峠の茶屋

高城 拓

峠の茶屋

 レスタ辺境領の南北を別つレンサル峠も春を迎え、柔らかな緑に包まれつつあった。

 もちろん日陰にはまだまだ融けきれない雪が残っているが、それでも春は春。

 空は淡い青空が広がり、うららかな日差しが峠の茶屋の周りに降り注ぐ。

 多種多様な植生の森に包まれた、茶屋の周りは山菜が鈴生りだ。


 パピーテールと呼ばれる柔芽がくるりと巻いた̪̪シダの幼生。

 さっぱりした味わいで、アクを抜いてからブラウンソースに絡めるとステーキの付け合わせにとても良い。


 キティパウンドと呼ばれるまんまるくふわふわしたキノコ。

 はちみつや水あめを薄めたものをかけて蒸すと、パウンドケーキそっくりだ。


 ヒトカゲの卵に寄生する、ブラウンエッグと呼ばれる冬虫夏草の一種。

 丸ごと茹でてから殻をむき、ふすまの中で一晩寝かしてからもう一度塩で茹でると、ソーセージのような食感と味わいが楽しめる。


 ホシカゲやヒサシソウの柔芽は塩で揉んで湯がくとコリコリしておいしい。

 芽を出したばかりのどんぐりの実は、芽を切って蒸してからしばらく置くと甘みが増す。

 イッショウの葉の芽はすがすがしい酸味があるし、夏に実る小さな果実は痺れるような独特の風味がある。


 周囲の山林には獲物も多く、ヒトカゲやヨツメジカ、キバブタにウララカラゲなどは少し腕に覚えがあればいくらでも獲れる。

 

 茶屋の周りはこのような有様だったから、その茶屋はむしろ領主屋敷の食堂の風情があった。

 事実、この茶屋の食事を目当てに峠を登る者どもは引きも切らない。

 レスタ辺境伯アレクサンドルもその一人で、彼は少数の供廻りとともに丸々と肥えた体に嬉々として鞭打ち、その日も茶屋にやってきたのであった。



 辺境伯たちは、入口の前に敷かれた豚毛の敷物でよく靴底を拭う。

 辺境伯は金色の口ひげをしごき、自ら茶屋の入り口を開ける。


「お邪魔しますよ」

「閣下。毎度ありがとうございます」


 入り口をくぐると、給仕をしていた茶屋の店主が地下の者として深々と礼をした。その立ち居振る舞いは、とても地下の者とは思えない。

 柔らかい笑みをたたえる店主は歳のころ五十を過ぎていたが、腰はぴんと伸び、肉体にはいっかな衰えも見えなかった。ただ顔のしわと白銀の頭髪が、彼が年寄りであることを教えるのみである。

 糊の利いたトリゲンティ生地の上下は、城下の仕立て屋ブレザンの仕立て。顔が写りこむほど磨きこまれた黒革の靴は辺境伯御用達のアーロン兄弟社製。

 いずれもそれぞれが騎士見習いの棒給半年分ほどもする高級品である。

 

 店の面構えは案外広い。

 間口は幅が優に一ひろ半、食堂の広さは幅四嘉四方。

 分厚く頑丈なオーク材による板敷の床は清潔に保たれ、みしりともしない。

 漆喰の塗りこめられた土壁はその実、内部に石積みと藁交じりの土の層があり、暑気や寒気から内部を守っている。

 全体的に飾り気がないため見過ごされがちだが、テーブルその他も重厚な調度品で、やはり「峠の茶屋」には似つかわしくない。


 では客はどうかというと、こればかりはまさに、という風ではあった。

 とはいえ近代化著しい昨今である。

 手づかみで食事をするものは居ないし、女給仕に手を伸ばす慮外者も居はしない。商人も馬子も職人も、最近ではめっきりおとなしくなったもの。

 いわゆる「一流どころ」よりは騒がしい程度、というところだ。

 辺境伯はいつものように常連客にいちいち気さくな挨拶をしながら、指定席となっている二階の奥座敷に一人で向かった。

 わずかな供廻りは階段前の卓に陣取る。これもいつものことだった。



「本日はどのように」

「いつも通り、お任せしますよ」

「かしこまりました」


 店主の言に辺境伯は丁寧に返答し、店主は慇懃な態度でそれを受け止めた。

 店主がポンポンと手を叩くと、白と黒のお仕着せを着た給仕が室内に手押し車を押して入ってきた。

 手押し車の上には小鉢と良く冷やされた清水の入った水差し。

 初めて見る黒髪短髪の給仕は女というよりもまだ娘で、柔らかさとしなやかさを併せ持った、ほっそりとした体つきだった。

 もう幾年かするとはっきりとした美人になるのだろうが、ただ目つきが鋭い。いや、悪いと言っても差し支えない。


「お疲れでございましょう。まずはこちらを」


 と、辺境伯の前に置かれた小鉢。

 薄く透き通るような青みがかった白磁は、西方はるか五万リーグ先のガイシンからの輸入品だ。

 小鉢の中にはよく冷やされた煮青豆が小匙二杯ほど。その表面に薄っすらと透明な餡がかかっている。その上にミントの葉。

 

「青豆の葛あんかけにて」


 なんともそのままの名前だが、それは本質ではない。

 どれと一匙すくい、口の中に迎え入れると、なんとも言えない、控えめだがしっかりとした甘みが口中に広がる。

 青豆は絶妙な茹で加減で、舌の上でつるつると転ばせても、奥歯で噛み砕いても、その食感が面映い。

 ミントの葉による爽快感も、料理全体の冷ややかさもまた素晴らしい。

 辺境伯は自分の足で歩いたり走ったりすることを嫌っていたが、馬や二輪車に乗ることはむしろ大変好んでいた。

 この日も愛馬ベテルギウスの背に揺られ、麓の公邸から駆け上ってきたものだから、ひんやりとした小鉢は実にありがたかった。



 茶屋の昼食であるゆえ、格式張った料理の順番などはない。

 その日の料理もそのとおりで、主菜と副菜の乗った大きな楕円形の皿に、汁物と香の物、麺麭パンの入った籠が一度にやってきた。

 一度部屋を辞した娘が再度手押し車に乗せて持ってきたのだ。

 おまかせとはいうが、要するに日替わり定食である。

 しかし、


「ほう、これは」


 と辺境伯は感嘆の声を上げた。

 主菜はキバブタの三枚肉の厚切りを、玉ねぎと生姜と醬で甘辛く煮付けたもの。

 副菜は湯がいたホシカゲの芽、ホオカムリの葉、パピーテールを粗く刻んでアーモンドの甘酢垂れで和えたもの。

 汁物は冬越し南瓜のポタージュ、香の物はブラウンエッグと紫大根の酢漬け。

 麺麭にはフレッシュチーズとバターが小鉢に一つずつ付いており、茶屋の昼飯にしては全く豪勢なものである。


「キバブタは脂が落ちておりますが、そのぶん肉の味がしっかりしております。ホオカムリは春もの、若い味わいですがそれもまた趣かと」

「ポタージュの香りもとても良いですね。これは若鳥のブイヨンですか。ブラウンエッグは程よい漬かり具合のようで。いやぁ、これはうれしいですな」


 あくまで控えめに料理の説明をする店主に、顔をほころばせた辺境伯。

 手を合わせて「いただきます」と唱えてから、まるで子供のように、夢中で昼飯を掻きこみはじめた。


 サクサクと噛み切れるのに、噛みしめるとじゅわりと旨味の滲み出るキバブタ。

 コリコリとするホシカゲの芽と、ぎゅむぎゅむとしたパピーテールの歯ごたえ。

 ブイヨンの塩気と南瓜の甘みの中に、ひっそりと隠されたショウガの刺激。

 発酵しチーズのように滑らかな舌触りとなったブラウンエッグと、パリパリとした紫大根の歯ざわりの対比。

 そういった諸々を楽しんだ辺境伯は、いつもどおり満足そうな笑みを見せた。

 だが。


「なにかお気に召しませんでしたか」


 口を開いたのは店主ではなく、黒髪短髪の娘給仕だった。

 辺境伯は片眉を上げた。店主は何も言わない。

 一昔前なら給仕が辺境伯に直に口を聞くなどありえないことだが、そこはそれ、時代というものである。


 口元を手拭いで拭い、口ひげを整えた辺境伯は、背筋を伸ばして娘給仕に向き直った。


「いえ、いつもとはわずかに味付けが違うなと」


 平板に発音された辺境伯の言葉に、娘は目を細めた。

 殺気を走らせたとも言える。

 しかし辺境伯は気にしない。

 ふと口元と目元を緩ませ、柔らかな発音に切り替える。

 そうすると、彼は本当はひどく若いことが伺いしれた。


「もう少し丁寧に言いましょう。包丁仕事も火の通し方も申し分ありません。実に丁寧で、見事な仕事でした。ただ」

「ただ、なんでしょう」


 娘は挑みかかるように尋ねる。

 ひどく若い辺境伯は臆せず応えた。

 凛とした娘の声が気持ちよく、非礼を気にしなかっただけかもしれない。


「味付けが丁寧すぎました。臆病、ではないですね。繊細で複雑にすぎる、といっても良いでしょうか。普段は峠の茶屋らしく、今少し豪胆で骨太な味わいです。みな汗をかいてこの店に入りますからね」


 汗をかいた者は塩気が恋しくなる。普段はそういう味付けなのに、どうして。

 辺境伯はそう言っていた。


「気に入る、いらないで言えば、私は大いに気に入りました。もし毎日これが食べられるのならば、ひどく幸せに違いありません。だからこそです。なぜこんなに丁寧な仕事をしてくれたのだろう、と。あー、こちらの店主は、そこまで私を甘やかしてはくれませんからね」


 辺境伯がそう言うと店主は声を漏らさず苦笑し、優雅に一礼してみせた。

 娘の頬には朱が刺したようだった。



 娘が食卓を片付け、一礼して退出する。

 店主が冷水を辺境伯のグラスに注ぎ、辺境伯はありがたくそれで喉を潤した。


「あの子は本当は厨房の子でしょう」

「よう見られました、若」

「あなたも今さら爺と呼ばれたくないでしょう。若はやめてください」


 辺境伯はひどく複雑な笑みを見せた。

 私はあなた方を雇い続ける力も失った没落貴族だ、とは続けない。

 以前にそう言ったところ、ひどく叱られた覚えがある。

 店主は一礼し、非礼を詫びた。


「えーと。ひょっとして今日のこれって、お見合いだったりしたんでしょうか?」

「元はコンチネンタル伯のご係累で。料理に興味があるそうでしたので、ウチで預かって面倒を見ておりました」

「どこもかしこも皆同じ、か」


 民主化著しいこの国では、近年貴族の没落が相次いでいる。

 産業地域ではそうでもないが、農業地域ではことに厳しい。

 レスタ辺境伯が僅かな供廻りしか維持できないのも、そのせいだ。

 それでも彼の父が目端の利く人物で、相当数の有価証券を没後に遺していてくれたから、彼は未だに辺境伯を名乗っていられる。


 しばらく考え込んだ辺境伯はふと顔を上げると、次は我が家で、あの子も一緒に、と店主に言った。

 年のいった店主はにっこりと笑い、ではそのように、と応えた。


 レスタ辺境伯が結婚したのはその二年後のこと。

 辺境伯二七歳、花嫁が一八歳のときのことである。

 辺境伯家はその後、巨大飲食店チェーンを築き、この国の名物とさえなったが、それはまた別の話である。

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