第9話:猫女事件:遭遇編⑥

 一通り話し終えると、灯台笹はこちら側へと帰ってきていた。僕がまだこちら側ならば、の話だが。そして即座に頭を抱える。口から漏れ出す呪詛は全て大聖寺へと向かっているようだった。聞き取れるだけでも、また面倒事を持ってきやがって、だとか、俺にどうしろっていうんだよ、だとか、あまり歓迎されている様子はない。

「とりあえず、だ。君は今日からしばらくはここに泊まるといい。いや、泊まるべきだ。荷物やら何やらは大聖寺のバカに持ってこさせる。」

「そんないきなり……」

「今日も猫の死骸をみたいなら止めないがね」

 そう言われてしまうと、僕も強く出ることはできない。身に余るマンションだし、引き払ってしまいたいという思いもあるのもたしかだ。しかしだからといって今日始めて知り合った人の家?というかビルに転がり込むのもどうかと思う。

「ま、ただでとは言わんさ。君には、やってもらいたいことがある」

「はぁ……」

 今度は何をやれというのだ、またサイコメトリーもどきなぞやらされては溜まったものではない。僕の内心抱えていた憂鬱は、おそらく外面まで滲み出ていた。


……


…………


……………………


 母の味は、今でもよく覚えている。入院したのは1年以上前だが、母はノートにレシピをまとめていた。引っ越しの際に持ち出せた残滓の一つでもある。僕はそれを覗きながら料理を作っていた。入院する前は僕と母とで交代で夕飯や弁当を作っていた。どんどん僕が料理をする頻度は増えていったけれども、母は体調が良い日には自発的に台所へ立っていた。僕は、母が最後に作った料理を今、作っている。

 ノートの文字は丁寧だが、内容は雑と言っていい。やたらめったら適当という文字が並んでいて、分量は野菜とか肉の個数くらいしか書かれていない。家で使っていた鍋基準なのだろうか、水の量すらも曖昧だ。なにが、『この辺』なのだろうか

「昼飯を作ってくれ」

 そう言われて台所に立った。灯台笹はコーヒーを入れるのは得意(そうは思えない)だが、料理はからきしだめらしい。なので、僕を喫茶店で軽食を作らせるアルバイトとして使いたいのだそうだ。それで小手調べも兼ねて昼食をこしらえることになった。

 他にも従業員がいるのだろうか、冷蔵庫の中身は結構充実していた。僕はとりあえずカレーを作ることにした。時間もあるし、材料もあるし、何より僕が食べたかったからだ。

 今僕は日常にいる。灯台笹なりに気を使ってくれているのだろうか、僕は少しだけ気分が軽くなった。


……


…………


……………………


「お、随分と珍しいカレーだね」

「まぁ、他人ひとの家のカレーですから」

 母のカレーには肉類が多い。ソーセージと肉団子が入っている。両方とも僕が子供の頃に、弁当で好きなおかずに挙げたものだと、レシピには書いてあった。今でも僕の中では家のカレーは特別な立ち位置にある。ランキングで言えば殿堂入りだろうか。順位をつけるべきではないし、つける気も起こらない。

「悪くないね」

 判断に困る微妙な感想は好きではない。うまいまずいで決めてほしいものだ。そう思って僕も一口運んでみたが、悪くないという感想が出てきた。分量の違いか、完璧な母の味とはとても言えないにしろ、同じ感想が出てきた。心のなかで頭を下げた。それよりも重要なことがある。僕自身のことだ。

「それで、僕はどうすればいいんです?」

「昼間は学校、夕方は喫茶店、寝るまではちょっと手伝ってもらいたいことがある」

 ちゃっかりアルバイトをさせるきでいるらしい。ただで済ませてもらうわけにもいかないだろうし、仕送りだけで何もかもを済ませるわけにもいかない。顔もよく覚えてない親戚の飼い犬に甘んじるのは、好きではない。それよりも、寝るまでのことが気になった。

「探偵業ですか?」

「正解」

 やはり、だ。それにしてもよく水を飲む人だ。辛く作った覚えはないが。もしかして猫舌なのだろうか。

「猫女は良くも悪くも都市伝説ということだ」

 さもありなんと言うべきだろう。そもそも都市伝説とは得てしてそういうものだ。まるで実態を持って隣に寄り添うような濃厚さでありながら、どこまでも透明で空気よりも姿形が希薄な矛盾を抱える存在だ。

「話を聞いた人は多いが、実際にそれを見た人はいないし、実害を受けた人もいない」

 いるだろう。事実猫の死骸はいくらでも出てきてるらしいし、なにより僕がその当事者である。

「僕以外は、ですか」

「そういうこと」

 また水を飲んでいる。ピッチャーの半分くらいは彼が一人で飲み干しているんじゃないだろうか。このペースだと僕がこのコップを飲み干す前にピッチャーがからになるだろう。

「大聖寺じゃないが、君は非常に有用なサンプルというわけだ」

 あまり好ましくない評価を聞きながら彼の皿を見ると、半分ほど消費したカレーにチーズをふりかけている。僕もちょっと興味が出たので真似をしてみた。これはこれで悪くない。

「それで、僕に何をさせようっていうんです?」

「大聖寺がやらせたことだ。あんまり無理はさせたくないからローテーションでやる」

 やはりサイコメトリーか。しかし、ローテーションとはどういうことだろう。まさか超能力者がこの町に何人も居るとでも言うのだろうか。

「つまり、僕みたいなのが他にもいるんですか?」

「いる」

 断言だ。ここ数日で一番驚いた。こんな超能力者めいた人間がそうホイホイと存在しているはずもないと思っていたが、僕はそこで自分自身を特別視していたことに気がついて恥ずかしくなった。

「あまり驚かないんだね」

「そこまで自分を特別視していません」

 嘘だ。

「そうか」

 会話が途切れて、食器が触れ合う音が静かな店内に響いていた。

「なぁ、七尾君」

 皿とピッチャーが空になった頃にふと灯台笹が問いかけてきた。

「どうしました?」

「デザートにバニラアイスはどうかな」

 アイスもそうだが、乳製品に含まれるカゼインは、カプサイシンを丸め込んで辛さを抑える効果があるという。僕の手前、わざわざ牛乳を引っ張り出すようなことはしたくなかったのかもしれない。次に作るときは甘口のカレーにすると心のなかで決めた。

 バニラアイスは、とてもおいしかった。

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