Section2-7(エピローグ)
午後三時。
ようやく終わった一日の労働を振り返りながら、俺はまだ明るい外の景色を肴にロマネ・コンティの注がれたグラスを傾けた。
いつもなら、お気に入りの白いガウンを身に付け、タワーマンション上層階の窓から見える夕焼けをつまみにワインを飲んで楽しむところであるのだが、今日は早朝から忙しく働いたので先ほどから既に眠気が俺を襲っており、その余裕はない。
――に、してもだ。
眠い目を擦りながら、安堵の溜息をつく。
安堵とはつまり、和美さんのその後のことだった。
朝、いつものようにミリア電子工業にミクリルを運びつつ社内の様子を確かめてみると、そこかしこで「和美さんが無事に見つかった」という歓喜にも似た噂話が飛び交っていたのだ。
ほっとしたのと同時に、思わず力が入ってしまった腕。
それは、売り物のミクリル一本をぐしゃりと潰して無駄にしてしまったほどだった。
こういうとき、いつも思う。
我ら忍びの者は、常に『影』の存在なのだ。
自分が彼女を救出したとしても、関係者の歓喜の輪の中に入ることはできず、人知れず喜びを噛みしめるしか、ない。
今度は、俺の口から乾いた溜息が漏れた。
――影の存在といえば、だ。
俺は、スナックカトレアでの戦いで、どこからともなく飛んできたバラの花飾りのついた棒手裏剣のことを思い出した。
俺の脳裏には、それを放った人物の姿が
だが今は、それを無理矢理に結論付ける時期ではないだろう。いずれ、わかるはずだから。
――ねむっ!
いよいよ、瞼が重たくなってきた。
心地よい眠りを取りたいと寝室に行きかけた俺だったが、不意に思い出したくもない出来事をひとつ、思い出してしまう。
それは、ミクリル販売店係長、
たった、三分だ。
たった三分の遅刻で、まるで鬼の首を取ったかのような勢いで俺に遅刻の罪悪について説教を始めた安田係長。
始めは素直に聞いていたが、あまりのしつこさに、俺も切れてしまった。
もしもあそこで、我が上司、佐川班長が間に入ってくれなかったら、危うく売り物のミクリルを手裏剣の如く投げつけ、係長にミクリルクラッシュを浴びせてしまうところだったのだ。
今日は一日、なかなかいい日だったが、それが唯一の汚点だった。
そう思うと、急に胸がむかむかとむかついてくる。
気を紛らせようとグラスに残ったワインを喉に流し込んではみたが、それはかなりの
と、そのとき鳴った、インターホンのチャイム。
気分も悪いしそのまま無視しようかとも思った。が、何度か鳴らされたので仕方なく出ることにする。
出れば、相手は若い男だった。
マンションの共同エントランスからの通話だった。
「すみません……僕、
「ちばさん? はて……何か私に御用ですか?」
「ええ。私を弟子にして欲しいんです、あなたの」
「で、弟子ぃ!?」
思わず、インターフォンの通話スイッチにかけていた指が震えた。
「な、何を云っているのかわかりませんね。私は、弟子を取るようなそんな人間ではありませんよ、では」
インターホンの通話スイッチを切りかけた、その瞬間。
やや低いトーンで、相手の男は囁いたのである。
「あれ、いいんですか、ミクリル・ダンディさん? いや……
――いったい、こいつは何者?
俺は、共同玄関扉の鍵を開錠し、彼を部屋に招き入れることにした。
「いいだろう……まずは、入れ」
「ありがとうございます、師匠!」
「師匠はまだ早い。まずは、話し合おうか」
俺の眠気は、すっかり吹き飛んでいた。
― 乳酸飲料なダンディEpisode2「ミス・ミリア電子の蘭」 Fin ―
乳酸飲料なダンディ 鈴木りん @rin-suzuki
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