第35話 エピローグ

 季節を先取りしたように咲き誇っていた桜も見事に散ってしまい、あらゆる場所で鮮やかな新芽を纏った木々が人々の生活にちょっとした彩りを添えている。

 新居での荷物の片付けも一通り終え、パン屋の仕事も順調に続けていけていた。休日だったその日、なるみは一人で散歩がてらに自宅の近くにある公園まで来ていて、木製のペンチに座り、遊具で遊ぶ子供たちをぼんやりと見ている。

 吉田先生と連絡を絶ってから数週間。寂しさも恋しさも感じていないと言えば嘘になるが、自分で下した決断だから、今さら弱音は吐けない。

 思えば、この一年足らずで、なるみの人生は劇的に変わった。目標や夢さえなく、過ぎていく日々を淡々とこなしていたあの頃の自分は、もういない。これからはきっと、子どもを育て守っていくという責任を果たしていく事が自分の生きる盾になるのだろうと思っている。

 名も知れない複数の親子の様子を見ていたなるみの背後から「見つけた。なんだよ。こんな所にいたのか」という男性の高い声が聞こえ、思わず振り返ってみると江無田が立っていた。

————どうして、江無田君がここにいるの?

 状況を飲み込めないなるみに対して、彼は弾んだ呼吸を整えてながら「この前の電話で、川島が今日、休みって言っていたから、サプライズで部屋まで行ったけどいなかったから、何かあったんじゃないかと思って探していたんだ」と言った。

「電話してくれれば良かったのに…………」

「気が動転して、思いつかなかった」

「もう」

  江無田は滑り込むように、なるみの右隣に座って、肩を上下に動かしながら天を仰いでいる。

「どうして、サプライズで会いに来ようとしたの?」

「川島にプロポーズしようと思って」

————えっ?

 なるみが彼を呆然と見ていると、江無田は真剣な表情で「川島のお腹にいる子どもは自分の子どもとして育てる。だから、俺と結婚してください」と言った。なるみは微動もせず、彼を見つめている。

「ダメか?」

江無田が顔を覗き込む。

「いきなり、そんな事を言われても」

「だよな」

 なるみが「それじゃ、付き合ってみる?」と右人差し指を立てた。「お試しに」

「いいのか?」

「うん」

 江無田が拳にした両手を高く上げて喜びを表している姿をなるみは温かい気持ちで見ている。

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青春の人 彩希 文香(Ayaka Saiki.7) @Saiki_Ayaka

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