(閑話)読む、とはなにか。
気温と湿度が上がってきた。
それと比例するように、小説を読むバイオリズムではなくなってきた。
どちらかというと映画やアニメーションなど観ている。まぁ、そういう時期なのだろうと思う。
そこで、一つ立ち止まって考えてみた。
読む、とは果たしてなんであろうか、と。
以前、書評ブログをやっている人が事件を起こし、注目されたことがあった。
事件の内容については置いておくとして、そのブログにはこう書かれていた。
「わたしは、一日に十冊は本を読む」と。
うむ。
嘘を吐け。
あと、やめてほしい。
そういう嘘を大真面目に吐かれると、笑っていいものか困る。
その言を受けて、また別な物書きの方がこう評した。
「一日十冊が本当だったとすれば、それは読んでいない。読んだ気になっているだけだ」と。さしずめ、下水道のように文字を頭の中で流しているだけだ。そんな“読み方”では何一つ残らん、と。
件の書評ブログを、祖父江は読んでいないので、この話はここまでとする。
しかし、“下水道”とはなかなかだと思った。
こうして他人様の小説に感想を書いていると、物語が腹にたまる気分になる。
個人的な感覚だが、「ちゃんと読んだ」という気になれるのだ。
それだけではただの文字列である物語の水を、解釈というろ過装置を使って、飲み干したのだと思える。
とすると、今、あまり小説を読む気分になれないのは(ぜんぜん読んでいないわけでもないのだが)、飲み過ぎて飽和してしまったのかもしれない。
単純に暑くて頭がボーっとしているので、ボーっと観れるものにしか意識が向かないだけかもしれない。だが、祖父江はカッコがつかないと嫌ななので、ちょっとした“小説胃もたれ”になっている説を推すこととする。
今一度、読むことについて。
祖父江にとって、読むとは、どれだけ稚拙であってもなんらか自分の言葉に翻訳して解釈することなのだと思う。
レビューで妙な造語を連発したり、ストーリーよりキャラクターにフォーカスしてみたりするのもそのためだ。
映画も、アニメも、音楽も、観たり聴いたりすればほぼ必ずブログに何かしら書いている。
カクヨムの話をすれば、やはり、評価星をつけるだけでは足りない。
むしろ、あの星(☆←これ)はいらない、まである。
点けなきゃ書けないので、ぜんぶ二つ星にしてしまった。三つでよかったのに。
また、この日記もそうだが、作者に読まれることをあまり想定していない。
「読んだ」と宣言する、その
結論を述べる。
読んだら書く、書いたら読んだ。
それが、自分にとっての読む、ということだ。
さて、旅を続けよう。
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