第12話
その奥まった席で智子が美佳の肩を抱いていた。
大股で近づいて行く。普通なら息急き切って入って行ってどうしたと声をかけるのが一般的アクションなのだが、こういうときは特に焦らない。落ち着け、あなたはすぐ焦ると二五年間言われ続けて来たので、大きな深呼吸をして肩の力を抜いてからゆっくりと近づいた。
智子にいつもの力強さがない。向かいの空いているところに席を下ろすと 美佳がパパと泣き崩れた。
二人の話を要約すると、約一ヶ月前くらいから食べたくない、すぐ吐いてしまうなどの症状が続いており体重が五キロも減ってしまった。最初は風邪かと思っていたのだが風邪薬では治らないので、つわりかと思って先週産婦人科に行った。しかし尿検査をして妊娠は否定された。調子の悪い原因は産婦人科ではなく内科の方かもしれないと言われて翌日近くの内科で血液検査をした。一昨日その内科の先生から電話がかかって来た。血液検査で大きな異常が出ているので紹介状を書くからと行って新橋の大きな専門病院を紹介されたのだという。
今朝から丸一日その専門病院で検査をして、というのは先生がこれは重大な状況と急いで全てやれることを調べてくれたのだが、その結果を今さっき聞かされたのだった。病名は白血病、それもかなりたちの悪いもので早急に骨髄移植が必要だとのことだ。
結婚式以来久しぶりに会った美佳は全く別人でとても痩せてしまっていていまにも消えてしまいそうな風情だ。それにこれは男目線だが、自分の娘でも流石に今が旬、何もしなくても華やかで輝いていたのに、もう全く別人、セクハラ発言だが本当におばさん以下だ。肌の艶というか張りというか一気に十歳は年取っている。女の人の変化というのは凄まじい。美と衰えがこんなにも近くにいたなんて想像もできなかった。人を愛するというのはそれだけでその人が輝いて来るものだが、今の美佳は日々の苦しさが前面に出ている。なすすべもなく押し込まれている。もう全く徳俵いっぱいだ。美佳がとても可哀想になった。新しい生活で慣れないことも多いしそれなりには相手にも気を遣っていただろうに、それでも新婚の初々しさというか鮮やかさは自然と滲み出て来るものなのに、今目の前にいる女性からはただの疲れしか感じられない。こんな美佳を見たのはもちろん初めてだ。自慢だった綺麗に伸ばした爪が無残にささくれだって割れている。本当に一大事、早急に対策を講じないと取り返しがつかない。先生が言うにはとにかく家族親戚可能な限り多くの人を集めて検査をして、ドナーになれる人を探す作業に入るということだった。もちろん骨髄バンクにも登録はするのだけれど、遺伝因子のことなので親戚血縁者の中の合う人を探す方が手っ取り早いと言う事だった。
俺はそこまで聞いてこれは今までの日々とは全く違うものが降りて来たことを実感した。今までの感情に任せた日常とは全く無縁の厳しい現実だ。泣いても悲しんでも何にも解決にならない。
しばしの沈黙の後、かろうじて声を振り絞った。
「できるだけの人を集めよう、田舎の親戚にたくさん声をかけてみる、これは俺がやるよ、その方がいいと思うから。とにかく良い合うドナーがみつかることを願うしかないじゃないか。これから平塚帰るのか、この満員電車に乗って」
「それはいくらなんでも無理、この顔を見てどうしてそんなことが言えるの」
「いや、だから無理だと思うから聞いたのじゃないか」
「無理に決まっているでしょ、今日はみんなで品川の家に泊まらせてもらうわ」
「いやーそれがいいよ。幸いにも加代子さんは大阪へ出かけているからね」
「加代子なんて関係ないわ、あれは私たちの家です」
「とにかくタクシーで早く帰って横になった方がいい」
ふうう、どうしてまたまた人の言葉を悪くとるのか、一言一言で疲れる。ただ今日は品川に泊まるわ。とだけ言えばいいものを。すぐに喧嘩調になると言うのは基本その相手を面白く思っていないからなのだが、それにしてもなんでもない会話が捻れるのは一体俺の 何がそんなに悪いのだろうか。二人が出て行った後、残されたコーヒーを見ながらその昔この喫茶店で長く楽しく喋っていたことを遠い異次元のことのように思い出していた。
それでも一人になれば俺の客観的状況判断力が優先する。親戚だけに限らず、仕事の合間を見つけてはあちらこちらにいろいろな伝手を頼み込んで電話をして、事情を話し、ドナーになれるか否かを検査に行ってもらった。大抵の相手は仕事のことは仕事としてそれとは関係なく非常事態だということで快く検査に行くことを受け入れてくれた。この辺りは長くそれなりには真面目にやってきた結果だと本当に感謝している。その間にも美佳の容体は悪くなる一方でもうほとんど水も通らないような状況になった。電話の向こうで親不孝な子供でごめんなさい、私のこと忘れないでねなどと言い出す始末だ。美佳の旦那もとても心配してくれるのだが、如何せん血縁でないとやれることは限られてしまう。じりじりと切羽詰まっているのに何もできないという日々が続いた。俺までもが五キロやせたような気持ちだ、食事も通らなくて。実際は何にも変わっていないのだが。
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