4-1

 ふと目が覚める。目の前では、希海が席に座ったまま彼方を見つめていた。希海は、制服を着ている。

「戻ってる……なんで?」

 彼方が慌てたように周りを見回す。夕日からの光が教室内に差し込み、並べられている勉強机と椅子たちが影を作っていたが、彼方がそれまで横になっていた寝台も、それを囲う帳も、そして御簾に仕切られた屋敷の部屋も、どこにもなかった。

 ガタンと音がして、希海が席から立ち上がる。彼方は希海に視線を戻したが、希海は彼方の方を見ようとせずに、教室の出入り口へと向かった。

「希海」

 彼方は思わずそう声を掛ける。希海が立ち止まる。

「馴れ馴れしく、呼ばないで」

 希海が、希海は背中越しに彼方に向けて、抑揚のない声でそう言った。

「いや、でも」

 彼方の頭の中で、屋敷での出来事と教室での出来事が混ざり合う。何が本当なのか、分からなくなった。

「勝手に見ないでって言ったのに」

 少しだけ、希海の声に怒気が混ざる。彼方の口から出かけていた言葉が、喉で止まり、体の中へと落ちていった。希海が小走りで教室を出ていく。彼方は、何が起こったのか理解できないまま、しばらくの間茫然とその場に立ち尽くしていた。

 眠れない夜を過ごした後、まだ薄暗さが残る白い天井が彼方の朝を出迎えてくれた。同じ暗さでも、隣に希海の吐息を感じるのと、そうでないのと、その違いを意識すると、どうしようもない喪失感が彼方を襲う。

 やはり、屋敷でのことは夢物語でしかなかったのだろうか。

 白昼夢というには肌に触れる熱や鼻をかすめる香りが鮮やか過ぎるが、現実と言うには無理があり過ぎた。下腹部に、希海のものの感触が甦る。そっと自分のものに手を触れると、痛いほどに硬くなっていた。

 彼方はベッドから飛び起きると、母親を急かして朝食をお腹の中にかきこんだ。

 終業式の日。といっても午前中には普通に授業がある。彼方は、鞄の中を碌に確かめもせず、それを持って家を飛び出す。通学路を小走りに進み、開門時間の直後に学校に着いた。生徒の姿はほとんど見えない。彼方は校舎へと入ると、教室へと急いだ。

 教室には誰もいない。彼方は鞄を自分の席の上に置くと、昨日の残り香を探し始めた。希海と話し、そしてお互いの温もりを感じあった証を見つけるため、文字通り床に這いつくばる。自分の席、窓際、希海の席の周辺。しかし、何もない。そこにはただ、学校生活という日常だけが存在していた。

 ふと、希海の机に目を移す。木で作られた板に、金属で棚と脚を作っただけの簡単な学習机。一瞬の躊躇の後、その中も覗いてみたが、そこには何も入ってはいなかった。

「僕の机で何してる」

 突然、彼方の背後から声が飛んだ。高く透き通る音であるがゆえ、その鋭さが際立つ形になる。驚きの余り、彼方の体が断末魔の痙攣のように跳ねた。

 教室の入り口で、少し下がり気味の目の下から希海の黒い瞳が彼方を見つめている。眉をひそめてはいるが、その表情からは感情を読み取ることができない。

 彼方は、視線を背けたい衝動に抗い、希海の瞳を真っ直ぐに見据える。しかし、期待した感覚が訪れることのないまま、希海の方が視線を外した。

「あ、いや、ちょっと探し物を」

 希海は学校の制服であるブレザー姿で、その下に紺色のカーディガンを着ている。その姿が彼方には逆にとても奇妙に見えた。希海が足音も立てずに彼方の方へと歩いてくる。長くまっすぐに伸びた髪がその振れにつられるように揺れた。

「何も入っていないよ」

 そう言って希海は、何事もないように自分の席に座った。

「そ、そうだな。すまなかった」

 やはり、希海と見つめ合うだけではあの屋敷には行けないようだ。彼方はそのことに少し焦りを感じた。

『今日から三夜、僕と一緒にここで過ごしてくれないかな』

 希海が口にしたお願い。そして約束。そのことにどんな意味があるのか、彼方には分からない。『三日』ではなく『三夜』であったのも、不思議である。

 しかし彼方がその言葉に感じたのは、『手の届かないところにいる存在に選ばれた光栄』ではなく、『叶えてあげたいという願望』だった。だからこそ、守らなくてはならない約束のようにも思える。

 ただ、屋敷に行く確実な方法が分からない。過ぎていく一秒一秒が、タイムリミットに向けたカウントダウンのように感じられた。

 それにしても、と思う。目の前の希海が、屋敷にいた希海と同じ人物には到底思えない。希海は、まるで彼方がそこにはいないかのように、窓の外に視線を向け、親指を口元に添えた。

 教室には今、二人きりである。話をするなら今しかない。

「なあ、希海」

 彼方は、希海の席の前に立つ形になっている。屋敷にいた希海に声を掛けるように、目の前の希海にそう声を掛ける。

「馴れ馴れしく呼ばないでくれるかな」

 しかし希海は、窓の外を見つめたまま、抑揚のない声でそう返した。彼方は、怯みそうになる気持ちをぐっと我慢し、自らを鼓舞する。これは、『希海』に会うための試練なのだ。

「N高、行きたくないって言ってたよな。なぜ希海は男子校が嫌なんだ?」

 彼方が言葉を続ける。その瞬間、希海が彼方の方へと顔を向けた。

「僕に関わらないで!」

 高く、鋭く、大きな声が飛ぶ。

 拒絶。希海の声色からは、ただその二文字だけが伝わってきた。希海が、眉を額の真ん中に寄せ、彼方を睨む。しかし彼方は、その表情とは裏腹に拒絶とは別の感情が希海の瞳の中にあることに気が付いた。孤高であるがゆえの孤独、そして出口のない迷い……

「な、なんでそんなこと言うんだよ、希海」

 だからこそ彼方はそんな希海の反応に対し、更に言葉を継ごうとする。

「君と僕は、いる世界が違うから」

 しかし希海はそう言うと、それ以上見られたくないという様に、また窓の外へと顔を向けた。

 と、そこに生徒が二人教室に入ってくる。彼方はそこで話を切り上げ、気を希海に残しつつも、自分の席に座った。

 午前中の授業の後、昼食を挟んで生徒全員が講堂へと移動する。そこで簡単な終業式が行われた後、学校の大掃除をし、ホームルームで年末年始の注意事項の伝達が行われれば、学校は終わりだ。

 午前の授業中、彼方はこれまでの希海の様子を思い出していた。中学に入って約三年。希海と言葉を交わした記憶はほとんどない。しかし、そのわずかな記憶の中で、希海が自分を語ることは無かった。

『そうだね』

『そうかもね』

 希海から聞いた言葉は、ほぼその二種類で事足りていた。『そうだね』はYES。『そうかもね』はNO。ただその二種類だけ。これは彼方以外の生徒に対してもそうだった。

 彼方が『そんなに男子校が嫌なのか?』と訊いたなら、例えばこう答えていただろう。『そうかもね』と。

 彼方は、希海が何かを知っていると確信した。いや、もっと言うならば、今まさにこの教室にいる『佳月』は、やはり古ぼけた屋敷の中にいた『希海』と同一人物なのだと。

 異なる存在だとすれば、『希海』が彼方のことを普通に認識している説明がつかない。もっとも、『佳月』と『希海』の性格、というか印象がここまで違う理由は、彼方には分からなかった。だからこそ、そこに何かがあると思えた。

 午後になっても、彼方に希海と話す機会がくることは無かった。終業式が終わり、生徒たちが各々の教室へと戻る。しばらくの待機の後、担任であるダイブツが教室に入ってきて、ホームルームを始めた。話の中心は、受験にほとんど関係のない生徒に向けたものである。話を聞く者が三分の一。それ以外は皆、話を聞く振りをしていた。

 彼方はホームルームの間に一度だけ、自分の左後方、窓の方に視線を向ける。その先では、希海が親指の爪を噛みながら窓の外を眺めていた。

 午後の光が、真っ直ぐに流れる希海の長い髪を照らしている。整った顔は、優しく笑えばきっとすべての光を反射したように煌めきを放つことだろう。しかし今は、それが物憂げな表情に覆われている。そのどことなく陰のある様子に、彼方は一つため息を付いた。

 ホームルームが終わり、これで二学期が終了となる。

 希海を逃がすわけにはいかない。そう思い、希海の動きを気にしつつ、彼方は急いで帰り支度を始めた。

「おい彼方、一緒に帰ろうぜ」

 そこに、正樹が声を掛けてくる。

「ごめん、ちょっと用事があって」

「なんや、なんや。何かあるんか? アヤシイのお」

 今度は隆が、彼方の左肩に腕を置き、にやついた顔で彼方を覗き込んだ。

「そんなんじゃないって」

「今日はクリスマスだもんなあ」

 正樹も彼方の右肩に手を置く。

「だから違うって」

 彼方はそう言いながら、二人の手と腕を振り払った。

「女やろ。女やろ」

 隆が勘繰りの目を彼方に向ける。

「だから、そんなんでもないって」

「じゃあ、何があるんだよ」

 正樹も何かしら疑いの目を彼方に向けていた。

 結局、彼方は二人に対していい言い訳を思いつくことができず、二人は二人で『危うく壊れそうになった親友関係を温める』という名目で、三人一緒に帰ることになった。

 まだ教室に残っている希海を気にしつつ、彼方は隆と正樹に連れられて教室を後にする。他の二人が他愛もない話題で盛り上がる中、彼方は焦りを募らせていた。

 道中で、正樹が突然、彼方に向けて話を切り出した。

「そういや、彼方さ」

「何?」

「私立は受けないのか?」

「ああ、受けない」

 正樹の問いに彼方が即答する。すると、隆が横から話に乗ってきた。

「彼方はN中、受験したんやろ? 高校も受けたらええがな」

「俺じゃ無理だって」

 彼方は隆に向けてそう返事をしたが、それは彼方にとってあまり触れてほしくない話題である。

「そんなん、受けてみな分からんやろ。模試の判定はどうやねん」

「志望校欄に書いたことないから、判定は分からないよ」

 彼方は嘘をついた。最後の模試にだけ、彼方は志望校にN高を書いていたのだ。しかし判定は五段階評価の四番目というものだった。

「なんや、ほんまに受ける気ないんやな。まあ、彼方がそれでええっちゅうんやったら、それでええやろ」

 隆が話をそう締める。すると、正樹が何かを思い出したような顔をした。

「そういや、三組の奴に聞いたんだけどな、佳月って小学生の時、塾でいじめられてたらしいぜ」

 正樹は、N高の話題からその話を思い出したのだろう。佳月という名前が出た瞬間、彼方の心臓が一つ跳ね、さらにその内容に思わず彼方が正樹を見る。

「へえ、あんな氷みたいなやっちゃをいじめるやつがおったんか。仕返しされそうで、おそろしいわ」

 隆が肩をすくめながら感想を述べた。

「それ、ほんとなのか?」

 確かに隆が言う通り、今の様子からは想像できない。彼方は思わず正樹に確認した。

「ああ、そいつが佳月と一緒の塾に行ってたらしくてな」

 正樹はその言葉を皮切りに、自分が仕入れたネタを彼方と隆に披露し始める。そのいじめの内容は、さすがに暴力的なものはなかったが、物を隠される、無視される、など陰湿なものが多かった。

「中学生になって、佳月があんな風になったのも、それが原因じゃないかって言ってたぜ」

 そう締めくくると、正樹は他の二人が自分のネタに食いついているのを見て、満足げな表情をした。

「じゃあ、小学生の時は、あんな風じゃなかったってことなのか?」

 彼方が正樹に尋ねる。

「ああ、もっと気弱で、いつももじもじしているような感じだったって」

 そう答えた正樹に、

「なんで、いじめられたりしたんだよ」

と、彼方は少し語気を強めて訊いた。

「い、いや、そこまではわからないよ」

 正樹は、彼方の迫力に少し腰が引けてしまっている。

「落ち着けっちゅーの、彼方」

 隆が彼方の肩をつかんだ。彼方ははっとして、正樹に向けてごめんとつぶやく。

「もしかしてお前さん、佳月にアレか?」

 隆がにやけた表情で、彼方に顔を近づけた。彼方は「そんなんじゃない」と言って、隆の腕を少し乱暴に振りほどく。隆と正樹は顔を見合わせると、お互い肩をすくめ合っていた。

 少し微妙になってしまった空気を換えようと、隆がコンビニのクリスマスキャンペーンについて話し出した。なんでも、隆のお気に入りのアニメのフェアをやっているそうだ。しかし、彼方の心の中の苛立ちが一秒ごとに増えていく。

 正樹の話を聞けたことは、彼方にとっては収穫だった。しかしだからこそ、希海に会いたいという思いが強くなっていく。

 正樹の話では、希海は塾でいじめられていたそうだ。希海がいてた塾というのならば、ハイレベルな塾であった可能性が高い。それは同時に、いじめた側の連中もハイレベルであり、もしかしたら中学受験でN中に行ったのかもしれない。希海がN高に行きたくないといった理由はそこにあるのかも。彼方はそう思った。

 しかし、それについて自分にできることはなにもないだろうとも思う。ただ、今日中にもう一度希海に会わなければ、希海との『約束』が果たせない。三夜連続で希海と一緒に過ごす。彼方はそう約束したのだ。

「あっ」

 彼方が突然大きな声を上げた。話の途中だったが、隆はびっくりした様子で話を止める。

「どないしたんや」

「ちょっと、学校に忘れ物をした」

「は? どんくさいな」

「うるさい。取りに戻るよ」

「さよか。んじゃあ、また連絡するわ」

「悪いな」

 彼方はそう言うと、隆と正樹への挨拶もそこそこに、随分と傾いた太陽が照らす学校への道を走って戻り始めた。

 学校が終わってからもう随分と時間が経っている。日没が早い時期ではあり、もう既に太陽が随分と傾いてしまっていた。教室に戻ったところで、希海がそこにいるという保障は一切ない。それでも彼方は、下校中の希海に出会うという確率も含め、学校へと走った。

 すっすっという息を吸う音。はっはっという息を吐く音。その反復を意識しながら、吐き出す息を走って追い越していく。すれ違う生徒が不思議な目で見てくるが、彼方は気にしなかった。彼方が注意すべきはただ一つ、彼らの中に希海がいるかどうかなのだ。

 しかし、希海を見かけることなく、学校に着いてしまった。

 彼方たちは、希海よりも先に学校を出たはずである。ただ、希海が別の道を使って帰った可能性もある。彼方は祈るような気持ちで校門を通り抜け、靴を履き替えると、教室へと急いだ。

 校舎の中に残る生徒の姿はまばらになっている。学校に残っているのは、部活動や委員会といった活動をしている者くらい、ということだろう。希海はそのどちらもしていない。彼方は、もし希海が学校にいなかったらどうするべきか、考えを巡らせながら教室の扉を開けた。

 弱々しく窓から差し込む茜色の光が、窓際の席に座る佳月希海の横顔を照らしていた。

 長くまっすぐな黒髪が僅かに揺れ、彼方へと視線が向けられる。顔の右半分が影に隠れてしまった。

「佳月、まだ教室にいたんだな」

 彼方のその言葉に、希海はまた窓の外へと顔を戻す。

「何か用」

 口元を隠す右手の親指の奥から、ボーイソプラノが響いた。

 目の前の『佳月』と、屋敷の中の『希海』。同じであるのは声だけのようにも思える。いや、その声ですら、佳月から発せられるものは抑揚もなく、ただ一つの音しか出さない音叉のように聞こえる。それに比べれば、希海の声は何と甘い響きを奏でているのだろう。

「佳月こそ、教室に残って何をしてるんだ?」

「僕に関わらないでって言ったはずだけど。君には関係ない」

「いや、関係ある」

「どうして?」

 それは、希海を理解してあげたいと彼方が強く思ったからだ。確かに、目の前の『佳月』も、屋敷にいる『希海』も、彼方とはまるで別の世界に住んでいるようだ。でも、その場所に一緒に行けなくても、理解してあげなければ。佳月と希海、二人が住む世界を。

「希海と約束したからだ。あの屋敷から連れ出すって」

 その言葉に、希海が振り向いた。目を見開き、驚いた様子で彼方を見つめる。

「希海を、一人にはしない」

 希海の目から絶対に自分の目を逸らせまいと思い、彼方も希海の瞳をじっと見つめた。

 黒い、ただ黒いだけの瞳が彼方の姿を映し出している。耳にかかるくらいの髪の毛。少しやせた顎。上がり気味の眉。そして、希海への明らかにそれとわかる感情をたたえた顔。それらが全て、希海の瞳の中へと吸い込まれていった。

 強烈な眩暈が彼方を襲う。思わず膝をつき頭を押さえ、気持ちの悪さに耐えながらも、彼方は心の中で、『やった』と叫んでいた。

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