果たされた協定、破られた協定

 窓際をうろつくのは、今日何度目のことだろうか。台風の勢いは一向に弱まらない。皆がたむろしているところに戻った歩夢は、りんごに声をかけた。

「夏帆、やっぱり来られなさそう?」

「私は夏帆の保護者じゃない」

「そりゃそうだけどさ」

 夏帆の方でもさすがに思うところがあるのか、ショートメールを通じた連絡は主に歩夢に送られている。曰く、いつも使っている道が冠水して大幅な遠回りをしているらしい。最後の連絡は三十分前だが、一向に到着する気配はない。職員と話していた美咲が戻って来た。

「神田の連中がさ、非公式でもいいからやりたいって言い出して、野良で何組か朗読するんだって。混ぜてもらいなよ」

 美咲はりんごを一瞥して、付け足した。

「『エリオット』をやるはずだったグループ、今日来ないってさ」


 ++++++


 折を見てりんごを隅に引っ張っていき、歩夢は絵本を突きつけた。

「これは?」

「昨日、森智里に頼んで探してもらった」

 りんごは困惑しながらその表紙を見て、歩夢の意図を察した顔になった。それは『アイシャのお城』の絵本だ。りんごは何かを言おうとして、一度詰まって改めてから口を開いた。

「私、夏帆と協定を結んだんだ。あいつが今日の朗読を逃げない代わりに、あいつにアンコールするって」

 なるほど、そういう協定になっていたのか。必死になってこれまで見聞きした情報を集めれば、多少は何か起きたのかを整理することができるのかもしれない。しかし、今の歩夢にとっては、細かい事実よりもりんごの感情の方が重要な関心事だった。

「今更。当人同士の名誉だっけ?もう壊れてるじゃん、あんたら」

 頭の横で結んだりんごの髪が揺れる。髪の束は、心なしかいつもより元気がなく見える。

「よくも私が部外者みたいなこと言ってくれたよね。確かに私はあんたらの協定のことなんて知ったこっちゃない。少ないけどお客さんがいるんだから、役割を果たしなよ」


 ++++++


 牧村美咲が講堂に飛び込んできた夏帆を見つけたのは、りんごの朗読が佳境にさしかかった頃だった。夏帆はどういう意図なのか、雨合羽の下に冬物の上着を何枚も着込んでいた。りんごが朗読をすることは、歩夢を通してショートメールで連絡してある。

 呆けたような顔をしていた夏帆は美咲に曖昧に顔を向けて、小声で言った。

「『アイシャ』じゃないんだ」

「……うん。私もそう思ってたんだけど。そうじゃなかったみたい」

 りんごが朗読しているのは、ほかでもない、『カエルのエリオット』の絵本だった。

 りんごは、『アイシャ』を選びたかった過去を、今でも重大な秘密にしているのだと思っていた。多少無理をしてでも『アイシャ』を朗読すれば、それで何かが変わるのではないかと、美咲は思っていたのだ。

「なんだ。夏帆ちゃん、知ってたんだね」

「知ってたのに、って思いますか?」

 美咲はぎこちなく頷いた。

「りんごちゃん、言ってたよ。本当はどっちも好きなんだって。でも、エリオットのことを好きって言うのが、自分を裏切るみたいで怖かったって。言ってる意味分かる?」

「全然分かんないです」

 夏帆は空いた客席の一つに腰を下ろし、『カミサマ』を取り出した。すこし区切りがついた気持ちで突っ立っていると、由香と千鶴が無遠慮に扉を開けて入ってきた。本当の朗読会なら無用な出入りは遠慮するところだが、そのあたりは野良なので無視されるようだ。

「そういうわけであたしらも朗読すんで」

「どういうわけで?」

 二人は小脇にいくつかの絵本を抱えている。見る間にポンポンと夏帆の座っている席の隣に絵本を広げ、無邪気に頭を突き合せ始めた。

「あんたはどうする?」

「私は例の金魚鉢の奴を読みます」

 由香は千鶴と向き合って神妙な顔になった。

「正気か?」

「私は常に正気です」

 その瞳の色を吟味し、由香は頷いた。

「分かった。あたしはもう止めへん」

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 夏帆が割り込んだ。

「私は一体何を読めば?」

「好きなものを選びなよ」

 やや投げやりな気分で美咲は言った。

「おーし、そしたら順番を決めなあかんな」

 由香は無駄に腕を回し、すでにジャンケンをする姿勢に入っていた。


 ++++++


 音響操作室にこもった満は、高い位置にある小窓から響く雨音を聞いていた。雨粒は決して満に届くことはない。

 こんな土砂降りの中に寝転んだら、どれほど愉快だろうかと夢想する。一方で、そんなことを実際やったら後が大変だろうなとさめた目をする自分を自覚する。

 仕方がないじゃないか。後始末が大変なのは、自分が一番わかっているのだ。

「『特別なことじゃない』だってさ」

 なぜあんなことを言ったのだろう。言葉にするとそれは子供っぽい『気取り』のように思えて、満は困惑した。絆創膏を巻いた指の傷がうずく。満は痛みを親指で強引に押しつぶした。

『ばかな人間には、幸せになる資格はないの?』と聞いたのは夏帆だ。満は『ないよ』と心の中で答えた。

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