第15話:猫女事件:調査編⑥

「猫女は、あのご婦人の娘です」

 加賀さんは相変わらず表情が読めないが、灯台笹は驚愕というか、愕然と言うか、開いた口が塞がらないと言うか、灯台下暗しと言うか、そういった感情が複雑に混ざりあった結果できあがったような、納得と疑問がないまぜになったような顔をしていた。あの場所で最初の事件があったのには明確な意味があった。いや、あの場所に居たあの猫でなければいけなかった。それよりも、僕は勢いに任せて愚かなことをしたのだと思った。今ここで逃してしまったせいで、あのご婦人に被害が及ぶのではないかと考えてしまう。そう考えるのは僕だけではない。

「急ぐぞ」

 灯台笹の言葉に促され、僕たちは飛び込むように車に乗り込む。オンボロな見た目からは想像もつかない馬力を持つエンジンが軽快に戦慄く。尻が痛むのを気にする暇もなく、気持ちだけが逸っていた。

 日はすっかり落ちて、空は緞帳を落としたように暗く空は雲で覆われているのか星あかりどころか月さえ見えないほどに暗く、ひどく頼りない街灯だけが通りを照らす。閑静な住宅街とは言え、時刻は八時を回った程度、家族で団欒を楽しむ時間のだろう、塀や生垣の向こうからは電灯の明かりが漏れ出てきて、先程曲がったか度の家からはカレーの匂いが漂ってきていた。彼らは日常に居るのだと思った。それと引き換え僕はそれから引き剥がされて、非日常の真っ只中に居るのに、呑気なものだと思った。だが、それが逆恨みに近いものだということは、十分わかっている。

「おかしいわね」

 こともなしと言った様子でずっと携帯を操作している加賀さんがふとつぶやいた。彼女も呑気なものだと思っていたが、案外そうでもないらしい。人形のような表情は読めないが、口調は若干早口なのではないかという印象を受ける。

「オカルティックなものと向き合うときは世界に境界が張られたみたいになるの」

 そうなのだろうか、いや、そうなのだろう。僕はそれを否定する材料は持ち合わせていない。事実、そのとおりになっているのだろう。だとすれば僕が何を言っても無駄だ。百聞は一見に如かず、体験すればなおのこと。一見を得てしまっては、千を聞いたところで聞く耳は持てなくなるというものだ。しかし僕は、あえてそれに逆らってみることにした。

「でも、普通の日常じゃないか」

「だからおかしいと言ってるのよ」

 ぐうの音も出ないほどにアプローチを間違えた。

「だから、行く先に猫女は居ないんじゃないかってことじゃないか?」

 灯台笹に割って入られた。

「どういうことです?」

「他に行くべき場所があるんだろう。しかし、最終的に親元に帰るのは間違いないだろうがね」

 他に行くべきところ、考えてもわからない。候補はある。不当な扱いをしていた会社の上司や同僚達だ。しかし、猫女に同調した時に感じた、猫になるというイメージとは程遠い感情だった。可能性はゼロではないが、極めて低いし、なんというかしっくりこない。

「何をそんなに考える必要があるのかしら」

 何をわかりきったことを、とでも言いたいようだった。僕はちょっとだけムッとしたが、なにか言い合ってギスギスするのだけは避けたかった。映画なんかだと、それが原因で誰かしら死ぬのだ。都市伝説的なお約束があるのだとしたら、多分そういうのもあるだろうと思った。

「あなたの家よ」

 彼女はもったいぶらずに言った。僕はバカだ。ここまで来てまだ傍観者気分でいる。僕は当事者だ。火事の真っ只中に居るくせに対岸の火事を見ている気分でいるというとんでもない間抜けだ。そもそもここに居るのも、猫女が僕の部屋まだ来たからではないか。しかも僕の部屋にはまだ大聖寺がいるはずだ。

「つまり大聖寺さんが危ないってことじゃ」

「気にするな。やつなら平気だ」

「そ。心配することはないわ」

 ふたりとも嫌に落ち着いていた。状況を知らなければ多分夕食に出かける最中だったように思えるほどだ。

「あ、灯台笹さん。のどが渇いたわ。コンビニかどこかに寄ってちょうだい」

 僕には経験がない。だから、なんでこんなに呑気で居られるのかがわからない。わからないのは、怖い。だからだ。だから僕は焦っている。何が起こるかわからないから焦っているのだ。なにか起こる前になにかしなければならない。でも何をすれば。思考は加速するばかりだが同じ場所をハムスターのように走り続けている。つまりなにも進んでいない。だからだろうか、考えても無駄だから、分かること以外は考えない。それはすなわち脳のリソースに余裕があるということだ。僕は無駄にリソースを食いつぶしているばかりだが、それが分かったところではいそうですかとやめることが出来ていなかった。

 ぐるぐるもやもやと脳のリソースだけが無駄に消費されていく。気がつけば加賀さんが居なかった。車も停まっている。顔を上げるとコンビニの明かりが見えた。

「気づいたかね」

「…………はい」

「俺にも君みたいな頃があったよ」

 暗がりに火が灯って、赤い点と、煙の匂いが漂ってきた。

「わからないから怖い。怖いから、それを未然に防ごうとあらゆる手段を考える」

 特徴的な匂い。それが煙草だと、やっと気がついた。

「でも、それは結局起こるんだ。ホラー映画を見ているときに、一時停止しようが、目を覆い隠そうが、物語は進んで誰かがひどい目に合う」

 周囲に喫煙者がいない僕にとって、それは新鮮な匂いだった。世の中の人々は煙草の煙を嫌うし、僕だってそうだったはずだが、なぜか僕にはそれが理解できなくなった。

「アンカリング・ヒューリスティックという言葉を知っているかね」

「わかりません」

 素直に答えた。答えを考えるほどの脳内リソースを持ち合わせていないからだ。

「ヒューリスティックというのは、つまるところ経験則で物事を判断することだ。毎朝なぜ明るくなって太陽が登るのかを考えずに、あぁ、朝が来たんだと瞬時に理解するようにね」

 それと今の状況と何が関係あるのかがわからない。

「しかし、今の君のように、判断材料が何もなくて、何を判断していいかわからない場面が人生には往々にしてある」

「そういうときはどうすればいいんです?」

「アンカリングとは、つまりその手がかりとなりうるぽっと出の事象を意味する。人間の脳は便利だからね、ぽっと出の手がかりでも、自分の中の経験則を総動員して、解決方法をこじつけるんだ」

「それがアンカリング・ヒューリスティックですか」

「そういうこと。まぁ俺は専門家じゃないから全部が正しいわけじゃないけどね」

 しかし、僕の中の疑問の答えにはなっていない。

「だが、怪異というものは往々にしてそれが効くんだ」

 脳にかかったモヤが晴れていく気がした。しかし、それでも……。

「それでも怖いですよ」

「君が正しい。俺たちは多分、忘れているだけだ。慣れてしまった、だけだ」

 僕は、なんだか救われた気がした。

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