても月に帰っても、彼方とは別世界にいることには変わりない。彼方には、どうすることもできないのだ。
彼方はそう結論付けると、また勉強へと戻った。
しかし結局、午前中はほとんど勉強という勉強が進まなかった。母親の呼ぶ声がして、彼方は昼ご飯を食べるために、台所へと行く。食卓にはうどん、そして彼方の席の前には、父親が座っていた。休みの日でも家にほとんどいることのない父親だったが、年末が近いからなのか、今日は一日中家にいるようだ。
「今日はどこか出かけないのか」
彼方が父親に声を掛ける。彼方は言外に、どこかに行けばいいのにというニュアンスを込めた。
「そういう日もある」
それを気にする風もなく、父親が答える。既に昼食を食べ終わっていたが、新聞を広げ、何かの記事を読んでいるようだ。彼方は、さっさと食べて部屋に戻ろうと思い、急いでうどんを口の中にかきこみ始める。
「彼方」
父親が突然、彼方の名前を呼んだ。
「何」
彼方が父親を見る。しかし父親の視線は、新聞に向いたままである。
「凡人とそうでない者の差は何か、お前に分かるか」
突然の話題に驚き、彼方の箸を動かす手が止まった。およそ、昨日の晩の後、父親と母親で彼方の受験について話でもしたのだろうと彼方は勘ぐった。
お節介なことを。そう思い、彼方は聞こえるように舌打ちをした。
彼方の心の中にある劣等感をさらに大きくするような話が、父親の口から出てくるのだろう。彼方は苛立ちを感じるとともに一秒でも早く部屋へ戻りたくなった。
「才能の差だろ」
彼方が吐き捨てるように答える。自分には無いもの。そして、希海にはあるもの。
「だからお前は、凡人なのだ」
しかし、父親の言葉は、彼方の想像とは違っていた。怒りに、彼方は思わず席から立ちあがる。
「どういう意味だよ」
「お父さん、そんな言い方しないでって言ってるでしょ。彼方も、やめなさい」
母親が慌てて止めに入った。しかし父親は、彼方の行動に動じた様子も見せず、ゆっくりと新聞を下ろす。少し痩せ気味の頬に、上がり気味の眉。眼光が鋭く彼方を射抜いている。大きくなれば自分もこんな姿になるのだろうかと思うと、彼方は反吐が出る思いがした。
「凡人は自分にできることを考え、できることだけをしようとする。しかし凡人であるがゆえに、できることは少ない。結果、大した成功もできず、大したこともなしえない」
彼方は、立ったまま父親を見下ろし、睨みつける。じゃあお前はどうなんだ。どれほど大手の会社だろうが、それにこき使われる一介のサラリーマンにすぎないお前は。彼方は、その言葉を飲みこみ、違う言葉を選んだ。
「じゃあ、凡人じゃ無い奴ってのは、どんな奴なんだよ」
父親は、才能の差ではないと言った。では、何なのか。父親の口から出てくる答えを言い負かしてやろうと彼方は考えた。
父親がふっと溜息をつき、そしてまた新聞に目を落とす。
「目的を持ち、その為には何が必要かを考える。必要なものを手に入れようと努力し、結果、己の才能を乗り越えていく。できるかできないかは、考えない。お前とは、違う」
父親はそう言うと、もう彼方には興味が無くなったかのように、新聞を読み始めた。
彼方は、胸の中に湧き上がる怒りを唇を噛んでこらえると、心配そうに二人を見ていた母親に「ごちそうさま」と言い残し、部屋へと戻った。
勉強机に向かい、英語の問題集の続きを開く。文章を読み始めるが、頭に入ってこない。それを無理矢理に読み進め、内容が頭に入ってこないまま問題を解いていった。
一通り解き終わり、答え合わせをする。半分も合っていないことに苛立ち、彼方は問題集を手に取ると、壁に投げつけた。大きいだけで何ら役にも立たない音が部屋に響く。彼方はその代わりに数学の問題集を棚から取り出し、そして解き始めた。
問題を解けば解くほど、彼方の心の中に苛立ちが募っていく。心に生じた怒りと苛立ちが、父親の言葉の内容からくるものではないということが彼方を更に苛立たせた。それは、父親に対して何の反論もできなかった自分に対する怒りであり、そして苛立ちだった。
父親に、何もかもを見透かされている。そんな思いに、彼方はとうとう問題集を解く手を止めた。
椅子から立ち上がり、ベッドに寝転ぶ。すると、マットレス、羽毛布団、そして毛布が彼方の体重をやんわりと受け止めた。それらは、夜の寒さから彼方を守ってくれるものだ。
彼方は屋敷の中にあった寝台を思い起こす。畳を重ねただけのもので、布団も無くただ着物を掛けて、二人で寝た。『希海』は今もあの場所にいるのだろうか。
彼方の脳裏に、自分の五感に刻まれた希海との記憶が蘇る。初めて、誰かと肌を合わせたのだ。その時に感じた興奮が彼方を突き抜け、体が熱くなる。指に吸い付くような肌の感触、その肌から立ち上る甘さとそれに混じる爽やかな香り、口から漏れる吐息、軟らかな唇、そして性の衝動が触れ合った時の突き抜けるような快感。それら全てが彼方のものを硬くさせた。身体を抱え、身をよじる。枕を抱き、自分のものを押し付けた。
欲しい。
何が?
……希海が。
しかしそれは、彼方には絶対に手に入れられないもの。彼方の手が届かないもの。
でも、欲しい。希海が、希海が、欲しい。
自分の欲望が、希海の願望が、そして父親の失望が、彼方を責める。
彼方は、ベッドから体を起こし枕を握ると、机に向けて投げつけた。弾かれた筆記用具が飛び散る。
「やってやるよ。やりゃいいんだろ!」
彼方はそう叫ぶと、カバンの中をまさぐりスマホを取り出した。そして正樹へと電話を入れる。しばらくのコールの後、正樹が電話に出た。
『どうしたんだ、彼方』
「今、大丈夫か、正樹」
『ああ、大丈夫だぜ』
「佳月の家を知らないか」
『佳月の家? 知ってるけど』
個人情報がどうのこうのということで、同じクラスであっても名簿が配られることは無い。年賀状を出すわけでも無く、彼方は希海の家が何処にあるのか詳しい住所を知らなかった。しかしさすが情報通の正樹は、知っているようだ。
「教えてくれないか?」
『情報料』
「越前屋のクリームパン」
『二個だな』
「がめついぞ」
『嫌ならいいんだぜ?』
値段交渉をしている暇は彼方にはない。正樹が出した条件を早々に飲み、彼方は希海の家の情報を手に入れた。
スマホだけをポケットに入れ、玄関で靴を履く。
「彼方、何処に行くの?」
母親が心配そうに、彼方に声を掛けた。散々部屋を散らかした音、そして彼方の叫び声を聞いていたのだろう。
「クラスメイトの家」
そうとだけ答え、彼方は家を飛び出した。日は随分と傾き、夕暮れが迫っている。希海は、彼方の家から歩いて一五分ほどの距離にあるマンションに住んでいるようだ。そこへ向けて、彼方は全速力で走り出した。
途中、犬を連れたおばあさんが、彼方を奇妙な目で見ていたが、彼方は犬にもおばあさんにも目もくれず、その傍を走り抜ける。四つ角も止まることなく走り抜けた。後ろで車のクラクションが鳴る。それも気にせず、住宅街の中、坂道を駆け下りていく。
希海が住むマンションに着いた頃には、彼方の息はぜえぜえと音を立てるまでに上がっていた。肺の中から出ていく空気に少し血のにおいが混じっている。それを唾で飲み込んだ。吐く息に白さが混じる。彼方は、ジャージ姿だったが、寒いとは思わなかった。
マンションは、高さは十階ほどであるが、一階当たりの部屋数が随分と多い大きなものだった。エントランスに入り、彼方は戸惑う。オートロック形式になっていて、中に入るには目的の部屋の住人をインターホンで呼び出さなくてはならない。
しかし、部屋番号は正樹から聞いている。彼方はインターホンに近寄り、ボタンを押そうとした。そこで、指が止まる。
それをしたところで、希海が出てしまったら、果たして中に入れてもらえるだろうか。ここにいるのは『希海』ではなく『佳月』なのだ。
不安が彼方を襲う。どうする、どうする、その繰り返しが彼方の胸を打つ。せめて部屋の前まで行けば、会うだけは会えるかもしれない。彼方はそう考え、誰か住人が来るのを待つことにした。誰かが中に入るのついて、一緒に中に入ればいい。そう思ったのだ。
うろうろするのも変だろうと、集合ポストの陰に身を寄せる。あちらこちらを見回すが、一秒が何時間にも思えるような時間が過ぎていった。何分待ったのか、いや何分も経っていないのか。そう思ったところで、エントランスに人が入ってくる音がした。
彼方が振り向く。目の前、エントランスの中央に、希海がいた。
茶色いダッフルコートを着ているが、フードは被ってはいない。ただ、長い髪の輪郭が夕日の色で縁取られていて、希海がその煌めきを纏う様が、彼方には何処までも別世界の人間のように思えた。顔が影になり、表情はよく見えない。
心の準備をしていたはずなのに、彼方は何も言えず、ただ希海を見つめた。
――希海。
言葉が喉から出そうになる。
――いや、これは『佳月』なんだ。
しかしそう思い、その言葉を飲みこむ。
希海はコンビニで買い物でもしてきたのだろうか、何かが入った袋を持っていた。その手を下に下ろし、彼方を見た。
自然と二人の目が合う。彼方はその幸運に思わず声をあげそうになったが、しかし、彼方が期待したあの感覚――希海の瞳に吸い込まれるような感覚とその後に襲ってくる眩暈は、やってこなかった。
希海が顔を前に向ける。そして彼方などいないかのように、インターホンの前へと進んだ。
何を言うべきか、彼方には思いつかない。ただ家を飛び出してきただけであって、会うことを目的に来たのだ。会って、目を合わせて、それでも何も起こらなかった時のことを考えていなかったことに気が付いた。
希海が、インターホンに向けて暗証番号を入力する。すると、低い唸り音と共に木目模様の自動ドアが開いた。希海は彼方には目もくれずに動き出す。コンビニの袋が、しゃらんという音を立てた。
ドアの向こうは別世界。希海が中に入り、ドアが締まればもう、彼方の手には届かない場所へ行ってしまう。
それで良いとは思わない。良い訳がない。しかし、彼方の心の奥底から、別の声が聞こえてきた。
――引き留めてどうするんだ? お前は、希海と同じ場所に行く覚悟があるのか?
N高に合格するだけではない。希海と共に歩くことで、様々な陰口をたたかれるようになるだろう。それに、希海の気持ちも彼方にはまだはっきりとは分からない。
――でも……やるって、決めたんだ!
彼方は、ネガティブな心の声を振り払った。
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