第2話 ジントニック

 お客が一人も居ない口開けの店内の空気は澄みきっており、程良く空調の効いた店内には耳障りにならないボリュームで静かな音楽が流れている。


 薄暗い店内には直接照明と間接照明が上手く設置されており、店内を仄かに照らしている。入って右手には立派なオーク材の一枚板を加工したカウンターがあり、照明で浮かび上がっていた。


 カウンターの上には余計な物は一切置かれておらず、バーマットの上に置かれた1本のバースプーンが入った水の張った大きなブランデーグラスの他には、いくつかの柑橘系フルーツの入った篭が置いてあるだけである。


 天井まであるバックバーには数多くのカラフルなラベルの色とりどりのお酒が種類別にきっちりと並べられ、しかもそのボトル全てが埃1つなく磨き上げられていた。


 またカウンターと同じ位の高さに設けられた戸棚の中には、磨き上げられたクリスタル製のグラスが種類別に整然と収納されており美しく輝いていた。


 しかもその中のグラスは有名な高級グラスメーカーの品やアンティーク品で非常に高価な物であると思われた。


 席はカウンターに座り心地の良さそうなローチェアーが7脚あるがそれだけで、普通は設置されているであろうテーブル席が全く無い。


 店主は対面での接客に拘っているのだろうか?


 彼に取っての理想のBarがそこにあった。



 入り口で立ち竦んでいると


 「いらっしゃいませ、お好きなお席へどうぞ♪」


 とカウンター内から声をかけられた。


 声の方を向いた彼は再び固まってしまった。


 カウンター内には、綺麗な長い黒髪を後ろで束ね、染み1つ無い真っ白なバーコートに身を包んだ若い美しい女性がカクテルグラスを磨きながら彼に微笑みかけていた。


 年の頃は20代半ばか?

 160センチ半ば位の身長で、スラッとした体型で凄く格好いい。


 整った顔立ちで少しキツそうな印象はあるものの、柔らかな笑顔を浮かべた彼女が街を歩けば10人中10人が間違いなく振り返るであろう、素晴らしい美人の女性バーテンダーがそこに居た。


 ちょっと戸惑いながらも、勧められるままカウンターに足を進める。


 せっかくだから真ん中の席、美人バーテンダーさんの正面に⋯⋯と思ったが、ついいつもの癖で入口から2番目の席に腰掛けてしまう。


 お客さんが居ない時は端の椅子に荷物も置けるし窮屈な思いをしなくて良いので、彼はいつの間にかどの店でもその位置に座るようになってしまった。


 椅子に腰掛けるとすぐ目の前に厚紙で出来た店のロゴが印刷されたコースターが置かれ、「どうぞ♪」と暖かいお絞りが差し出される。


 「暖かくなって来ましたね、今夜はお一人ですか?」


 と彼女が微笑みながら問い掛けてくる


 「はい。帰ったら家族みんな出かけてしまってて、一人晩酌も寂しいから飲みに出てきたんですよ。こちらのお店は最近オープンされたのですか?」


 彼がそう問い掛けると彼女は


 「はい、実は先日オープンしたばかりなんです。お客様は地元の方なのですか?どうぞ宜しくお願いします♪」


 と微笑みながら腰のポケットから革で出来た名刺入れを取り出すと、名刺を一枚彼に差し出した。


 【Bar風花 バーテンダー 桜羽美和】


 「桜羽さん⋯⋯ですか?」


 貰った名刺を見ながら彼がそう問い掛けると、彼女は美しい花が咲いたような笑顔を浮かべながら


 「はい。桜羽美和

さくらばみわ

と申します。宜しくお願い致します。」


 と綺麗なお辞儀をした。


 その美しい笑顔に思わずドキッとしてしまったが、何食わぬ顔で彼は店内を見渡した。


 ふと彼女の胸元を見ると、純白のバーコートの左胸の部分に金色のシェーカーを意匠化したバッヂと金色の葡萄の房を意匠化したバッヂが輝いていた。


 ⋯⋯うわっ、日本バーテンダー協会の会員でソムリエの資格持ちか⋯⋯


 内心驚きながらも素知らぬ顔で彼女に問い掛けた。


 「こちらのお店は煙草は大丈夫ですか?実はパイプなんで匂いがキツイかもしれないのですが⋯⋯」


 と聞いてみると、彼女は微笑みながら


 「大丈夫ですよ、Barに煙草は付きものですから♪それよりお若いのにパイプなんて珍しいですね。」


 と答え、彼の前に真新しいパイプ用のコルクノッカーの付いた灰皿を差し出した。


 葉巻用の灰皿ならまだしもパイプ用の灰皿が常備ある事に驚きつつバックから持参していた合革で出来たイタリアSAVINELLI社製のパイプポーチをカウンターに置く。


 「何をお飲みになられますか?」


 タイミングを見計らったように声をかけられた。


 「そうですね⋯⋯ジントニックをお願い出来ますか?こちらのお店のレシピで⋯⋯」


 つい意地悪な気持ちが出てしまった。


 ジンは何を使う?トニックウォーターの銘柄は?ライムはフレッシュか?氷の大きさは?グラスに何個入れる?ステアの手際は?など注目する点は幾つもある。


 我ながら嫌な性格だな⋯⋯と一人思っていると、彼女はテキパキと準備に入っていた。


 フレッシュライムを櫛切りにして小皿に置き、棚から綺麗に磨き上げられたクリスタルガラスのタンブラーを取り出し、綺麗にカットされた大ぶりのキューブアイスを3個トングで掴むと手際よく互い違いにグラスに入れて行き、ミネラルウォーターを少し注ぐとバースプーンを使い鮮やかな手付きでステアして、直ぐに水を切った。


 次にカットライムを手に取ると、左手を覆うように添えるとゆっくりと絞り、そのままライムをグラスの底に落とし込む。


 次に冷凍庫から取り出しておいたキンキンに冷えたボンベイサファイアを手に取ると、そして鮮やかな手付きでジンのキャップを開けると、メジャーカップも使わずに目視で迷いなくジンを注ぐ。


 その後、すぐに冷蔵庫から二本の瓶を出すと順番にグラスに注いで行った


 「トニックウォーターと⋯⋯ソーダ?」


 彼が思わず呟くと、彼女は微笑みながら


 「はい、バーモンジー社のトニックウォーターとKUOSのソーダです。トニックウォーターだけよりソーダを少し入れた方がスッキリした味になりますからね♪」


 と答えてくれた。


 注ぎ終わると、そっとバースプーンをグラスに沈め、氷をグラスの底から軽く持ち上げると直ぐにグラスから抜抜き取った。


 そして抜き取ったバースプーンを元々差していたブランデーグラスの中に放り込んだ。


 「どうぞお待たせ致しました、ジントニックです♪」


 彼女は微笑みながらグラスをコースターの上に置くと彼の方に差し出した。


 「頂きます。」


 初めてのBarで初めての一杯、やはり緊張する⋯⋯


 ゆっくりとグラスを傾けて喉に流し込む。


 「美味い⋯⋯!」


 思わず言葉が漏れてしまった。


 ジンのほのかな香りと甘味にライムのさわやかな酸味とトニックウォーターとソーダの爽快さ、彼の予想を遥かに上回る一杯だった。


 「凄く美味しいです、びっくりしましたよ。」


 彼が素直に感想を述べると、彼女は


 「ありがとうございます。お客様が凄く真剣に作るのを見つめているから緊張してしまいましたよ。カクテルお好きなんですか?」


 と彼に向かって微笑みながら問い掛けた。


 美しい花が咲いたような彼女の笑顔を見つめながら、この店にもう少し居てもいいかな⋯⋯と思いながらグラスを口に運んだ。

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