エターナルセカンドと呼ばれた男
草薙 健(タケル)
2019年11月13日に亡くなった『永遠の2番手』――レイモン・プリドールに捧ぐ。
フランス南部、スペインと国境を接するピレネー山脈。
標高2115
沿道には沢山の観客が詰めかけており、ライアンに向かって「
ツール・ド・フランス2020――通称ツールは、23日間かけて21ステージを争う。今日はその第15ステージだ。
休息日を翌日に控え、レースは佳境を迎えている。
今まさにステージ
『先頭の
イヤホンから聞こえる監督の声がうるさい。今着ているジャージの模様みたいな大粒の汗が、全身から
ライアンは今、
ツールには峠の頂上などに山岳地点が設定されている。そこを早く通過した順にポイントが与えられ、最終的に獲得合計ポイントが最も多い選手が
また、それぞれの峠には難易度が決められていて、難易度が高いほど設定ポイントも高い。
ステージ最後に立ちはだかるのは、超級山岳トゥールマレー峠。5段階の内、最も難易度が高いカテゴリーだ。
先頭を走っているのは、ライバルチームに所属する
「くそ……これ以上ペースを上げられない。このままだと山岳賞が……!」
『もう山岳賞のことは忘れろ! 頂上通過時にタイム差を3分以内に抑えればゴールまでに追いつける! お前の特技を活かしてステージ優勝しろ! 一矢報いるんだ!』
このステージ、ここまでの山岳地点は全て
『とにかく耐えるんだ!』
ステージが始まる前、
「おい、
22歳の
絶対に守り切るとライアンが答えると、「戦績は万年2位かもしれないが、
とは言え、ライアンはすでに37歳。そろそろ選手としての陰りが見え始めているのも事実だ。
現に今大会もチームの総合エースを任されながら、前半の内に
そして今、
キャリアを17年積んでいようが、ツールに15年連続出場していようが、総合順位2位を5回獲っていようが、今このとき結果を出せていなければ容赦なく切り捨てられる。それがプロの世界だ。
正直、
それはプロスポーツ選手にとって避けられない宿命だが……これほど寂しい言葉はないとライアン思った。
引き際や理由は人それぞれだ。
完全に燃え尽きる者、怪我により断念せざるを得ない者。
自分の場合はどうだろうか。辞めるとしたら何が理由だろう。自転車を辞めてしまったら自分には何が残るだろう?
『――ライアン! 聞こえているのか!?』
無線から聞こえる監督の怒鳴り声に、彼は現実へと引き戻された。
しまった、考え事をしていて上の空になっていた。今は目の前のレースに集中しなければ。
「私の現在順位は?」
『9位だ!』
我慢。とにかく山頂まで我慢だ。今までそうやってきたように。
そこを超えたら、今度は私の得意分野が待っている。
絶対に追いつく。そして、ステージ優勝を飾る……!
もう
空が開けた。山岳地点を示すゲートが見える。ついに、ライアンの目の前に超級山岳の頂上が姿を現した。
「
『3分ジャスト!』
「よし!」
第15ステージのゴールラインは、山岳の頂上には引かれていない。ステージ優勝の行方は、トゥールマレー峠を下ったその先で決する。
さぁ、反撃開始だ。
ダウンヒルスペシャリストと呼ばれる私の本気を、とくと見るがいい。
彼はお尻をサドルから外し、ロードバイクのトップチューブ――水平方向に伸びているフレームの部分に腰を下ろした。できるだけ頭を低くし、体を小さくたたみ込む。そして、そのとても窮屈な姿勢から一番重いギアにシフトし、全開でペダリングを始めた。
ペダリングによる加速と重力加速度によって、ライアンのロードバイクはみるみるスピードを上げていく。
そこから、ライアンのごぼう抜きが始まった。
下り始めてから1
素人がこんなことをすれば、間違いなく挙動を乱して落車してしまうだろう。
ライアンのダウンヒルを支えているもの、それは類い希な動体視力と天性のバイクコントロールにある。
ダウンヒルは練習すればある程度速くなる。しかし、決してライアンのようにはなれない。彼のダウンヒルは、神の領域なのだ。
『流石ライアン!』
集中するためイヤホンを外していたライアンに、監督の言葉は届かない。
このとき、ライアンは言い知れぬ違和感を抱いていた。しかし、彼がレース中にこの感情の正体に気がつくことは無かった。
■
ツールは2回目の休息日を迎えた。
ほとんどの選手は休息日も自転車に乗る。
これはある意味中毒に近い。ツールの最中に体への負荷が抜けてしまうと、突然調子が悪くなってしまうことがあるのだ。
そんな訳で、ライアンもライドへ出かけようとしている。
彼は準備をしながら、散々だった昨日の結果を振り返っていた。
引退についてチームと話さなくちゃな……。
ライアンがロードバイクに跨がろうとしたまさにそのとき、10歳くらいの男の子がライアンに駆け寄ってきた。
「あ、あの!」
彼はフランス語で叫んだ。
「僕、あなたの大ファンです。昨日のレース、感動しました! 最後、
ファビオットとは、ファブリツィオと
「ありがとう」
「エターナルセカンドっていうあだ名も好きです。ツールに出るだけでも凄いことなのに、何回も総合成績で2位になれるなんて!」
ライアンは複雑な心境だった。
2位で良いはずがない。勝つことは、プロである以上義務と言っていい。しかし、彼はそれを果たせていないことに自責の念を感じていた。
ライバルが強すぎた。時代が悪かった。
そう言ってくれる人たちは山ほどいる。だとしても、それは自分の実力が足らなかったからに過ぎない。自分がもっと強ければ……。
「ライアン選手」
「なに?」
「僕、ライアン選手のような恐れを知らない、何事も諦めない人になります!」
彼は元気いっぱいなお礼を付け加えると、そのまま走り去っていく。一方のライアンは、男の子の言葉に衝撃を受けその場に立ち尽くしていた。
「最後まで諦めない……」
ライアンは朝起きたとき、最後の下り坂で感じた感情の正体に気付いていた。
それは恐怖だ。
自分が最も得意とするダウンヒルに恐怖を感じ、怖じ気づいた。
ダウンヒルはとても危険だ。ライアンは仲間がダウンヒル中に落車して病院送りになるのを何度も目撃していた。時速100
しかし、プロ選手は恐怖を感じない。正確に言えば無視している。
それなのに、昨日は思うように下り坂を攻められず……そして諦めた。ステージ優勝だけでなく、自分のプロロード選手としてのキャリアも。
恐怖を感じてしまったら、最早選手生命はそこで終わりだと思っていたから――
だが、あの男の子には違う印象に映ったらしい。
自分のダウンヒルはプロの中でも飛び抜けて速い。だからあの子には、多少スピードが落ちてもなお他の選手より速く見えたのだろう。恐怖に歪んだ顔も、きっと最後まで諦めない決意に満ちた表情に映ったに違いない。
そう思ったとき、ライアンは自覚した。
諦めない姿を子供に見せる。ヒーローであり続ける。
これはやりたくても出来ることでは無い。自分は好運なことに自転車を通じてそれが出来ている。子供達に勇気を与えられる。希望を与えられる。
……もう少し頑張ってみよう。
自分にもまだやれることがあるはずだ。
ライアンはそう決意すると、自分のロードバイクに跨がって走り出した。
それにしても――
「自分が子供達に勇気を与えるはずが、逆に自分の方が与えられてしまったな」
ライアンは自嘲した。
まぁ、たまにはそんなことがあってもいいだろう。
■
その後、ライアンはツールで総合優勝することなく引退するが、国民的英雄として今も皆の記憶に刻まれている。
エターナルセカンド――決して諦めなかった男として。
(了)
エターナルセカンドと呼ばれた男 草薙 健(タケル) @takerukusanagi
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