第33話 第十一章 2

 十年以上も努めていたスーパーマーケットを年度が替わる時期を見て、退社する事にした。お腹の赤ちゃんが育っていくにつれ、体形が変わっていく事は仕方がない。しかし、妊婦である自分を見て、同僚たちや常連の客からあらぬ噂や陰口を言われ、自分がその標的になるのが苦痛になりそうで、出来る事ならば避けたかったからだ。

 部長の和田に退職届を出した時、彼から「また、急に。どうしたの?」と聞かれ、

なるみは「一身上の都合により、です」と繰り返した。彼は油まぎれの顔をさらに輝かせながら「まさか、結婚するのか?」や「金づるでも出来たのか?」などと相変わらずの嫌味を言ってくる。

————こんな事に耐えるもの、後ちょっとだ。

そう思うと、和田の言う言葉を聞き流す事が出来た。

 なるみの退社の件は、翌日には同僚たちにも知られる事になった。朝礼の時、和田から報告された際の同僚たちの驚いた顔が忘れられない。なるみを直視してくる人、チラッと見てくる人、表情に感情を出さないようにしている人など、人それぞれの個性が見て取れた。なるみは同僚たちの前に出て行き「長い間、お世話になりました。後、数週間ですが、よろしくお願いいたします」と言い、頭を軽く下げた。

 業務時間も昼休憩の時も帰る時も同僚たちから退社の事についての話題を振ってくる事はなかったが、皆、興味はあるような雰囲気は感じられた。その中でも雄一、高倉だけは他の同僚たちの目を盗んでは、なるみに声をかけてくれた。彼女が「何か、あったの?」などと言ってくれるその気遣いは嬉しかったが、なるみは決して妊娠の事は言わず、うわべだけを飾る言葉を返すだけにとどめた。

 スーパーマーケットでの有給消化を使い、平日に休暇を取り、なるみはまず、次の就職先を探し始めた。母から「私たちと一緒に住まなくてもいいわ。でも子育ては、そんなに簡単な事ではない。もしも、子供に何かあった時、すぐ対応が出来るように、せめて、私たちの近くに住んで、仕事も近い場所で探しなさい」と助言を受けた。接客業しか経験がない自分には、他の職種に就く事は考えられず、結局、昔ながらのパン屋での内定を受けた。就職活動が一段落すると不動産会社に頻繫に通った。スーパーマーケットでの同僚たちに今後の自分の姿を見られたくないという考えと、万が一、知人に見られて巡り巡って、自分の事が吉田先生に知られた時、迷惑をかけられないという気持ちになり、彼にも自分の居場所を知られたくはなかったからだ。引っ越しのシーズンと重なったからなのか、築数十年のアパートであるが、今とほぼ同じ間取りの一室を借りる事が出来た。

 妊娠からくる体調不良の状態で、スーパーマーケットの仕事をしながらの就職活動と新居探しは思いの外、身体への負担は相当なものだった。それでも、それらの事をやり遂げられたのは、なるみ自身がお腹の赤ちゃんとの生活を強く望んでいたからに違いなかったからだ。

 荷造りをゆっくりと始めた時期、なるみは自分が選んだ道についての報告がてら、相談に乗ってくれた江無田に電話をかけた。なるみが話をしている間、彼は言葉を挟まずに聞いてくれ、ただ「それじゃ、引っ越しの日、俺にも手伝う事があるなら遠慮なく連絡してきてくれ」と言ってくれた。

————江無田君、ありがとう。

なるみは友だちに心から感謝した。

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