4-3

 熱が少し和らいだ頃、希海が脱いでいた十二単を布団代わりにして、その中でまた二人は抱き合った。彼方も希海も、何も着ていない。彼方は、戻ってきた理性のせいで、希海の顔を見ることが出来ないでいる。

「ねえ、彼方くん」

 希海が彼方の耳にささやき、自分の脚を彼方に絡める。産毛すら感じられない滑るような肌の感触が、また彼方の体に熱いものを注いだ。

「な、なに?」

「平安時代の結婚って、どうするか知ってる?」

 突然の話題に彼方は少し驚き、顔を希海から離す。まだ部屋の中は薄裏と茜色を帯びているが、被っている着物を通して入る光は少なく、希海の表情ははっきりとは見えない。そのことに、彼方は少しほっとした。

「いや、知らない。なんか、宝物探してきて、持ってきたら結婚できるってやつだったっけ」

「それは、結婚を断るためにやったことだから。全然違うよ」

 希海がふふっという笑い声を漏らす。

「じゃあ、どうするんだ?」

「男性がね、三夜連続で女性の許に通うの」

「へえ。それで?」

「三日目に、結婚の儀式をするんだよ」

 そんなこと、学校で習っただろうか。彼方は思い出そうとしたが、その前に、内容の不自然さに驚く。

「ちょっと待て。急すぎないか、それ。デートとかしないのかよ」

 平安時代の結婚はおろか、現代の結婚についても、彼方にはよく分からない。男女が付き合って、いつかは結婚するのだろうという、ただ漠然としたイメージしか持っていないのだ。

「平安時代の貴族の女性って、屋敷の外に出ることがほとんどなかったから」

 希海が、まるで先生のように、彼方にそう教えた。

「へえ。それにしても、三日だけって、そんなもんなのか」

「うん」

「その三日って、会って何するんだ?」

 一緒に食事でもするのだろうか。彼方の頭の中に、向かい合ってご飯を食べる男女のイメージが浮かんだ。

「えっと、えっとね」

 しかし、訊かれた方の希海は、それに応えるのに少しばかり躊躇し、少しの沈黙の後、静かに「愛し合うの」と答えた。

 それが、まさにさっきまで彼方が希海としていたような行為なのだろうと分かり、彼方はまた顔が熱くなる。

「そ、そうなんだ」

 何と答えていいのか、分からない。彼方はただ相槌を打つのが精一杯だった。

「ねえ、彼方くん」

 また希海が囁き声を出す。彼方の顔に、希海の手が触れた。

「明日も、来てくれるかな」

 希海が彼方にそうつぶやく。その瞬間、彼方は希海が何を自分に要求していたのかを理解した。三夜連続で。それはまさに、希海が彼方にお願いしたことだ。

「だ、だめかな」

 希海の声に微かな揺れが混じる。彼方は、希海の唇に自分の唇を重ねた後、「もちろん、来るさ」と答えた。

 このままここにいればとは思うのだが、眠りにつくとまた教室へと戻されるのかもしれない。彼方は、聞くべきことは今のうちに聞こうと思った。

「きょ、今日、終業式だっただろ」

「うん、そうだね」

 希海の言う『そうだね』というのは、当然そのことを知っているということなのだろうが、肌を合わせたからなのか、彼方には『佳月』と『希海』が別人のように感じられた。

「明日から冬休みだ。だから、学校で佳月に会えない」

 だから彼方は、わざと『佳月』という名前を使う。

「明日は用事も無いから、家にいると思うよ」

 しかし、その希海の返事からは、彼方がさっき感じた『別人』のような雰囲気は感じられない。それが不思議でたまらなかった。

「そういや、希海は塾に行ってないんだよな」

 塾に行くために外出するのであれば、そこを捕まえるという手もある。しかし、行ってないものは行っていないのだ。外出時を狙えないのであれば、家に行くしかない。

「うん」

 希海の声が少し重たくなった。彼方はふと、正樹の話を思い出す。

「小学校の時は、塾に行ってたんだよな?」

 触れてはいけない話題かもしれない。そう思いつつも、彼方は話を止めることが出来ない。

「うん」

 やはり希海は、あまり多くを語りたがらないようだ。

「どこの塾に行ってたんだ?」

 しかし彼方は話を続ける。希海のことを知りたいと強く思う気持ちが、そうさせた。それに、公立中学の校区内にいるのなら、彼方も知っている塾かもしれない。小学生の頃は、彼方も塾に通っていた。まだ父親が彼方に期待をしていたから。

「やっぱり、彼方くん、僕のこと知らなかったんだ」

 希海の声が、どことなく残念そうに聞こえた。

「どういう意味だ?」

「一緒の塾だったんだよ、彼方くんと僕」

 そう言われて、彼方はかなり驚いてしまった。確かに彼方が通っていたのは、中学受験用の塾としては地元で一番大きなところだった。彼方はそこでずっと一番上のクラスにいたのだ。小六の夏までは。

「いつから、行ってたんだ?」

「小四の時から」

「クラスは?」

「一番上だったよ。だから、彼方くんのこと、小学生の時から知ってるんだ」

 彼方は小五まで、トップクラスの中でもさらに上位の成績だった。その塾は成績順で席順が決まるところだったので、成績上位の子らとはある程度話す機会が多かった。しかし、彼方の記憶の中に希海はいない。

「いや、俺は」

「僕は、クラスの中では成績が真ん中から下だったし、あまり誰かと話すこともなかったし、僕を知らないのも無理ないと思う」

 一クラスには三十名以上がいた。それに定期的にクラスのメンバーは入れ替わる。席の近い者や、ずっと同じクラスにいる者だけが彼方の塾での知り合いだった。

 しかし彼方は小六に上がって、勉強につまずいた。見る見るうちに成績が落ち、夏にはトップクラスから転落した。

「受験の時は、どこクラスにいたんだ?」

「一番、上」

 希海が少し控えめに答える。

「そっか」

 希海は、彼方が転落していくのを見ていたのだろう。それは彼方が誰にも知られたくなかった暗黒の歴史であり、それを希海は知っている。

 塾のトップクラス、そこはまさに別世界。彼方は、そこから追放された者――いや、そこにいる資格のないものが、資格のあるふりをしていただけの、凡人なのだ。

「彼方くんは、受けないの? N高」

 ふと希海が、彼方にそう尋ねた。

「俺じゃ無理だし」

 今度は彼方の声が重くなる。

「そんなことないよ。今からでも詰めて勉強すれば、彼方くんなら」

 その言葉の軽さに彼方はショックを受けた。それが出来れば苦労はしていない。しかし希海は、まるで誰でもできるようなことのように話している。

 以前感じていた感覚が彼方の中で急激に膨らんでいく。希海は自分とは別世界に住む人間なのだと、強く意識した。

「無理なんだよ。お前とは違う」

 彼方が投げ捨てるようにそう答える。

「やってみなきゃ、分からないよ。ね、一緒に、受けようよ」

「希海は、男子校が嫌だって言ってたじゃないか」

「うん。中学受験の時もそう思って、入試に集中できなかった。でも、彼方くんが行くなら、嫌じゃないよ」

 希海の口調には邪気が無い。彼方と一緒の高校に行きたい、ただそれだけの純粋な思いで言っているように彼方には感じられた。だからこそ、彼方の中にあった劣等感が希海の言葉の槍で何度も何度も突き刺される。

「情熱がないんだ、俺には。合格したいって言う。そんな状態で受かるほど、甘くはない」

「僕と同じ高校に行くというのは、情熱にはならない?」

 希海の声のトーンが少し落ちる。

 彼方は改めて希海が別世界に住む者だと感じた。例えば、月に住む者のような。それが今は一時的に地上に降りてきているに過ぎない。凡人では、月に帰ろうとする者についていくことはできないのだ。

「希海が、N高を受験しなきゃいいじゃないか」

 希海の方が、ずっと地上にいればいい。何も自分が別世界を目指す必要は無い。彼方の心に、そんな思いが芽生えた。

「そ、それは」

 希海が言葉を飲みこむ。それが彼方の心に引っかかった。

「小学生の時に希海をいじめていた奴らが、N中にいるんだろ?」

 正樹から聞いた話を希海にぶつけてみる。希海が息を飲むのが、彼方に伝わった。

「なぜ、それを」

 希海の声は少し震えていた。

「噂で聞いた。無理に受けさせられるというのなら、本番で手を抜けばいい。希海なら、公立高校なんか簡単に受かるだろう。俺も、公立に行く」

 彼方の声に熱が入る。

「そうも、いかないんだ」

 しかし、それとは反比例に、希海の声のトーンが落ちた。

 なぜ、月に帰ろうとする。彼方の中に苛立ちが募っていく。

「中学受験の時だって、手を抜いたんだろ」

 だから、そんなことを口走ってしまう。彼方は、そんなことを言いたいわけじゃないとは思いつつも、希海の不合格の原因が自分とは根本的に違っていることに、自分自身がとても哀れで惨めな生き物のように感じられた。

「て、手を抜いたわけじゃないよ。ね、彼方くん。一緒に、N高行こ?」

 希海が彼方の手を握る。希海の言葉が『目指そう』ではなく『行こう』であったことが、彼方の苛立ちをさらに大きくした。別世界の人間には、凡人の苦悩など理解できない。希海の手の温かさが、哀れな生き物に差し伸べる憐れみのように思え、彼方は希海の手を振り払った。

「行きたくても、合格できなきゃ、行けないだろ」

 彼方が、体に掛けられている十二単をはねのけ、体を起こす。

「彼方くん、大丈夫、できるよ」

 希海も体を起こした。

「できない!」

 希海に向けて、彼方が大きな声を上げる。

「彼方くん」

 希海が、戸惑った表情で彼方を見つめた。そして十二単を両手で握りしめる。

 茜色の薄光の中、生まれたままの姿でいる希海の肌だけが浮き上がるように輝いて見えた。本当に月の住人のようだ。彼方はそう思い、悲しくなった。

「無理なものは、無理なんだよ」

 耐えきれず、希海から視線を外す。

「僕を、僕を一人にはしないって、言ってくれたじゃないか」

 希海が彼方の腕を取った。彼方がはっとして、希海を見る。希海は目を見開き、一生懸命訴えかけようとしていた。しかし希海が口にした言葉は、彼方が教室で『佳月』に言ったものだ。

「やっぱり、希海は佳月なんだな」

 さっきとはまるで逆になってしまった。希海が熱っぽい瞳で彼方を見れば見るほど、彼方の心が冷めていく。そして再び、希海に対する激しい劣等感が頭をもたげた。

 彼方が寝台から立ち上がり、服を着始める。

「そ、そうじゃなくて、待って、彼方くん」

 希海が彼方に手を伸ばす。長い髪が肩口から落ち、希海の肌を覆い隠した。

「じゃあ、どうなんだよ。俺が教室で佳月に言った言葉、希海が何で知ってるんだよ」

「そ、それは」

「教室ではお高く留まった顔して、その裏じゃ、俺を憐れんでるんだろ。そりゃ、お前は本気出せば受かるだろうよ。でも、合格したくても、できないものはできないんだよ。『君とは住む世界が違う』って言ったよな。ああ、そうだよ。お前とは、住む世界が違うんだよ!」

 ズボンをはき、シャツを着ただけで、カーディガンとブレザーを手でつかむと、彼方はそのまま部屋を飛び出した。

「彼方くん、待って!」

 叫びにも似た声が、彼方の背中に投げかけられる。しかしそれがさらに、彼方を惨めな気持ちにさせた。

 彼方は、廊下のようになっている板張りの上を走り、目の前の扉を押し開けた。もう一つの建物に向けて渡り廊下があったが、その入り口に能面の女が立っている。彼方がその目を睨みつけると、黒い瞳が能面の目の穴の向こうから彼方を見つめているのが見えた。

 一切の光を反射することのない黒さ。その黒い穴に飲み込まれるような感覚が下と持った瞬間、彼方を強烈な眩暈が襲った。思わずその場にしゃがみ込む。そのまま彼方は動けなくなってしまった。

 しばらくしても、彼方の中の気持ちの悪さはまだ消えてはいなかった。しかし、彼方は無理矢理に顔を上げる。その目に、窓の外に残る僅かな茜色の光と、彼方をじっと見つめている希海の顔が映った。

「だから、見ないでって、言ったのに」

 希海が彼方に声を掛ける。その瞳には憐れみにも悲しみにも似た色が浮かんでいた。

 何かを言おうとして、彼方の口が開いたり閉じたりを繰り返す。しかし言葉は出てこない。彼方は希海を直視できなくなり、視線を床へと落とすと、そのまま逃げるように教室を飛び出した。

 どの道をどう帰ったのか分からないまま家に駆けこむと、彼方は真っ直ぐ自分の部屋へと行き、ベッドへと倒れ込んだ。

 ずっと走ってきたせいで、呼吸が荒い。しかし彼方の顔を濡らしているのは、流れ出る汗だけではなかった。

 結局自分は、夜空に浮かんだ青く光る月に手を伸ばしていただけなのだ。何もかもが不相応の想い。希海は、その月から彼方を見下ろしている。

 彼方は毛布を頭からかぶった。

 窓の外が真っ暗になった頃、母親が彼方を呼ぶ声がした。彼方はゆらゆらと体を起こし、時計を見る。七時を回っていた。部屋を出て階段を下りる。「ご飯よ」という母親の声が聞こえたが、彼方は「シャワー、浴びる」と返事をして浴室に入った。

 軽く汗を流し、顔を洗った後、彼方は台所に行く。晩御飯の食卓には珍しく父親がいた。

 普段、父親の帰宅は九時を過ぎることがほとんどで、彼方はいつも晩御飯を母親と一緒にとっている。

「どうかしたの?」

 母親が、ご飯をよそった茶碗を彼方の前に置きながら、そう尋ねる。

「別に、何も」

 彼方はそうとだけ答え、晩御飯を食べ始めた。

 久しぶりに三人で囲む食卓には、ぴりぴりとした空気が漂っている。それは、彼方が父親をあまり好いていないからであり、食器と箸が当たる音、おかずを噛む音、そして味噌汁を飲む音だけが、その場の空気を震わせていた。

「ねえ彼方、本当に私立は受けないの?」

 食事が一段落した辺りで、急に母親がそう切り出す。

「ああ、受けない」

 彼方は少し父親の方をうかがったが、父親は視線を自分の箸の先に向けたままで、反応する様子はない。

「N高、受けてみてもいいのよ」

 これまで母親が、そんな話を食事中にすることは無かった。彼方には、母親がその話を父親に聞かせようとしているのだと分かった。

「受験料の無駄だ。受けなくていい」

 しかし母親の言葉に、父親がすぐ反応する。

「ちょっと、お父さん」

「成功する気が無いのなら、何をやっても、何処に行っても同じことだ。公立でいい」

「そんな言い方しなくてもいいでしょ」

 父親と母親の間で、険悪な空気が流れ始める。

「ごちそうさま」

 彼方は、残りのおかずを口に放り込むと、飲み込むのもそこそこに、立ち上がった。進路の話など父親にしても意味が無い。彼方はそのことを知っている。

「彼方、ちょっと」

 母親が引き留めようとしたが、彼方は構わず自分の部屋へと戻った。

 学習机に向かい問題集を広げる。最初の問題を解こうとして、彼方はペンを問題集に叩きつけるように置いた。

 父親の言葉を思い返してみる。成功する気がないなら? 違う。成功する才能がないなら、の間違いだろう。

 凡人なら、凡人らしく生きればいい。父親はそう思っている。

『一緒に、N高行こ?』

 希海の要求は、自分の能力を超えている。

『僕を一人にはしないって、言ってくれたじゃないか』

 希海の声が彼方の頭で何度も再生される。それを止めようとしても、止まらない。彼方は、問題集を手に取ると、壁にたたきつけた。

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