笑っておくれよ
最初は、足音や気配に気付いていないのかと思った。そのくらい気の抜けた様子で、満は椅子に背を預けていた。
「ちょうどよかった。森さんを見なかった?」
満の口はほとんどひとりでに動いているように見えて不気味だった。
「あの子、こっちとの連絡役なのに顔出さないのよ」
歩夢は無言でメモを差し出した。ついさっき森智里から預かった連絡事項が書き込まれている。満はそれをのぞき込みながら、髪をかきあげた。まとめられた髪束に声をかける。
「この場合、誰が協定破ったことになるの?」
「さあねえ。小山さんだってわざとこなかったわけじゃないし。酒匂さんの行動だって、状況を考えればしょうがないし」
満は再び椅子に体重を預けた。
「どうでも良いじゃない。協定破ったからって、仲人を継がせる気もないし」
「当人同士の名誉ってやつは?」
それを言うなよ、というように満は顎をかいた。
「それこそ、部外者にはどうしようもないことよ。仲人は干渉しないわ」
その言葉で、覚悟が決まった。歩夢は満と向き合う場所に移動した。
「満。私、仲人になる」
スピーカーのどれかから、ノイズのように朗読の声が聞こえる。それが千鶴の声だと気付くのに、少しかかった。
「私だって協定を破ったよ」
「どれだっけ?あなたたちが乱暴に協定結んだり結ばなかったりするから、分からなくなっちゃった」
歩夢は黙って自分の額を指さした。りんごと交換したヘアゴムが、前髪を束ねている。満は無為に手帳を開いたり閉じたりした。
「協定破りになるために、小山さんを切り捨てようとしたの?」
「夏帆には悪いことした。でもさ、どっちかを選べって言われて素直に従うほど、私素直じゃないんだわ」
「そうか。そのほうがみんなのためだもんね。小山さんを切り捨てて、それでハッピーエンド」
「嫌なら、満が助けたら?」
満はむっすりと機器の操作に集中しているようなポーズをした。
「守秘義務だの、不干渉の原則だのから解放してやるって言ってんだよ。いいかげん、自分でゲームに参加したら?」
雨音が一気に強くなったように感じて、つかの間そちらに気を取られた。よく聞いてみると、それは千鶴に送られた拍手だった。歩夢は舞台の様子を見た。
「夏帆、結局出ない気かな。先輩は拍手もらってるのに」
「飛び入りの皆が拍手もらってるのに自分だけもらえなかったら惨めじゃない」
「どうすればそこまでネガティブになれるんだ」
千鶴に続いて、由香が舞台に上がった。後ろにもう一つ人影がある。それはやはり夏帆ではない。
「げっ」
今日初めて聞いたような素の声を出して、満が小窓にかじりついた。
「森さんまで参加してる。何やってんのよ」
「うわ、本当だ」
想定外の事態にひとしきり騒いで、肩が触れたあたりで冷静になった。どちらからともなく、窓のそばを離れる。
「満、罰ゲームなんてないよ」
歩夢は、段差になっている部分を降りる満の手をとった。絆創膏のかさついた感触を指先で感じる。歩夢は満との距離を縮め、首のあたりにおでこを埋めた。
「満、ちょうだい」
++++++
夏帆は相変わらず客席に座ったままだった。
「夏帆ちゃんは参加しないの?」
「りんごちゃんが読んだってことはもう協定を破る気まんまんってことですよ。今更私が行ってもアンコールはもらえません」
「そういう協定になってたんだ」
アンコールね。夏帆がそこにこだわっている感覚は、正直なところ美咲にはわからない。
「夏帆ちゃんさ、協定の時期を指定した?」
「時期?」
「次回また協定を果たすって、そういうわけにはいかない?夏帆ちゃんが言ったんじゃないか。いいことと悪いことって、現時点で全部精算されてるわけないんだよ」
「誤魔化しです。本当はずっと損してばかりなのに、そういう言葉で誤魔化そうっていうんです」
夏帆の言葉は、だんだんと自信なさげに、弱いものになった。
「違いますね、私は本当は借金だらけなんだ。りんごちゃんはきっと、私がちゃんと返せることなんて、もう期待してないんだ」
「だからさ、私は協定なんて信じてないよ。全部ギブアンドテイクだって信じて、人付き合いなんかできっこない」
「感情なんて、何もないところから無限に湧いてくるって言ったのは、先輩ですよ」
暗がりをりんごが歩いてくる。その表情は暗くてうかがえない。夏帆はあっさり席を立ち、ホールを出ようとした。
「りんごちゃんが帰ってくるよ。話していかないの?」
「私がいると、りんごちゃん嫌でしょ?これ以上嫌われたくないんです。それに」
夏帆は小首をかしげて美咲を見下ろすような姿勢になった。
「先輩、結構落込んでますよ?」
ふわふわと夏帆の髪が薄闇に溶ける。
「私、自分が矛盾した人間だってのは知ってます。知ってるぶん、先輩より偉いです」
美咲は頷いたが、暗かったのでそれも夏帆には見えなかったかもしれない。
++++++
りんごは夏帆が退出したのに気づいたはずだが、それについては言及しなかった。美咲の方でもわざわざそれに触れようとは思わなかった。
「結局私って何だったんだろうな」
「それ、こっちの台詞じゃないですか」
「こっちの台詞だよ。りんごちゃんと夏帆ちゃんの間で欲しいとか要らないって言われて、おもちゃにされてさ」
りんごは目を閉じて頭の横でまとめた髪をすいた。説教でも始めそうな空気を出しておきながら、目を開くとにやにやと笑う目になっていた。
「思うんですけど、それって、先輩の方が私を求めてたんじゃないですか?」
照明が一段暗くなり、空気の色を覆い隠した。
「『アイシャ』を読んだら好きになるかもって言ったの、結構本気だったんだよ」
「嘘つき呼ばわりは言い過ぎたと思います。それはそれでかまいませんよ。私の知らないとこでやってもらえれば」
適当に絵本を手に取って開いてみたが、暗くて中身はろくに見えなかった。
「はじめにりんごちゃんたちがカエルの話をしてるのを聞いたときさ、試しに読んでみたんだよ。昔好きだった絵本を」
どこからともなく拍手の音が聞こえる。即興で組まれたプログラムにアンコールも何もあるわけがなく、それはただ終わったものに送られる選別でしかない。
「全然駄目。単純に大人になったからなのかもしれないけど、自分が自分じゃなくなったみたいで不気味すぎて、すぐ千鶴に返した」
壇上には再び千鶴が登っていた。その手にはもう読み上げるべきものはない。
「別に、誰もそんなこと責めたりしませんよ。好きな気持ちも嫌いな気持ちも、誰かのものじゃない」
++++++
音響操作室には、『蛍の光』が流れていた。閉会の口上を述べる間流すように、千鶴が指定したものだ。
「良いタイミングで止めないといけないから、略式で済ますわよ」
「いいよ。形式ばったの嫌い」
「歩夢はそうよね」
満がくすりと笑い、歩夢はくすぐったい気持ちになった。満はとっくにもっと大人になったと思っていたのに、急に子供に戻ってしまったようだ。それから満は、咳払いをした。
「仲人、三原満は、姫百合協定の規定にのっとり、牧村歩夢を仲人として認定いたします。また、ただいまを持って、私自身の仲人としての任を解きます」
明り取りがひときわ激しく光り、すぐ後に大きな音がした。嵐と落雷の中で協定を結ぶなんて、これじゃまるで悪魔の契約だ。
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