第3話:猫女の噂②

「たしか、ここだっけ……」

 放課後、僕は意図的に避けてきたあの駐車場へと訪れていた。周囲を見渡しても人の声も聞こえない。もともと人気のない閑散とした住宅街だが、一人あの世にでも迷い込んだ気分だ。遠くから聞こえるカラスの鳴き声が、脳の中にある寂寥感と焦燥感を司る部位をただひたすらに逆撫でている。

 根拠はない。証拠もない。噂が真実かどうかですら定かでなく、そもそも自分の正気も疑わしい。タガはまだ嵌っている……はずだ。いや、それすらも曖昧なのだ。証明するものがなにもない。だから、せめて僕が狂っている証拠がほしい。そこに何もなかったという証拠がほしい。あるいはなにかがあってほしい。ただ心の安寧がほしい。正気なら正気でいいし、狂ってるなら狂っているとはっきりさせたいのだ。


 結果から言えば。


 普段人気のないそこで、一人の女性が蹲るように手を合わせていた。中年の、上品そうな女性だった。中年女性ではなく、婦人と呼ぶべきだろう。小さな瓶にささった名前も知らない黄色い花が秋風に揺れている。嫌な予感だけは当たるものだと思った。

 声はかけたくなかった、しかし、これは僕の狂気と正気を判別するために必要な儀式のようなものだと自分に言い聞かせた。

「あの……」

「なにか?」

 悲しげな表情を隠そうともしない女性だった。しかし、あの女とは違う、此岸しがんに生きる者であるとはっきりとわかる。

「なにかあったんですか?」

「えぇ……わたくし、野良猫に餌付けをしてましたの」

 いけないことだ、とはとても言えなかった。おそらく婦人もそのことは十分理解しているのだろう。言葉に躊躇いがあるように思えた。

「主人がアレルギーで、うちでは飼えませんので。私の友人の家で飼おうと話をしていたのですが……」

 改めて供え物を見てみると、そこには瓶にささった花だけでなく、猫の缶詰と真新しい首輪が置かれていた。赤い革に金色の装飾、素人目にも良いものに見える。きっと愛されていたのだ。道楽で用意したものではなく、『家族』に送るものだったのだろう。猫が心底羨ましかった。僕には死んでもこうして悲しんでくれる家族など、もういない。だからといって、猫になりたいとは思わない。まだ、正気だ。

「関係ない話でしたね。それで、餌付けをしていた猫が、ここで死んでいるのを見つけまして……」

 その先は、正直聞きたくなかった。僕の下らない予想、いや妄想なんか外れてくれ、あんなことになるなら、車に轢かれた方がよっぽどましだ。だが、聞かなければならない。アレが単なる妄想かどうかの区別をつけなければならない。

「さいしょ見たときはあの子だなんてわからなかったんです。ひどい有様でした……」

 引かれてぐちゃぐちゃになっているのか、それともあの幻聴のようなもののように、皮を剥がされていたのか。生き物の死についてこんなにも興味を持つようになるなんて思いもしなかった。

「それは……ご愁傷さまです」

 深く追求する事はできない。ましてやその猫は皮を剥がされてましたかなどと聞くなど。

「誰があんなひどいことを……」

 聞きたくない言葉を聞いた。

「……猫女」

 思わず口走っていた。婦人はそれに心当たりがあるようだ。赤く腫れた目を見開いて、言葉に反応している。

「あなたも、その話を知っているのね。よ」

 多くは語らなかった。語ってほしくなかったし、語らせたくもない。愛する者の無残な姿なんか、思い出す必要もない。だが、その言葉や、今にも吐き出しそうな声の震えが指し示すのは唯一つだ。あの灰色の猫は、皮を剥がされて死んでいたのだ。

「もし、なにか知っていることが有りましたら。こちらに連絡をしてくださいまし」

 婦人が鞄から取り出した二枚の名刺を受け取る。肩書を見るに探偵と、警察官のようだ。これはもう事件になっているのだと実感した。とても一高校生の手に収まるものではない。しかし、やらなければいけないという無根拠な責任感がそれを許さない。

「私は今はなにも聞きたくないのです。これ以上踏み込むと。私が私でなくなってしまいますから」

 うまく逃げている。踏み込もうとしている僕なんかとは大違いだ。だからといって足を引っ張るのは違うと思った。とりあえずは、家に帰って一度休もう。いろいろと神経をすり減らした。あのムダに広い風呂が、今では途方もなく恋しい。

 力ない婦人の背中を見送ると、私も帰路を急いだ。すでに日は沈み、星が浮かんでいる。自宅まではもうすぐだが、街灯は切れかけていて、星の瞬きよりも頼りなく明滅している。進めば進むほど、不安が増すようだ。

「にゃあ」

 猫の鳴き声がどこかから聞こえた。いや、それは果たして本当に猫なのだろうか。なんでもない道が急に恐ろしくなった。周囲を見渡す。路地裏の影か、電柱の後ろか、それとも塀の上か。どこにいる、どこからみている。逃げなければいけない。はやく帰りたい。

 徒歩、早足、駆け足、まだ体は動く。交差点を渡り、角を曲がり、自販機を通り過ぎ、マンションの門を抜けた。管理人室の明かりと、そこに座る無愛想な管理人が酷く頼もしかった。

 管理人は息を切らす僕に、訝しげな視線を向けていた。不本意だが、仕方ないだろう。いつもは慌てて帰ったことなどないのだから。

「大丈夫かい?」

 いや、単純に僕の認識違いだった。ただ単純に心配してくれていただけだ。疑心暗鬼になっていたのかもしれない。目を合わせるのも恥ずかしい。

「え、えぇ……」

 なんとか、それだけを口にする。我ながらぎこちないにもほどがあるだろう。

「ここ最近物騒だ。なんでもそこかしこで猫が死んでるらしい。嫌な噂も流れてるしな……」

「猫女……ですか?」

「なんだ、知ってるのかい」

 管理人は短い白髪を掻きながらため息を吐く。猫が死んで、物騒な噂ときたら、知ってるのはそれくらいしかない。昼食時の会話は、おそらく教室のどこかで交わされてたのだろう。背後から聞こえたというのは勘違いだと信じたい。

「あんまり、子供に聞かせたい話でもない。幽霊のたぐいは無理だが、不審者なら通さねぇから、安心しな」

 いかつい顔を下手くそに笑わせながら、年齢に似合わない逞しい腕で力こぶを作ってみせた。僕も笑顔を作ってみせたが、管理人の複雑な表情を見るに、笑顔もぎこちないか、それとも意図してない表情をしていたのだろう。一礼してマンションの中に早足で入り込んだ。

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