猫女の噂

第2話:猫女の噂①

 女三人よれば姦しいというが、実のところ男女問わず人が多く集まればすべからくやかましいもので、若い高校生の昼食時は鉄の嵐に包まれる戦場の如くだ。他愛もない会話がそこかしこから流れ弾のように飛んできているが、幸いにも実体を持たないため無傷でいられる。中には聞くに堪えない話も混じっているが。

 男子の会話は特に、だ。女子生徒が聞いているかもしれないのに、三大欲求のうち、食欲と性欲をいっぺんに満たすかのように下世話な会話が聞こえてくる。授業中は眠っているから、きっとそのせいだろう。ああいった人種は人間よりもきっと猿に近いに違いない。人と関わるのは好きではないし、特にああいった輪に飛び込みたいとは思えない。

 しかし、健全な男子高校生ならば本当はあの中に混ざっていかなければならないのだろうが、ただ無関心だった。周囲に溶け込むという技能はとうの昔に捨て去って、一人でいることに慣れているだけに過ぎない。空気に溶け込む技能だけはよく磨けたものだと思う。よって僕の相手は図書館で借りた竜涎市に関わる文献だ。名前の由来や成り立ちなんかは、関係があるのかどうかはわからない。が、きっとオカルトめいたものだろうと民話集なんかに目を通すのだ。

 といっても手がかりは極めて少ない。あの木々に囲まれた湖と、口封じという言葉。それらにどういった関連性があるのだろう。それすらもわからない。歴史か、文化か、それともオカルトか。何一つ手がかりはなかった。そんな中、流れ弾の一つが眉間に命中した。


「これは友だちから聞いた話なんだけど……」


 喧騒のさなか、ダイレクトに脳に突き刺さるように明瞭に、その会話は飛び込んできた。妙に明瞭で、はっきりと聞こえる声だった。聴くつもりなど毛頭なかったが、それは乾いたスポンジを水の中で握りつぶして水を吸わせるように脳にこびりついていく。聞き流せず、朧気でもなく脳に残っている。

「夜中の路地裏に、猫女が出るんだって」

 猫、また猫か。数日前の出来事を思い出す。あの生きているのか死んでいるのかもわからない女の、乾いた笑みが浮かんだ口元を。今思えば、アレはこの世のものでなかったのかもしれないと思うほどに、陽炎か蜃気楼のように浮かび出たんじゃないかと思えるほどに、曖昧なその存在感。顔を見なかったせいもあるだろうが、もうすでに記憶の中のその存在はあやふやだ。

「夜歩いていると、人気のない路地裏から猫の悲鳴が聞こえるの。それで、路地裏へ行ってみると、そこには血まみれの猫の死体と、大きな包丁を持った女がいたんだって」

 しかし、陽炎が脳裏から離れない。いや、話が進むたびにそれは実像をしっかりと結んでゆく。大きな包丁を持ったあの女が猫を捕まえている。振りかぶり突き刺す。一撃だ。猫は一溜まりもなく血反吐を吐いて次第に冷たくなる。そういった光景が容易に想像できてしまった。猫は、あのとき駐車場で欠伸をしていた猫だった。灰色の毛に、赤黒い血の斑が浮かぶ。

「それで、その女は、猫の毛皮を剥ぎ取ってるの」

 腹を捌き、邪魔な足や首を切り落とし、胴体の革を丁寧に剥ぐ。だが包丁は骨を切った影響か、血や脂のせいか、欠けて うまく剥げないが、それでも丁寧に丁寧に、できるだけ大きな一枚になるように。

「見られていることに気づいた女がこっちを振り向くとね。よくみると全身に剥ぎ取った猫の皮が縫い付けられているんだって」

 猫を殺して皮を剥いで自分の体に縫い付ける。猫になるために。自分の体に縫い付けるたびに流れる血液も、走る痛みもその全てが快感に思える。猫になってゆく成長痛がたまらなく心地よい。

 そこでやっと、僕自信が端境をさまよっていた事に気がついた。理由はわからないが、猫女とやらに共感している自分がいる。あの光景を、すべて一人称で見ていた自分がいる。

 僕は正気だった。その光景を気が狂っていると断ずることが出来るだけの正気は残っている。それを理解することはともかく、共感できるようになったらもうおしまいだ。それが正気と狂気の端境はざかいだと、人間が人間で居られるたがだと定義して心の安寧を図ることにした。

「それでその女はこういうのよ。『あなたも猫になりましょう』って、とびっきりの猫なで声で」

 最悪だ。あぁ、畜生最悪だ。そんなことをしてしまえば、狂気が拡散する。他人の箍を外すようなものだ。それと波長が合うのなら、

 昔読んだなんとかという本には、幸せになるには、人間をやめればよいとあった。しかし、人間性を捨ててまで求めるほど、幸せというのは尊いものなのか。幸せとは縁遠い生活を続けてきた僕にとって、幸せが如何なるものなのかを認識できていないということが、箍を固定している鉄鋲になるなどとは、何たる皮肉だろうか。それが幸せなことだと理解できる人が、それに出くわしてしまったら。

「それで、『はい』って答えちゃうと。猫人間にされちゃうんだって」

 やはりだ。狂気は拡散する。人間であることに疲れてしまった人々が、それに遭遇してしまったら。それは崖の淵に立つ人に、手前からちょっと引っ張るようなものだ。たやすく縁に吸い込まれて、二度と戻ってこれなくなる。

 だが、所詮都市伝説、うわさ話だ。自分が勝手に連想しているだけに過ぎない。しかし、なんとしても凶行を止めなければならない。自意識過剰だと言えばそれまでだが、僕にはそうしなければならないと思う確固たる根拠がある。たった一言、あの女に向けてしまった一言。




『えぇ、叶うならば、僕も猫になりたいですよ』




 やはり自意識過剰か、いやしかし。あの女の笑みを考えると、僕の一言が原因で、あの女が猫女になってしまったのではないかと思えて仕方がなかったのだ。

「ねぇ、聞いてるの?」

 それは不意に訪れた。誰かの話し声を横から聞いていた自分に向けられた問いかけだと直感した。背後から聞こえるその声に振り返ると……


 そこには棚に入った鞄だけが並んでいた。


 心臓が早鐘のように鼓動していた。自分自身の正気がわからない。どこまでが現実で、どこまでが僕の妄想かもわからない。心の中でただひたすらに懇願する。どうか、僕が狂っているだけであってくれ。あんな悲しいものがこの世にあってたまるか。

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