エピローグ 新しい協定

 校庭の隅に設置されたビオトープのさらに奥、我らが八ヶ瀬高等学校の校訓が刻まれた石碑が置かれている。平時はほとんど顧みられることもない空間だが、ときたま都合良くその近くに立ち寄る者がある。少なくとも酒匂りんごが牧村歩夢に聞いた限りでは、そういう具合らしい。

 用事があるのは石碑そのものでは無い。その裏にぽっかりと空いた空間だ。歩夢が仲人として立っている姿も、すっかり見慣れた。りんごは小山夏帆と並んで、儀式を進行した。

「私、小山夏帆は、地理の中間テストのため、酒匂りんごの勉強を手伝うことを誓います」

「私、酒匂りんごは今秋開催八ヶ瀬高校にて開催される文化祭において、小山夏帆の成功に尽力することを誓います」

 それから二人は、協定の証を交換した。りんごからは、モミジの模様が刻まれたメダルのキーホルダー。夏帆からはエリオットのマスコット。それが本当はりんごのものであることを知る者は限られている。協定が結ばれてしまうと、りんごはさっさとその場を離れようとした。

「一緒に帰らない気?」

 夏帆の口調は、すでにわかっていることを責めるようなものだった。

「そんなこと協定に入ってないだろ」

 すっと鼻でため息をついてから、夏帆は歩夢に水を向けた。

「歩夢」

「私は仲人だもん。不干渉がルール」

「そのために仲人になったわけ?」

 歩夢が応える前に、別の声が響いた。

「夏帆、ちょうどええとこにおったわ」

 由香が夏帆の背後から現れ、肩に腕をまわした。

「こないだの朗読会な、森智里が記事にするから確認しろって言うねん。悪いけど一緒に来てくれ」

 傍らには千鶴の姿もある。由香と千鶴は夏帆の両脇を抱えて強引に引っ張っていった。後ろ姿でひらひらと由香がピースするのが見えた。あっけにとられてその光景を見つめていたりんごは、深呼吸をしてから歩夢を見て、笑ってみせた。ちゃんと皮肉な笑いに見えているだろうか。

「夏帆じゃないけどさ、便利だよね。仲人の立場」

「このくらいはさせてよ。じゃなきゃあんたらと付き合ってらんないし」

 歩夢は石碑の裏の彫刻を指でなぞった。生徒手帳の表紙と同じ、姫百合の図案だ。こうしてみると、この石碑と周りの石や植え込みはまるで古代の遺跡のようにも見える。

「夏帆、地理得意なんだ。意外」

「本人に言ってやれよ」

「ヤダ」

 歩夢はずいぶんと図太くなった。そして、素直になった。りんごはかまわずに、のびをした。

「返さなくていい借り、なんて楽なんだ」

「いや、協定結んでるでしょ。破んないでよ」

 仲人としてもう何度も協定を結んでいるのに、歩夢は赤いリボンの栞紐を仕舞うのにずいぶん難儀している様子だった。

「それは人生の必要経費だから」

「達観してんなあ」

 歩夢の視線を追ってもう一度夏帆達を見る。いつの間にか夏帆は自分の足で立ち、二人に先立ってずんずんと歩いていた。

「ていうか、それは夏帆を受け入れてることにはなんないの?」

「ならない」

「うわ、バッサリ」

 りんごは心の中で舌を出し、生徒手帳を仕舞った。


 ++++++


 歩夢の見る先で、満の部屋のカーテンが開いた。Tシャツ姿の満が片耳に携帯電話を当てていた。満は困った顔になり、手を振った。歩夢は気味悪く感じながらも、手を振り返した。

「ばか、歩夢じゃないわよ」

 電話越しの声と、窓越しの唇の動きがシンクロした。

「ベランダにいたみさに見つかったのよ」

 思わず顔を歪めた歩夢の様子は、満に見えているだろうか。距離があるので確かなところはなんとも言えない。

「それで、新しい仲人の仕事ぶりはどう?」

「人気だよ。前の人より」

「ずいぶん熱心なリピーターも付いたみたいじゃない」

「まあね。簡単に協定破りをしそうでひやひやしてるけど」

 りんごと夏帆はもう何度も協定を結び、そのたびに同じ協定の証を交換している。それが新しい、あるいは暫定的な二人の関係なのだった。

「森智里さんとはどう?」

「ぼちぼち。あの人のことはいまだによく分からないけど、情報収集には苦労しないよ」

 歩夢はベランダの柵にもたれかかった。はねた前髪を少し冷たい風が撫でる。

「私はいいんだって。満こそどうしてるのさ。仲人辞めてから」

「仕事が減ったけど、それだけ。勉強が進んで仕方が無いわ」

 壁越しに物音がした。姉は盗み聞きを切り上げたらしい。

「適当なところで歩夢か森さんが後継者作ってね。同じ学年で一緒に卒業しちゃうと引き継ぎができないから」

「りょーかい」

 そうしていると、満は実の姉より『お姉さん』に感じられた。


 ++++++


 ノックの音にドアを開けると、案の定歩夢がいた。

「盗み聞きしてたの?」

「妹と親友のことに、少しくらい関心を持った方がいいと思ってね」

「そういうの、大きなお世話って言うんだよ」

 歩夢は美咲のみぞおちを軽く殴る。具体的に弱いところを殴るのをやめろ。

「満、仲人やめたんだろ。今は誰が仲人なわけ」

「守秘義務があるので答えられません」

 語るに落ちるとはこのことだ。要するに、ただの茶番なのだ。美咲はうすうす事実を知っているし、知っているということは歩夢に知られている。

「どうしても知りたかったら森智里に訊けば?」

 ドアを開けながら、歩夢は振り返った。思い出したようにペラペラとしゃべる。

「お姉さ、文化祭誰と回んの?りんごからも夏帆からも誘われてるんでしょ?」

「それは守秘義務違反じゃないの」

「友達とのおしゃべりに守秘義務なんかないよ」

 歩夢はずいぶん態度がでかくなった。妹はべえと舌を出して、自分の部屋に帰った。美咲はベッドに体を預けて、ショートメールのアプリを起動した。はじめに由香のメールを開く。

『バスケ部がな、文化祭で焼きそばやんねよ。サービスするから来たらどう?』

 話し言葉そのままの文面がどこか可笑しい。続いて千鶴のメールを開く。

『書道部では体験書道を行います。投票によって本年のベストが決定されるそうですよ』

 だったらなんだと言うんだ。して欲しいことがあるならちゃんと言えばいい。美咲は吐息を吐いた。次は夏帆からのメールだ。

 それは文面一つ無い写真だけのメールで、開くと森智里が写っていた。文化祭用のゲートのそばで、入学式よろしく片手でピースサインを作っている。これはもうなにひとつ分からない。それがどこか、夏帆らしくもある。最後にりんごからのメールを開く。

『多少なりかわいい後輩を想ってくれるのなら、囲碁部のカフェに投票してください』

 これは直接的過ぎる。というか、千鶴が書道部であることもりんごが囲碁部であることも、美咲ははじめて知った。

 美咲はため息をついてショートメールを閉じた。何気なくガラス戸の外を見ると、カーテンを閉めようとしていた満と目が合ったように思った。耳の横で電話のジェスチャーをすると、満が少し笑って手を振った。美咲は携帯電話を取りだして、連絡先を呼び出した。

 呼び出し音を聞きながら、美咲は壁のフックにぶら下がるカエルのマスコットを睨んだ。そんな目をするなよ、単なる気まぐれなんだから。


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