第5話:猫女事件:遭遇編②

 気がつけば、夜が明けていた。見回してみればそこは知らない寝室、ではない。昨日駆け込んだ管理人室の奥にある、宿直室だった。

「おはよう、元気は……良かねぇよな……」

 湯気が立つコーヒー。僕は遠慮なく、砂糖とミルクを打ち込んだ。温かいコーヒーが体と心に染み渡る。それになにより、味がわかる。安心しているのだ。

 僕の身に起こったことに真摯に対応してくれるこの人は、今のところは味方のはずだ。たちの悪いいたずらで済めば良い、などとはこの顔の割に人の良い管理人の前ではとても言えなかった。この管理人にとってはたちの悪いいたずらが起きることがすでに大問題のはずだ。

「学校には、俺から連絡を入れておいた」

 たしか、書類上は保護者になっていたのだったか。田鶴浜たつるはま恭一きょういちさんと言ったか。僕はこの人のことを全然知らないのに、この人は僕のことをある程度知っているのか。なんだか少し怖くなったが、頼れる人はこの人しか居ないのだ。

「ありがとう……ございます……」

 あのあと、ろくに中身の入っていない胃の内容物を吐き出そうとして焼けた喉にまだ違和感が残っている。気絶するように眠ったせいか、頭痛が酷い。体調は最悪に近い部類だ。だが、休息は取れた。この年にもなって一人で寝れなくなったなんてという恥ずかしさを覚えることができる程度には、精神は回復していると思いたい。

「十時頃には警察の人が来るそうだ、できれば話をして欲しい」

「やってみます……」

 時計を見上げる。時刻は九時半、あまり時間はない。着替えたかったが、あの部屋に戻りたいとも思わなかった。だが、考えれば考えるほどに時間は加速していくようだった。

 結局あの光景は夢か現実か。状況を見る限り、最低なことに現実だ。田鶴浜さんが部屋の様子をしっかりと確認して、警察まで動く自体になっている。僕が幻覚を見ているだけならば、僕一人が狂っているだけで済むならば、それが一番よかったのに。

 今わかっていることは、とにかく僕の部屋のベランダに皮を剥いだ猫を投げ込んだ何者かがいるという事実だ。。ベランダは道路に面しているから、おそらくそこから投げ込まれたのだろう。いたずらで偶然私の部屋に投げ込まれたと考えるのが自然なのだろう。の僕の部屋まで決して軽くない猫の死骸を投げ込むことができるならば、という前提ありきだが。だからこそ、だろうか。猫女の姿が脳裏から離れてくれない。あの猫女が外壁をよじ登ってきて、至近距離から投げ込んだのではないかと、そう思える。

 猫になってしまったあの女が、猫のようにしなやかな肉体を使って、あの高い外壁を、ベランダなどを伝ってそろそろと登ってくるのだ。そして私の部屋に狙いすまして、あの猫の死骸を投げ込む。誰がその光景を見た?誰も見ていないからこそ、この馬鹿げた妄想を否定できないのではないか!

 だが、それを否定する術がある。警察ならば、その痕跡を調べることができるだろう。それにより、すくなくとも偶然か必然かくらいは、はっきりさせることができるだろう。偶然ならば良い。意図的であるならば……。

 ふと、昨日のことを思い出し、なんとか持ってきた鞄を漁る。財布の中に無造作に突っ込まれていた名刺。あの婦人から頂いたものだ。頼れるかもしれないと、いや、頼るしかないのだろう。少なくとも、皮を剥がされた猫の事件に関しては、何らかの知識を持っているはずだ。

「すみませーん。警察の者ですけれどー」

 やけに間延びした声が聞こえた。たかがいたずらと軽く考えているのだろうか。それだけで心底腹が立ってきた。田鶴浜さんが扉を開けると、それをくぐるように入ってきた長身のスーツの男と目があった。

 だらしのない人だと思った。スーツもYシャツもよれよれのシワだらけでネクタイも適当に緩められていた。ボサボサに伸びた髪を緩くひとまとめにしていて、不健康そうな顔にはあの女よりも濃くて深いくまが浮かんでいた。

「どうも、竜涎市警、刑事課の大聖寺だいしょうじ智春ともはる警部です。こっちは木場きば警部補。君が七尾秀介君だね」

 酷く眠そうな口調だった。ともすれば今にも大口広げてあくびでも飛び出しそうな程に。それよりも、大聖寺という男の纏う雰囲気のほうが気になった。あの女と同じ、彼岸と此岸の端境に立って揺れているような男だった。こっちの心を見透かすような目は、これこそが除き返す深淵なのだと確信できる。あの女もきっとこんな目をしていたのだろう。僕は躊躇なく深淵から目をそらして答えた。

「はい……」

 それにしても大聖寺、どこかで聞いた、いや、視た名前だ。鞄を探ってあの名刺をもう一度取り出す。大聖寺智春。その名前がしっかりと印刷されていた。頼ると決心した人が、こんな人だったなんて。失望を振り払いきれない僕に、大聖寺は興味もなさそうに続ける。

「えっと、先に君の部屋を確認させてもらいました。窓には血がこびりついていて、皮を剥がされた猫がきちんと死んでいました。君の言ったとおりだ」

「大聖寺さん、無神経でしょ!」

 小声で耳打ちしてるつもりなのだろうが、聞こえている。木場という男は愛想笑いが顔に張り付いたような男だ。好きになれない。体面ばかり気にするタイプだろう。むしろはっきり言ってくれる分、大聖寺のほうが話しやすいかもしれない。

「ま、ぶっちゃけると君も容疑者の一人です。地上5階のベランダにモノ投げ込むなんて困難だしね」

「そうですか」

 不満は隠さない。当然だろう。容疑者扱いされていい気なんてしない。

「まぁ剥がされた皮も道具も無いみたいだからあくまでリストに名前が乗るだけです。んで、こっからが本題ね」

「はぁ……」

 何なのだろう、飄々ひょうひょうとしてという言葉通りに風のように掴みどころのない人だ。風のように、というよりもスライムのように実体が掴めそうで手からこぼれ落ちていくような感覚だ。

「昨日の夜八時半頃、窓に何かがぶつかる音を聞いてベランダを覗いてみると猫の死体があった。ということだね」

「はい」

 と言っても、それが全てだ。その後は叫び声を聞いた住人が通報したのか田鶴浜さんが駆けつけてきて状況の確認と警察への連絡をしてもらった。その後一度警察の人が来て一通りベランダや部屋を捜索して帰っていった。それ以上のことで話せることなど無い。猫女の話を抜いて。

「そうだよねぇ。じゃあ、猫女って知ってる?」

 この男の深淵のような目は、本当に心の奥底まで見透かしているのではないだろうか。

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