その息が止まるまで

迷想

第1話

その息が止まるまで




真夜中の暗い部屋の中で、Aの肩がゆっくりと僅かに上下している。生きている、生命の鼓動。規則正しい穏やかな優しいリズムだ。

僕はしばらくそれを眺めてから体を起こした。シワになったシャツに腕を通し、のそのそとキッチンへ向かい、蛇口をひねりグラスに水を注いだ。流動形の、とめどなく流れる水が窓へ射す微かな光を受けてキラキラと光った。


Aは単純に美しい。初めて会ったときに僕は彼を女性だと思った。それを朴訥と口に出した僕にAは慣れっこだと美しい顔を僅かに歪めながら言い放った。言葉とは裏腹に僕はAの恨みを買ったらしかった。決して仲が良かったわけでもなく、仲間内でも特別親密というわけでもなかった。それが何故こんな関係になったのか。僕は見慣れた小さな窓を見つめながら、朧げな心で独り言ち、口に含んだ水を吞み下す。


Aとは通っている大学で出会った。整った容姿で颯爽とした雰囲気を身に纏ったAはよく目立った。(僕はAを女だと思っていたわけであるが)

僕はというと背ばかりが高く、取り立てて形容する価値もない地味な男だ。構内で時折見かけるAの姿に僕は目を引かれた。


友人を介してAを紹介され、僕たちは知り合いになった。初対面で自分のことを女性呼ばわりしてきた奴だから、Aにとっては僕の第一印象は最悪だったことだろう。一方的に避けられていた気もする。僕はといえば、見た目の割にはっきりと物を言うAの性格が眩いもののように感じられた。自分とは違う世界にいるやつだな、とも。


ある雨の日、大学の中庭で泥塗れのAの姿を見つけた。驚いて、何をしているのか、と声をかけてみると、猫を埋めている、とAは答えた。

ここに通りかかると猫が死んでいた。誰にも気付かれずにいて憐れだったから持っていた傘で無理矢理穴を掘った。駄目だな、傘でなんか。Aはいままでに見せたことのない悲痛な表情でそう言った。無慈悲に優しく降る雨の中、雨粒は絶え間なくAの顔にかかり彼が泣いているのかどうか僕にはわからなかった。Aは続ける。バカなことをした。そんなことはない、と僕は言ったがそれ以上言葉が続かず、其処から動こうとしないAを待たせて構内のコンビニでタオルと新しい傘を買い、Aに手渡した。その日僕たちは初めて一緒に下校した。帰り道、僕たちは何も話さなかった。


それからAは僕と行動する時間が増えた。Aはすっかり僕に気を許し、僕に言葉をかけ、僕の名前を呼び、以前はついぞ見せなかった笑顔を屈託なく僕に向けるようになった。僕たちは食卓を共にし、時には互いの家で安酒を酌み交わすこともあった。その都度繰り返す、些細な心地良いAとの対話。気になっている女子の話からお気に入りのスポーツ選手の話、イチオシのミュージシャン。どんなジョークに笑い、どんな映画で泣いたのか。幼い頃の思い出、将来の夢。夜通し酒を飲み、お互いが酔い潰れて僕の部屋でそのまま眠る。僕たちの仲はそれだけだった。それ以上でもそれ以下でもなかった。

一度だけ両親のことを聞いたことがある。Aはしばし言葉に詰まり…そしてゆっくりと、とてもゆっくりと目を伏せて、僕から目を逸らした。それは僕には永遠のように長く感じられた。まずい、と僕はそのとき初めて気付いた。

どんなに長く時間を共有しても、僕はAのことを本当はまだ何も知らなかった。


寝室へ戻り、眠っているAを見下ろしてみる。警戒心の欠片もなく眠りこけているAはいつもの張り詰めた雰囲気もなく、まるで子供のような寝顔をしている。


神様。Aが僕の気持ちに気付きませんように。僕たちはこれからも友達でいられますように。Aのこの先の未来が明るいものでありますように。もうこれ以上Aがつらい目に遭うことがありませんように。そのためなら、僕が如何なる責め苦を受けて地の底に落ちても、一生暗闇の中を歩くことになっても構わない。Aの睫毛に落ちた月光が死んだように白い頰に濃く長い影を落としている。あの日の雨のように優しく規則正しく続く寝息を聞きながら、僕は少し泣いた。

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