第34話 第十一章 3
吉田先生が、なるみの部屋を訪れたのは、月も終盤に差し掛かろうとしていた頃だった。
————きっと、先生に会うのは今日で最後だろう。
その日、なるみは気持ちを胸に秘めたまま、平然さを装おう事に決めていた。
急用を要さない荷物を詰め込んだ段ボールを押し入れに隠し、一見では何も変化が分からない部屋で、彼は無防備の姿をなるみに見せる。自分の家に帰れば、食卓に置かれる料理を食べなきゃならない彼に対して、なるみはちょっとしたつまみを作った。吉田先生は、それを口にしながらも彼女に話をかけてくる。学校の事、生徒や同僚たちの事、好きな本の事など、彼の言葉で彼の事を知れるのは、なるみにとって何よりも嬉しく思える時間だ。
————このまま、時間が止まってくれたらいいのに。
硬く結んだはずの決意が、不意に解けてしまいそうになるのをなるみは必死になって持ちこたえる。
吉田先生が「そうだ。今年は、たぶん転勤はなさそうだ。校長先生から内定の話も聞いていないしね」と言って、微笑む。「なるみともこれまで通りのペースで会えそうだから、俺はホッとしているんだ」
————先生、そんな嬉しくなるような言葉は言わないで。
なるみは笑みを浮かべて「そうだったんですね」と答えた。
時間を確認して、吉田先生が「それじゃ、そろそろ帰るよ」と言いながら立ち上がった。彼を玄関まで見送ってあげようと、なるみはその背中についていく。靴を履き終えた吉田先生がなるみの方に振り返る。
「また、来月に来るよ」
吉田先生が優しく言う。
「分かりました」
なるみが微笑む。
吉田先生が右手を胸の前まで上げ「おやすみ」と言い終えると、身体の向きを半回転させ、やがて、出て行った。なるみには彼のその一連の動きがスローモーションのように見え、思わず、息が詰まりそうになった。
吉田先生の足音が遠ざかっていくのを耳で聞き、それが完全に消えた瞬間、全身の力が抜け、なるみはその場に座り込むと涙が自然にこぼれ始める。
————どうして、こんな事になったのだろう?
————出来る事なら、吉田先生とずっと過ごしていきたかったのに。
なるみは声を出しながら泣き続けた。
翌日から気持ちを新たにした。なるみは体調を崩す事もなく、スーパーマーケットでの仕事も最終日まで勤める事が出来た。引っ越しの準備も終えた。江無田に頼るのも彼に申し訳なく、結局、専門の運送会社に頼み、転居を終えた。
なるみはスマートフォンを取り出すと吉田先生の連絡先を消去した。彼と繋がっていては自分の甘えになると思ったからだ。なるみがいなくなった事実を知った時、彼はどういう行動を取るのだろう?
————吉田先生、さようなら。
なるみは蒼く晴れ渡った春の空を見上げた
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