亀裂 Ⅱ

橋本が幻驢芭邸に戻った後、酒熾は報告の為、暁光の室を訪れた。既にそこには暁光の弟、洸清こうぜいと少し顔色の良くない青桐の姿があり、酒熾と視線を合わせた青桐は申し訳なさそうに会釈した。


「青桐殿、元より其方は被害者、そう気に病まれるな。橋本殿との会議も幸先良い」


「……流石、酒熾殿でございますな」


安堵の表情を浮かべる青桐に笑み、酒熾は上座の暁光に向き直り一礼して腰を下ろし、深く頭を下げる。暁光は寛いだ体勢を正して、酒熾に顔を上げるよう声を掛けた。


「話は既に聞いておる。酒熾、幻驢芭殿との関係修復、誠に大儀であった。本来ならば私の務めであるところ、其方の働きに感謝致す」


「勿体なきお言葉。しかし上様、未だ解決には至らず、再び雲行きの淀まぬうちに逃げて参り、面目次第もございません」


「それで良い、賢明な判断よ。其方のお陰で、どちらが悪い悪くないという無益な児戯じぎ問答が長引かずに済んだ」


「これでようやっと、真の問題に着手できまするな。兄上も、これで少しはお休みになれましょう。毎日毎日、御門に御説明仕り、寺院に民衆を鎮めさせておる礼に参り、宵殿と会談を重ね……私はいつか兄上が過労で臥せってしまわれぬかと心配でなりませんでした」


深い溜息を吐く洸清に暁光は苦笑して、お前は心配性だからのう、と呟いた。まるで疲れを見せぬ兄に、洸清は兄上が無茶ばかりなさるからだと不満を零す。


「過ぎたことだ、洸清。兎角、その童の父上と母上を殺したという雑兵が気がかりだな」


「は、会議でもその者の捜索が先決であろうという結論に相成りましてございます」


「では、疾く探らせよう。シジミ」


暁光が縁側に声を掛けると、瞬きの間に一人の少女が庭に跪いていた。まだ幼い顔立ちに似合わぬ、小柄ながら逞しい肢体したいを砂利に屈めている。華やかさを損なわぬ武装はいかにも少女らしい。手足の装甲と帷子、その出で立ちから彼女が件の忍びなのだと伺える。


「お話は伺っておりました。どうぞ、このシジミにお任せあれ」


「頼りにしている」


暁光の優しげな声に一瞬身を固め、シジミと呼ばれた忍びはまた風に吹かれる砂煙のように姿を消した。足跡一つ残っていない庭を暫し眺めた後、暁光は目を伏せて笑った。


「もうすっかり一人前の忍びよの。五年前、門の前で行き倒れていた抜けにんを憶えておるか?」


「まさか、今のくノ一があの時の?」


暁光は目を丸くする青桐に頷き、驚いたろう、とどこか得意気である。


「シジミは能ある幼き忍びであったが、何せ骨と皮に痩せて使い物にならなかった。それが今はどうだ、米でも肉でも野菜でも、与えれば与えるだけ食って、それを全て余すことなく筋骨にしてしもうたのだ。起きておる間は専ら鍛錬に勤しんでおった。兄とでも思えと言うた虎牙こうがとも、単純な腕力では対等に渡り合う程よ」


「何と……それは素晴らしい。私も見習わねばなりますまいな」


「はて、そう言えば虎牙の姿を見掛けませぬが……」


彼奴は何処へ? と問うた酒熾の声に応えたのは、洸清であった。


「大方、シジミの後でも追ったのだろう。あの二人は顔を合わせればいさかい、いがみ合ってばかりだが、同じ抜け忍でもあるし、シジミは虎牙の妹のようなもの。気にかけてはおるらしい」


「確かに、危険な仕事ではあるが、シジミの力量にそぐわぬ頼みはせん。虎牙の心配性は其方に似たな、洸清」


「……シジミの仕事熱心も、兄上によく似ておりますな」


そう皮肉を返してみせる洸清だが、心の底から心配しているといった面持ちである。暁光とてそれは承知の上だが、だからといって弟の前でしな垂れた姿を見せる訳には行かなかった。この家の者誰一人、不安にさせてはならぬのだ。


――私には宵殿のみが、弱った姿を晒せる御方だ。宵殿は私に安らぎを与えて下さる。しかしなれば……。


漸く戻った虎牙を面々が揶揄からかう姿を微笑ましく眺めながら、暁光は誰にも気づかれぬほどの溜息を吐いた。


――それでは一体、宵殿の安らぎは何処にあるというのだ。年下の私では力不足だろうか、御手のきずは……。


「兄上?」


「……あぁ、いや何……今宵は冷えるから、共寝ともねの相手を迷うておるのだ」


憂う瞳を色ごとと誤魔化し、暁光は笑う。洸清は納得したようで、「兄上は罪作りな御方だ」と呆れ気味に呟いた。

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【創作戦国】花浮舟 ― 祷 ― 阿国 たつみ @okunikuni0

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