猫女事件:遭遇編
第4話:猫女事件:遭遇編①
このマンションの窓のないエレベーターが苦手だ。狭い空間に押し込められ、外の様子は伺いしれないくせに、外からは監視カメラで一方的に覗かれているのが気に食わない。背後の鏡もそうだ。鏡は異界につながっているという。鏡の向こうから何かが迫ってきても、密閉された空間で逃れられない。エレベーターを特定の順序で操作すると異世界につながるという都市伝説も、この外が見えない中移動しているという状況から生まれたものかもしれない。
我ながら下らないこととは思うが、それでも苦手なのだ。疲弊した神経が、なんでもない空間をそう思わせているのだろうか。今の僕にはそれがわからない。
当然だが無事何事もなく自分の住む階で降りることができた。機械は従順であるべきだ。鏡は異世界に繋がるべきではないし、エレベーターも間違っても異世界なんかにつなげるべきではない。ただ与えられた役割を粛々と
廊下は常夜灯で明るいが、その明かりのせいで証明のない中庭の暗さがまるで奈落に通じる穴のように強調されている。エレベーターもそうだが、見えないというのは怖い。見えないというか、わからないということは、極めて本能的な恐怖なのだろう。僕という人間は普段は世界を信用しすぎているくせに、いざそこに恐怖を覚えると、どこまでも疑り深くなってしまうらしい。もしくは、夜の帳は信用というものを一瞬にして剥ぎ取ってしまう魔力があるのかもしれない。
自分の部屋の前に差し掛かるにつれ、なんだか薄暗くなっているような錯覚に陥る。防音設備がしっかりしているせいか他の部屋の生活音が聞こえてこないのが余計に不安を煽る。ふと気づくと、向こうに切れかけの蛍光灯が見えた。不安が加速していく。
それは、自分の部屋の前だった。狙いすましたかのように、その蛍光灯だけが切れかけてぱつぱつと明滅を繰り返している。昨日まではそんな兆候はなかったはずなのに。
この度重なる不可解な現象は一体何なのだろうか。偶然。偶然だ。偶然かもしれない。偶然なのだろうか。偶然でないかもしれない。偶然であってくれ。全く以て嫌になる。苦情は明日にしよう。今日はもう寝る準備だけをして、夢を見るまでもなく朝を迎えたい。
出る前に鍵はかけたし、きちんとかかっている。鍵を開けて部屋に入り、部屋の明かりをつける。荒らされてなんかいない。僕は今日の一連の出来事で、これほどまでに日常を信用できなくなっていた。扉を開けるたびに、電気を付けるたびに、同じ確認行為を続ける。
こういうときばかり、嫌な話ばかり思い出す。冷蔵庫の中の生首やベッドの下の男のような部屋に潜む恐怖を語る都市伝説だ。神経質で疑心暗鬼と笑われるだろうか。いや、勝手に笑えばいいさ。ベッドやソファの下やクローゼットの中を無意味に調べる。いや、意味はあるのだ。少なくとも目に見える何かは存在しないと言う安心は得られる。息を潜めて命を狙う何かは存在しない。
食事を摂る気にはならなかったが、賞味期限の近い野菜だけでも消費しておこうと適当に鍋に放り込んでスープにする。大好きなはずのコンソメを投入するのを、一瞬だけ
味見をしようと一口口に含んでみた。味はわからなかった。ストレスだろうか、こうも打たれ弱いとは思ってもみなかった。酷く気分が落ち込んできた。残りは明日食べることにしよう。捨てることにならなければいいのだが。おそらく、そうなるのだろうと漠然と理解した。もったいないとは思わなかった。それよりもこのストレスを一気に流してしまいたい。シャワーを頭からかぶったときに一緒に流れていけばいいのに。人間の体というのは溜め込むのは得意でも吐き出すのは苦手なのだろうか。
食事のうちに湯を張っておいたので、さっさと風呂を済ませる。風呂は嫌いだ。疑心暗鬼のせいで余計に。すりガラスの向こう側を何かが通らないか不安になる。髪を洗っている間首筋に何かが這わないか不安になる。湯船から何かがでてきて引きずり込まれないか不安になる。
都市伝説だの怪談だのが嫌いだ。いつからかそれは安全圏まで侵入するようになってきた。いや、安全圏だからこそそこを犯してやろうという安易な目論見で粗製乱造されたもののすべてが敵になっている。つまるところそれは僕という弱い人間にとって非常に効果的だったということだ。
布団にくるまったとしてもその中から何かが這い上がってくるようなそんな錯覚。どこかに隠れるならその内側に発生させてやればいいのだという安易さも、また効果的だった。昔なにかの漫画だったか小説だったかで見たような、自分がピッタリと入れる箱に隙間を土でしっかり埋めて眠る男の心境とは、そういうことだったのだろうかと思う。これはそういったたぐいの強迫観念に違いない。
髪が乾くのも待たずにベッドに突っ伏す。一人がこんなにも恐ろしい。
その時だった。
バタン。
ベランダに、窓に何かがぶつかる音がした。見たくない。それはきっと深淵に繋がるなにかだと思った。深淵に覗き込まれたくないから深淵を覗きたくないのだ。それでも、見なければならないと思った。
シュレディンガーの猫ではないが、観測するまではそれがなんだかわからない。今の僕にとって、何もわからないことはこの上なく怖い。鳥がぶつかっただけならばそれでいい。いたずらで何か投げ込まれたのもそれでいい。
だが見ないうちは、それが言葉にすることもできないほどにおぞましいものかもしれない。そのおぞましいものに寝ているところを襲われるかもしれないという恐怖で神経をすり減らすよりはマシなはずだ。擦り切れるだけの精神が残っていれば、だが。そんな冗談みたいなことを考えることができる分は残っている。
意を決してカーテンを開ける。
最悪だった。
ガラスには血がべっとりとこびりついていた。肉がぶつかって、ガラスを伝って床まで落ちたのだろう、まっすぐ縦一文字にかすれた筆で線を引いたような血の跡が伝っている。驚きすぎると、冷静になる
意に沿わず血痕に沿って視線が進んでゆく。何やら赤黒い塊が見える。それはおそらく予想通りなのだろう。小さな
ただその毛皮だけを除いて。
マンションに響く僕の絶叫の中、小さく、とてもおかしそうに、「にゃあ」という鳴き声が聞こえた気がした。
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