『Bar風花(かざはな)』〜カクテルとパイプに美人バーテンダーさんを添えて〜
天照
第1話 プロローグ
「今夜は暖かいな...桜もかなり開いて来たな...」
人通りのない夜の裏道で五分咲きの夜桜を眺めながら一人つぶやいた。
市内から車で1時間以上離れた片田舎、夜になると車通りも人通りもぱったり無くなる。
高い建物は全く無い閑静な住宅街の真っ暗な所々街灯で照らされた夜道を、彼は飲食店の集まっている地区に向かってのんびりと足を勧めていた。
特産品のフルーツ以外はこれと言った産業も無いこの町に家庭の事情で家族と共にUターンしてきてはや半年。
生まれ育った町に特に不便も不自由もないが、彼の唯一の不満、それは彼の住む町にはBarが無い事。
彼は卒業と共に上京し、居を構えたアパートの近くに出来たカフェバーに会社の歓迎会の後、気まぐれに立ち寄ってみた所、見事にBarの魅力に捉えられてそれからはひたすらそのBarに通い詰めていた。
数年後、生まれ育った県に帰って来てからも、県内一の繁華街にある老舗と言われるBarに通い詰めていた無類のBar大好き人間の彼なのであるが、残念ながらこの度のUターンでその店に行く事も難しくなった。
何しろ飲酒運転にはとにかく厳しいこの時代である。
厳罰当たり前の飲酒運転を犯すつもりはさらさら無いが、彼の自宅から繁華街の馴染みのBarまでは車で片道1時間以上もかかる。
公共の交通機関でも行けない事は無いが、乗り継ぎが難しい上に終電も早い。
そうなると車で行き代行運転で帰って来るしか手は無いのであるが、代行運転に支払う金額を考えると安いビジネスホテルにでも泊まった方がはるかに安上がりである。
しかし、妻帯者の彼が泊まりで一人飲みに行くなど不可能に近い話である。下手したら浮気を疑われて離婚の危機...
かくして引越ししてからこの半年は自宅で飲むか、家族でチエーン店の居酒屋に行くか、友人に誘われて居酒屋やスナックで飲むか、でしか彼はお酒を飲んでないのである。
「あ〜、Barに行きたい...カウンターでお気に入りのパイプを燻らせながらキンキンに冷えた辛口のマティーニを飲みたい〜!」
彼の溜まりに溜まったフラストレーションは今や爆発寸前であった。
◆
この日仕事が終わって自宅に帰ると家は静まり返っていた。
そういえば今日妻と子供は自宅から30分程の所にある妻の実家に泊まりで遊びに行っている。
今日は土曜日で明日は仕事は休み。
自宅で晩酌...とも考えたが、冷蔵庫を除くとビールもカクテル飲料も1本も入っていない。
昨夜飲んでしまったので帰りに買って来ようと思っていた事をすっかり失念していた。
今から買いに行く手間を考えると、今夜は外に飲みに行くのも悪くない。
何より、自宅飲みでは吸う事の出来ない好きなパイプをゆっくりと楽しむ事が出来る。
彼は家で煙草は吸わない様に妻からキツく言い渡されている。
家の外で吸うのは黙認されているが、暖かくなって来たとはいえ、まだ肌寒いこの時期に外でお酒片手に喫煙は少し辛い。
彼がパイプを始めたのは数年前。
ちょっとしたきっかけで安いパイプセットを購入して使ってみた所、ものの見事にどっぷりとパイプの世界にハマってしまった。
元々凝り性の上収集癖もある彼である。
三千円のパイプセットから始まった彼の趣味は、現在では1本数万から数十万円もするパイプが部屋のパイプキャビネットには何本も転がり、オークションで手に入れた古いパイプを自分でレストアするまでになってしまった。
「よし、今日は飲みに行くか...」
意を決した彼は、帰宅したままの作業着からタートルネックのセーターにチノパンというカジュアルな服装に手早く着替えると、アクセサリーと腕時計を身に着けた。
仕事中は事務職とはいえ汚れる事があるため、腕時計は汚れに強いG-SHOCKのアナログモデルを愛用している彼であるが、飲みに出る時はコレクションの中からその日の気分で選んでいる。
腕時計ケースの中から、昔奮発して購入した某有名メーカーのクロノグラフを手に取り左手に付ける。
次に自室の机の上に置かれたパイプキャビネットの中から本日使用するパイプを選び出す。
暫し悩んだがパイプは日本のパイプメーカー柘製作所のハンドメイドパイプ「イケバナ・ベントアップル」とデンマークのパイプメーカーSTANWELL社のM63ハンドメイドの二本を選びだした。
次にパイプキャビネットの横に置かれた小型のワインセラーの中から、煙草の詰まったジャーと呼ばれるガラス製の容器をいくつか取り出す。
彼はこの小型ワインセラーの中に数十種類のパイプ用煙草や葉巻を入れて保管している。
実はパイプ用の煙草や葉巻は湿度管理が重要で、カラカラに乾燥した煙草程不味い物は無いと彼は考えている。
つまり、温度と湿度が管理出来るワインセラーは実は煙草や葉巻の保管には丁度良いのである。
タバコは悩んだが重厚さのあるダンヒルロイヤルヨットと甘くフルーティーでマイルドなベントレーロイヤルバニラの2種類にした。
そして選んだ煙草を今日使う分だけ小さなビニール袋に小分けする。
これらを革製のパイプポーチの中に収納する。
ポーチの中は二本のパイプと折りたたみ式のパイプスタンド、パイプ専用に改造してもらったデュポンのライターやパイプタンパー、パイプ用タバコ、それにシガレットケースに入れたシガリロ
細巻きの葉巻
とインドネシアのタバコ"ガラム"これらがきっちり整理して収められている。
最後に小さなバックに喫煙具一式を収めた革のポーチと財布とスマホと文庫本を一冊放り込む。
後は愛用のコートを羽織り身支度は完成。
玄関でお気に入りの革のブーツを履くと、バックを片手に家を出た。
◆
何処で飲もうかと思案しながらあてもなく飲食街を歩いて行く。
焼鳥を焼く香ばしい匂いや居酒屋から漏れてくる人々の楽しそうな笑い声に何度も心を動かされるが、どうしても店を決めきれずにあてもなく路地をぶらついていた。
気まぐれに入った飲食街の外れの自転車がすれ違うのがやっとの細い路地を歩いていると、彼はふと一軒の店の前で足を止めた。
「あれ?こんな所にBarがオープンしてる...?」
彼の記憶の中ではずっと空き店舗になっていたはずの店舗の玄関に明かりが灯り、綺麗な木製の重厚な扉には店名のプレートが掲げられていた。
"Bar風花-kazahana-"
「え?この町にバーが?」
思わず呟いてしまった。
彼がそう呟いてしまったのも無理は無い。
そもそも彼の住む地区には居酒屋や焼き鳥屋やスナックは多いがBarは一軒も無かった。
地域柄なのか、どうしてもカクテルより生ビールや焼酎が好まれる。
スナックですら好まれるのはウィスキーやブランデーより焼酎である。
必然的に居酒屋や焼き鳥屋、そしてスナックは増えるが、Barが出来る事は一軒もなかった。
彼が友人達に誘われて飲みに行く時は、決まって居酒屋か焼き鳥屋で飲んだ後メンバー誰かの行きつけのスナックに流れて閉店まで騒ぐのが定番なのである。
気になる...とても気になる...
入ってみようかと思うが、彼の中でもう一つの気持ちが湧き上がる。
「こんな田舎のBarでまともなお酒が飲めるの...?」
彼の脳裏を過ぎったのが、スナックやガールズバーの延長でろくに技術も持って無い女性がカウンターに居て、スピリッツも数種類づつしか種類が無くメニューには日本酒や焼酎も載っておりキープも可能...
彼の理想とするBarと遥かかけ離れた光景が脳裏を過ぎり、思わず身震いをしてしまう。
入るか立ち去るか店の前で暫し思案していた彼だが、結局好奇心には勝てず店に向かって足を踏み出した。
きちんとしたカクテルが飲めれば良し、ハズレの店なら少し冷やかして早々に帰れば良い。
少し意地の悪い事を考えながら、彼は立派な木製のドアを押し店内に足を踏み入れた。
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