4-2
気持ちの悪さが取れるまでの時間は、これまでと比べればそんなに長くは感じられなかった。それらが治まってから、彼方はゆっくりと顔を上げる。目の前には、しかし予想に反して、屋敷ではなく門があった。それが赤く染まっている。空を見上げると、空一面が茜色になっていた。
「あれ……これは」
車がぎりぎり通れそうな幅と、張り出した大きめの屋根を持つ門。随分と頑丈な木でできている。それが真ん中でぴったりと閉じられていた。
辺りを見渡す。そこで彼方はまた驚いた。屋敷の外には何もないのだ。文字通り、何もない。茶色い土の地面がただただ広がっていて、それが地平線まで続いていた。
「何だ、これ」
希海が出たいと言っていた屋敷の外。そこは何もない世界なのだ。その中心に、この古めいた屋敷だけが建っている。
門を押してみたがびくともしない。どこか入れるところはないか、そう思い、屋敷を囲む土塀沿いに歩いてみたが、一周回ってまた門のところへと戻ってきてしまった。
本当に、この屋敷以外、何も見えない。地平線の向こう側に何かがあるのかもしれないが、もちろんそれを確かめに行く気にはなれなかった。
彼方は、中に入るため、土塀に登ることができるかを試してみた。しかし、土塀も結構な高さがあり、跳び上がっても手は届かない。どうも、屋敷の中に入ろうと思うのなら門を開けて入るしかなさそうだった。しかし、門は相変わらず押しても体当たりしてもびくともしない。
彼方はしばらく考えた後、大きな声で叫んでみた。
「すみません、誰かいませんか!」
誰かいるとして、あの能面の女である可能性が高い。目を合わせれば、教室に戻されるのだろう。しかしそれでは、せっかくここに来た苦労が水の泡になってしまう。かといって、中に入れなければここに来た意味がないのだ。門が開けば、目をつむって中に突入してやる。そう覚悟し、彼方は門を叩きながらまた大声を上げた。
一体、何分そうしただろうか。しかし誰かが門を開けるような気配は全くない。手が痛くなり、彼方は門を叩くのを止めた。
少し疲れ、門の前に座る。やはり土塀を越えるしかないかと思ったが、辺りには足場となるようなものが何もない。
「どうしたものかな」
そう独り言ちてから、ふと希海の言葉を思い出した。
『古語で言わないと、命婦には通じないみたいなんだ』
まさかな、とは思うが、他にうまい手があるわけではない。彼方は、ただ定期テストの為だけに覚えた僅かばかりの知識の中から、それらしき言葉を探し出した。
「誰かある! 誰かある!」
再び門を叩きながら、大声でそう叫んでみる。それが正しいのかどうかも分からなかったが、そうしている内に、ふと門の向こう側に人がいる気配を感じた。
彼方は門を叩くのを止め、少し離れる。すると目の前で、門が真ん中から割れるようにゆっくりと、軋んだ音を立てながら後ろへと開いた。
やったという喜びが彼方の心を満たす。そこに油断ができてしまった。彼方は、てっきりあの能面女が門を開けていると思っていたのだ。しかし、左右に開いていく門のその真ん中に、能面女が立っている。思わず、能面女と目が合った。
しまった。
そう思った時にはすでに遅かった。能面の口は僅かに開いているが、それが笑っているのか、何かを言おうとしているのか、どちらにも見えた。少し大きめの鼻が夕日を遮り、のっぺりとした顔に影を作っている。真っ白な広い額の下には、平たい三角形の目があるが、その奥からは深い黒色をした瞳が彼方を見つめていた。その瞳から、目を逸らすことができない。
教室に戻されてしまう。彼方はそれを覚悟したのだが、しかし彼方を眩暈が襲うことは無かった。女は黙ったまま、彼方の行く手を遮るように立っている。
何も起こらないことが彼方を戸惑わせたが、それが今はとても幸運なことのようにに思え、彼方は一呼吸して自分を落ち着かせた。
「希海に会いたいんだけど」
能面女にそう言ってみる。しかし相手は、何の反応も見せなかった。
「古語、か。どういうんだっけ」
まさかこんなところまで来て古典の『テスト』をさせられるとは。彼方は頭を抱えたくなったが、気を取り直し、頭の中から記憶を掘り返してみる。ふと、印象に残っていたフレーズを一つ思い出した。
「希海を見てしがな」
確か『見る』という言葉には『会う』という意味があったはずで、『したい』という言葉は『てしがな』だっただろうか……彼方には、その言葉をどこで読んだのか思い出すことは出来なかったが、これで駄目なら、能面女を突き飛ばしてでもと思い、身構えた。
すると、彼方の言葉を聞いた能面の女が突然後ろへと振り向いた。束ねられた長い髪の毛の下、腰の辺りからは、長く白い布地が広がりながら地面へと垂れている。女は、それを引きずりながら、屋敷へと歩き始めた。
彼方は恐る恐る門をくぐる。門は半開きの状態だが、その後ろを見ても誰もいない。少し薄気味悪さを感じつつも、今はそれどころではないと気を取り直し、女についていこうとした。しかし気付くと、女の姿が彼方の視界から消え失せている。
「あれ」
彼方はてっきり案内してくれるものだと思っていたので、少し肩透かしを食らう。彼方の正面には小さめの建物、これが能面女がいる建物なのだろう。そして右奥には大きな建物がある。そこに希海がいるはずだった。
ふと、その建物が昨日とは様子が違うことに気が付いた。どこが、と考えてすぐに、屋根の崩れていた部分が綺麗になっていることだと分かった。改めて見ると、屋敷が昨日よりも全体的に新しくなっているように見える。
しかし、それを考えることよりも、今は早く希海に会いたい。彼方の足は、意識しなくても速く動いた。母屋の階段まで来ると、靴を脱ぎ捨て、建物へと上がる。
「希海!」
大きな声でそう呼び、下まで下ろされている御簾と御簾の間を通り抜けた。茜色の空の色が隙間から差し込み、部屋の中をぼんやりと赤く照らしている。
「希海!」
もう一度名前を呼ぶ。すると、部屋の中央にある帳(とばり)の中から、十二単姿の希海が顔を出した。長い髪が少し丸みのある顔の線に沿って下に落ちる。
「彼方くん」
希海の顔が、まるで満月に照らされたように明るくなった。
「来たぞ」
重たい着物のせいか希海が動きづらそうにするのを、彼方が駆け寄り抱きとめる。すると希海は、彼方の首に腕を回し、彼方の顔に頬を寄せて抱き着いた。涼しくもどこか甘い匂いが、彼方の鼻をくすぐる。
「お、おい」
彼方が慌てて希海を引き剥がす。
「ご、ごめん。嬉しくて」
そう言って恥ずかしがる希海の顔を見て、彼方も自分の顔が熱くなるのを感じた。
希海が彼方の手を引き、帳の中へと招き入れる。そしてさっさと寝台に座ると、立ったままの彼方に向けて目を細め、何かを期待するように口元に笑みを浮かべた。
そんな顔をされれば、どんな願い事でも二つ返事で受け入れてしまいそうだ。舞い上がる気持ちを押さえつつ、彼方がゆっくりと希海の隣に座る。希海はすぐに、彼方の方へと体をずらした。彼方の体に、十二単の少し固い感触が押し付けられる。
二人は、早速おしゃべりを始めた。部屋に火桶は置かれていなかったが、今日は昨日より少し暖かいようだ。
「何て言ったの?」
彼方がここに来るまでの顛末を希海に話すと、希海は淡い光しかない部屋の中でもそれと分かるように、瞳を輝かせて彼方の目を見た。希海は、彼方が能面の女に向けて何と言ったのかに興味を持ったようだ。
「『希海を見てしがな』って」
頼りなげに彼方が答えたのを聴き、希海がぷっと噴き出す。希海のそんな表情も、彼方にはとても可愛らしく見えた。
「もしかして、間違ってたのか?」
彼方が不安げにそう訊くと、希海がゆるゆると首を横に振る。
「そんなことはないけど、でも、ちょっと、間違ってるかな」
「ほんとか。でもそれ、笑うほど、なのか」
彼方がさらに不安げな様子を見せると、希海は少し顔を赤らめた。
「え、えっとね。とりあえず、『会いたし』で良かったんだよ。『たい』が『たし』になるだけだね」
「それだけでいいのか。なんか、現代語とあまり変わらないな」
「それはそうだよ。だって、同じ日本語なんだから」
希海がふふふっという声を漏らしながらまた笑う。希海は『同じ』と言ったが、彼方には全くそうは思えなかった。
「絶対違う」
彼方はそう言って、少しむくれてみせる。しかし、このままでは自分だけが恥ずかしい思いをしているようで、彼方は少し言い返したくなった。
「でも、それだけだろ。なんで顔を赤くするんだよ」
そう言って彼方は、希海の頬をつついた。希海の顔が一層赤くなる。
「え、そ、そうかな。多分、光のせいじゃないかな」
希海はそう言ったが、彼方にはそれ以上に赤くなっているように見える。
「いや、違うな」
と彼方が言うと、希海は少しうつむき、上目遣いで彼方を見た。
「お、怒らない?」
希海は明らかに恥ずかしがっている。何か理由があるようだが、彼方にはそれが何なのかは分からない。もちろんその理由も聞いてみたかったが、それ以上に、彼方はそんな希海をもう少しいじめたくなった。
「なんで怒るんだよ。いいから、言ってみろよ」
そんな彼方の言葉に、希海はしばらく、えっとえっとという声を漏らしながら、指をいじって躊躇っている。しかし、彼方が何も言わずただ返事を待っているのを見て、おもむろに口を開いた。
「えっとね、『見てしがな』って、『結婚したいなあ』っていう意味、だよ」
希海は手遊びを止め、彼方をのぞき見た。
「ほ、ほんとか?」
彼方の動きも止まる。
「う、うん」
希海がうなずくと、しばらくの間、帳の中は沈黙が支配することとなった。
「俺、『希海と結婚したい』って、言っちゃったわけだ」
沈黙が耐え切れなくなり、彼方が茶化すように笑う。
「そう、だね」
希海が、自分の膝に視線を落とした。
彼方が感じる顔の火照りは、部屋が寒いからではないだろう。単に自分の無知が招いたことなのだから、そこまで恥ずかしがることは無いのかもしれない。しかし、彼方の頭の中で自分の言葉の意味が反復されるたびに、彼方の熱が増していく。希海のもじもじとした様子が、それを更に加速させた。
「そんなの、希海は嫌だよな」
彼方が、着ていたブレザーで自分の顔をぱたぱたと扇ぎだす。
「嫌じゃないよ」
その音に消されそうなくらい小さな声で、希海がぽそっと囁いた。
彼方がその言葉の意味を正しく理解するのに何秒もの時間が必要になってしまったのは、その声の小ささだけが理由ではないだろう。
その返事が、想定していた返事、例えば『そうだよね』などと言った反応とは真逆だったがゆえ……泳いでいた彼方の視線が希海の顔へと戻る。
希海は、顔こそ彼方の方に向けていたが、視線は横に向いていた。
「バ、バカ言うなよ。お、男同士、なんだし、結婚なんて」
できないだろという語尾は、彼方の喉の奥でつっかえてしまい、音に成らない。
「彼方くんは、嫌、なのかな」
希海が、両手を膝の上で重ねたままうつむく。
「べ、別に、嫌だなんて、言ってないだろ」
彼方は思わずそう口にした。するとまたしばらく、言葉の無い時間が訪れる。
そこでまた彼方は自分が何を言ったのかを冷静に考えてしまい、どうしようもないくらいに顔と体が熱くなるのを感じた。恥ずかしさの余り、部屋から逃げ出したくなってしまう。
「いや、あの、その」
もう彼方の口からは、意味のある言葉が出てこない。と、希海の左手が、彼方の右手を包み込むように握った。
希海の手の温かさが彼方の冷たくなった手に伝わり、その冷たさを知られたくないと思って、彼方は手を引っ込めてしまう。しかしその瞬間、希海の表情が固まった。
「ご、ごめん、彼方くん」
希海がまるで火傷しそうなものに触れたかのように手を引っ込め、両手を膝の上に戻す。手を固く握りしめ、彼方から顔を背けた。
「ち、違うんだ。お、俺の手、冷たいし、あ、洗ってないから」
彼方は慌ててそう言い繕いつつも、希海の肩に触れようとした手を、それが目的を達する前に下へと下ろす。
「お、俺、どうしていいか、分からないよ」
そして、そう続けた。
彼方には希海の気持ちがよく分からない。教室にいる『佳月』と目の前にいる『希海』は、全く別人のように思えるが、その顔はやはり同じなのだ。希海が女性の服装を着ていようが、にこやかに笑おうが、佳月希海は佳月希海でしかない。
『君と僕は、いる世界が違うから』
教室で聞いた『佳月』の言葉。目の前の『希海』だって、内心はそう思っているかもしれない。この場所に一人でいる寂しさを紛らわすために、自分と仲良くしようとしているだけなのかもしれない。そんな疑念が彼方の心の中で、熱せられたケトルの底から湧き出る泡のように、次々と、次々と現れては消えていった。
昨日のことだって、きっと若さゆえの性の欲望が抑えきれなくなって、体が勝手に動いただけに違いないのだ。
「どうしたいか、僕に教えて」
しかし希海は、顔を背けたまま、逆に彼方にそう尋ね返した。彼方は、返答に困ってしまう。
「お、男同士、だし」
「そんなの関係なしに、彼方くんがどうしたいか、僕に、聞かせて」
そう言うと希海は、彼方の返事を待つように、何も言わなくなった。
話が変な方向に行っている。彼方はそう思ったが、希海が尋ねる『どうしたいか』というのは、そもそも自分が一体なぜここに来ようとしているのかの理由に繋がっているようにも思える。
独りでいる希海が可哀想だからだろうか。彼方は、そうではないと直ぐに否定する。かといって、最初に抱いていた『希海という眩しい存在に頼られたから』という感覚も、いつの間にか無くなっている。
『希海と約束したからだ。あの屋敷から連れ出すって』
『希海を、一人にはしない』
教室で、『佳月』に向けて言った言葉。それは心の底からそう思った、彼方の気持ちだ。しかしそれは、自分の想いの結果であり、理由ではない。
――じゃあ、なぜ俺はそうしたいんだ?
希海をこの屋敷から連れ出すのは、自分でなくてもいいはずだし、一緒にいるのだって、自分でなくてもいい。頼まれたから? 可哀想だから?
――そうじゃない。
希海に対する確かな想いが、彼方の心の中にある。それはもう否定しようが無かった。
しかし一方で、自分がどうしたいのかを希海に言えない、言うのを躊躇ってしまう理由もある。しかしそれは、男同士だからなんかではない。
――嫌われたくないから。『希海』に、嫌われたくないから。
彼方が、希海の肩にそっと手を触れる。その瞬間、希海の体が電気に触ったように震えた。
「言ったら、希海に嫌われる」
そう言いながらも彼方は、何かを期待し、御簾すら揺らせないほどの微かな力を手に込めた。すると希海は、まるでその何倍もの力で引っ張られたように、彼方の方へと体を倒し、その胸の中に顔をうずめた。
「嫌わないよ」
その言葉が、鼓膜ではなく、彼方の心を直接震わせる。希海の腕が、彼方の背中へと回された。
手を縛っていた目に見えない革紐が大きな音を立てて千切れた。彼方の目に、そんな幻覚が映し出される。押さえていたものを我慢できなくなって、彼方は希海を強く抱きしめた。長い髪の毛のさらさらとした感触に、気持ち良さとまどろっこしさを感じ、彼方は希海の髪の下に手を入れ直す。しかし今度は、着物のごわついた感触が彼方の邪魔をした。
もっと直接。二人で十二単の中に隠れた時のように、希海の肌の熱を直接感じたい。そう思ったから、彼方は自分の頬を希海の顔に押し付けた。
「こんなことしたら、希海に嫌われる」
そう言いながらも、彼方は希海を強く抱きしめる。すると希海が彼方を抱きしめたまま、自分から後ろへと、畳の敷かれた寝台へと倒れた。自然と、彼方が希海に覆いかぶさるような格好になる。
「嫌うわけ、ないよ」
赤みを帯びた薄明かりの中で、希海の瞳が少し潤んだように煌めいた。それが一瞬だけ、彼方に『理性』という名の箍を思い出させる。
「希海は、どうしたい。俺に、教えてくれ」
そこにある越えてはならない一線を、越える勇気。彼方はそれを希海に委ねた。すると希海の手が、彼方の顔をゆっくりと引き寄せる。二人の顔が、鼻が、そして唇が近づいた。
「彼方くんと、キス、したい」
囁くような希海の声。彼方は一瞬の躊躇の後、希海の唇に自分の唇を重ねた。そして二人の舌が絡み合う。その甘い香りに、彼方は自分の頭が真っ白になるのが分かった。
制服も、十二単も、服と呼ばれるものが全て、寝台の脇に脱ぎ捨てられる。希海の体温を肌で感じると、彼方のものは押さえきれないほどに熱く、そして硬くなっていった。僅かに生じた羞恥心も、同じく硬くなっている希海のものに触れた瞬間、消え失せる。
なぜ、どうして、どうやって。それら全てを括弧にくくり、彼方は希海と抱き合う。お互いの肌を感じ合い、欲望に自分の手足の動きを委ねると、二人の硬くなったものが自然と重なった。
彼方が、自分のものを希海のものに滑らせせる。それに合わせ、希海が熱い吐息を漏らした。希海も体を動かす。彼方の脳に、痺れにも似た快感が伝わり、小さな声が口から洩れた。それを希海が唇で塞ぐ。
どちらともなく体を動かす。いつ果てるともなく、二人は唇を重ね、舌を絡め、そしてお互いの固いものを感じ合った。
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