風が吹いて

赤城ハル

第1話

「オリンピックも来年に延期なったからこの夏は寂しいなあ」

 山本係長が遠い目をしながらどこか演技臭く言う。

 これがただの世間の話題を口にしただけなら特に気にも止めないのだがスポーツに関する単語が出た以上、気を付けなければいけない。

「やっぱ今年にやってほしかったですよね」

 新入社員の永島が相づちを打つ。

「だな。竹内、お前は出ないのか?」

 山本係長は箸で俺を指しながら聞く。

 ――ああ、ほらきた。

 俺は心の中でため息を吐いた。

「どういうことです?」

 何も知らない永島が聞く。

「こいつ、短距離やってたんだよ」

 いつも通り山本係長が事情を知らない社員に教える。

「短距離って陸上の?」

「ああ、少しな」

 俺は箸で焼き魚を突っつきながら答える。

 永島が無垢な目で問うので胸が苦しい。

「こいつ、結構いい線まで行ってたんだぜ」

 ――だから、なんでお前が偉そうに語るんだよ。しかも絶対、自慢じゃないだろ。なぜなら――。

「トリプルKがいなければオリンピックいけたのにな。残念だなあ」

 と山本係長は言葉では残念がってはいるが態度が弄りじゃねえか。永島も理解してか空笑いする。

 トリプルKは短距離走の代表3名のイニシャルがKであることからつけられた名称。

「なんで止めちまったんだよ」

 山本係長がにやにやして聞いてくる。

 ――前にも話しただろうが。

「まだ若いんだからさあ」

 ホントめんどくさい。ここからいつも通りの説教タイムだな。

 トリプルKも若いっつーの。しかも俺より若い。

「人生もっとチャレンジしようぜ」

 ――ウッザ。


 トリプルKが台頭してきて、俺はトップを狙うことを諦めた。それでもしばらくは走り続けた。習慣というものは恐ろしくそう簡単に走るのを止めさせてくれなかった。でも、今はもう走らない。

 前はただ走るのが好きなやつだと周りからイメージされていたが、次第に未練が残っているだの。現実を直視できない憐れなやつとか陰口を言われるようになった。

 これも全て山本係長のせいだ。

 時折、夢にまで出てくる始末だし。ちょっと鬱になってしまっているのかもしれない。


 休日はゆっくりと昼まで寝ていたいものだが悪夢のせいで平日と同じような時間帯に起床してしまった。

 今日の天気は俺の心とは反対の雲ひとつない晴天だった。

 小腹が空いたので何か食べようと冷蔵庫を開けるも中は空っぽだった。なので服を着替えコンビニへとパンを買いに出掛けた。

 夏の眩しくて暖かい陽射しが目を差し、体を温める。眠っていた陸上の感覚が沸き上がる。走りたいという疼きが足先から股へとへと突き抜ける。俺はそれを堪えて歩く。

 ――走るな。走るな。

 コンビニでサンドウィッチと缶コーヒーを買って外に出ると目の前でスポーツウェアの女性が横切った。

 ――桜庭さん!?

 桜庭さんは信号で止まり、ポケットからウォークマンを取り出し操作する。そして信号が青になるとポケットにウォークマンを慌てて押し入れて、走って渡り始める。と、その時、ポケットからスマホが落ちた。無理に押し突っ込んだことと急に走ったことによって飛び出したのだろう。

 俺ははスマホを拾い、声を掛けるも桜庭さんはイヤホンをしているので気付いてくれない。桜庭さんを追いかけ肩を掴む。

「ひゃあ!」

 俺はスマホを掲げる。桜庭さんも察したのかイヤホンを取り、一度ポケットをまさぐる。スマホがないことに、そして目の前のスマホが自分のだと気づき、

「あ、すみません」

 と、桜庭さんは頭を下げ、スマホを受けとる。

「桜庭さんも朝から精が出るね」

「ん? えっと?」

 桜庭さんは名前を呼ばれて驚いたようだ。

 こちらの顔を記憶から呼び出そうとするもピンとこないようなのでこちらから、

「竹内です。企画課の」

「ああ! 竹内さん! 竹内さんもジョギングですか?」

 というのが引っ掛かるが、俺はコンビニ袋を掲げ上げて、

「近所なんですよ」

「そうなんですか。ここ、いいですよね。公園が近いですしジョギングしやすい歩道もありますし。やっぱ走ってた人ってそういう所に住むのですか?」

偶々たまたまですよ。桜庭さんも近所で?」

「いえ、ここから一駅分です」

 信号が青になり、

「それでは」

「頑張って下さい」

 最後ににっこり微笑んでから桜庭さんは前を向き、走り始めた。

 俺も赤になる前に横断歩道を渡り始める。進行方向は同じだが、走っている彼女の背はみるみる小さくなっていく。


 子供の頃、俺は遅かった。そして走る度に笑われた。どこがおかしいのかを問い質してもクラスメートは笑うだけで何も言わない。中には判るだろと言って突き放す奴もいた。

 ――判ってたら聞いたりはしない。

 だから当時は走るのが嫌いだった。

 しかし、転機が訪れた。それは小学5年の頃に遅い理由、笑われるわけを知ったのだ。

 テレビ番組で足の遅い子が陸上選手によって速く走れるようになるというチャレンジ内容だった。

 その子は踵走りであった。それが原因だと陸上選手は言う。そして踵走りを直し、足先から地に着ける走りに矯正された。

 それを見て俺は驚いた。走るとき踵から地に着けるものだと考えていたからだ。クラスメートたちが俺の走りを見て笑うのはこれだと気づき、俺はメモを取りながら食い入るように番組を見た。

 番組の終盤にその子は速く走れるようになっていた。

 それから俺は翌日から番組で知った練習方法を試した。

 小学6年の頃にはまともなフォームになりクラスでもそれなり速い方になっていた。馬鹿にしてた奴より速く走れたときは気持ち良かった。ずっと心の奥に溜まっていた鬱憤が晴れたのだ。

 爽快だった。

 中学では陸上部に入った。1年の時はこれといった成績はなかったが第二次成長期を越え、2年の時、短距離走で賞を取った。それから俺はますます短距離走というものにのめりこんだ。


 社員食堂で昼飯を食していると手前に女性が座った。誰だろうと目を向けると桜庭さんだった。テーブルの上にはサラダうどんが。

「こんにちは」

「どうも」

 俺は箸を止め、挨拶した。

「竹内さんも陸上やってたんですよね」

ってことは桜庭さんも?」

「はい。長距離走を」

「駅伝とか?」

「はい。駅伝タイプですのでフルの42.195㎞はきついんですよね。あ、もちろん完走はできますよ」

「すごいですね」

「竹内さん短距離でしたよね」

「ええ」

 どうして知ってるのかと思っていると向こうから、

「あ、友人から聞きました」

 そして彼女はサラダうどんを食べ始める。自分もまた止めていた箸を動かし始めた。

「今度、社が協賛しているマラソンがあるんですけど竹内さんどう……」

 その時、俺の後ろからの声が彼女の言葉を遮った。

「ああ、無理無理止めときな」

 遮ったのは山本係長だった。

「こいつもう走ってないから。それに短距離走だし」

 山本係長は俺の肩を叩き、

「お前も無謀なことはしないよな?」

「この前と言ってること違いません?」

「さあ、酔ってたから忘れたな」

 ――嘘つけ。それは覚えていると言ってるものだろ。

 俺は肩に置かれた手を退けさせ、

「用がないなら早く行ってもらいませんか?」

 少し睨んで言う。

 山本係長は俺から目を逸らし、桜庭さんに目を向けるがすぐに別方向に向け、鼻を鳴らして歩き始めた。

 桜庭さんに視線を戻すと彼女は目を細め山本係長の背を見ていた。俺の視線に気づいたのか、

「ホント、嫌ですよね。ああいう人。ネットのチャンネラーですよね。自分は何もしないくせに他人が何かをすると偉そうに知識人ぶって馬鹿にしてくるし。何もしないとつまらん、何かやれよって言うし」

「桜庭さんも何か言われたことが?」

「私だけではありませんよ。あの人にケチつけられたのは結構いますよ」

 桜庭さんはそう言ってため息を吐いた。その後、むしゃくしゃしたのかサラダうどんを早食いし始める。暫くして、思い出したのか、

「それで竹内さん、マラソンやってみません?」

「でも自分は短距離走だしさ」

「大丈夫ですよ。メンバーに短距離出身の人いますし」

「チーム?」

「はい。社でメンバーを作っているんですよ」

「部みたいなもの?」

「ん~ちょっと違いますね。協賛のマラソンに参加するので。あ、そうそう。特別手当てとか貰えますよ」

 人差指を一本立て、

「一万です。それにウェアやシューズ、その他も経費で落ちます」


 俺は返事は後でするということにした。


 なぜ迷っているのか自分でも不思議だった。迷う必要はないはずだ。

 ――好きなのだろ? 走るのが? いいじゃないか? 短距離ではないんだし。

 でも悔しさがあった。また馬鹿にされるのではないか? 未練がましいとか。

 ――なら、彼女もそうか?

 桜庭さん。

 そうか彼女もまた……。

 いや、俺とは違う。俺は速かった。ただ、才能がなかっただけ。

 ――才能のある人間しか走っちゃあいけないのか?

 違う。

 ――なら、走れよ。

 うるさい。

 ――うしろ指を差されても、走って、走って、そうしてうしろ指から離れたらいいさ。いっぱい離れたら周りからは差してるやつがおかしく見えるさ。前を向いて逃げろ。


 目が覚めると朝の5時半頃だった。夢のせいだろうか意識が変にはっきりしている。

 俺は起き上がり、クローゼットへと向かった。

 タンスの奥にダンボール箱が一つ。その中に大学時代のウェアがしまわれていた。クローゼットにしまうこともなく、捨てることもなくダンボール箱に保管されていた。ウェアには未練たらしさがホコリと共に着いていた。

 ウェアを叩き、俺は袖に腕を通した。そしてズボンを履いた。

「きついな」

 肩はパンパン。尻も窮屈。

 俺はクスリと笑った。

「まずは痩せないとな」

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