第11話

「いいわよ、別荘行ったって何があるってわけじゃないし。あなたは明日またお仕事でしょう、だから早く品川へ帰ってゆっくりしてください」

「なんだ、俺は別荘で君と久しぶりにゆっくりしようかと思ったのに」

「まあ、別荘に行きたいのならそれはいいわよ、私はとにかくもう舞の会にいかなくちゃいけないから失礼するわ」

「それで君はいつ帰るの今日は」

「舞の会の後にみんなでお茶すると思うの、だから夜遅く」

「そうか それなら別荘に行っても仕方がないよな、わかったよ、俺は品川へ戻るよ」

だからわかんないのだよ、一体。俺はあいつにとっての何なのだ。鰻だけ食いに来るために鎌倉まで来たわけではない。もう少し一緒にいろいろ接触したいと思ったのに。これで夫婦なのか、これが夫婦なのか。こんなんで夫婦なら意味ないと思うがでもそれを切るほどの勇気はない。

 なんだか鰻が急に腹につかえてきた。鰻も鎌倉も消化不良のまま品川に戻った。   

 でも消化不良には忘却という消化薬がある。それなりには波風もある毎日の仕事という日常、さらには夜の加代子との時間、これで十分日々は過ぎていく。本音の一部ではこれは正常状態ではないとお互い認識はしているのだが、二人とも他には過ごす相手はいない、必然として結び付くというか二人とも他に居場所は無いのであった。例年になく暑くジメジメとした日々の続いた八月だったが、そのジメジメとした感じ、スッキリとしていないところがむしろ今の二人にとっては居心地が良いのだ。

 九月も半ばになり秋の風がようやく感じられる日、仕事が終わって帰り支度をしているところに智子から電話がかかって来た。会社に電話をかけて来るなんてとても珍しい。一体何なのだろうかと訝しく思いながら電話に出たら、いつになく上ずった声が飛び込んで来た。

「あなた、大変なの、大変」

 智子が狼狽えるなんていうことは耐えて久しく見たことがなかった。俺から離れて鎌倉行くと言った時も、結婚式の後のただただ普通の会話の中で言い放っただけだった。そこには確固とした決断と何の躊躇いもない実行が見て取れる。あいつはいつでも何か決める時はそれなりには考えてからのことだろうが、それ以上に自分の持つ直観力、洞察力に大きな自信を持っている。基本的に理科系の論理で積み上げて進んでいくと言う俺にはこの種の直感というのが何なのだろうかさっぱり理解できない。直感を感じるのには理由や根拠はない、ただただそう思う感じるから直感なのだと説明されるがそれでは説明になっていないと俺のような凡人の理科系人間は思ってしまう。

 直感の人間に大変は無いはずだ。得意の直感が働いていない。直感を生み出す元が何もないほどの想定外ということか。

「あなた、大変なの、大変」

「何が大変なのだ、落ち着いて、俺たちにこれ以上大変はないと思うけれど」

「だから貴方はつまらないのよ、いつも自分中心でものを考えている。時にはもう少し人のことを親身になって考えたら。まあいいわ、今はそんなことを言っている場合ではないの。大変なの美佳が」

 大変でも俺の返事には直感で反論してくる。

「美佳がどうしたのだね、今どこにいるのかい」

「新橋、美佳も一緒なの」

「なんだ、こっちまで来ているのだ、会社の近くではないか、じゃーすぐ行くよ、待っていて、こっちはもう出るところだったから。そう、駅前のハニーという喫茶店で待っていて。一五分くらいで行けるから」

 大変なのだからそれにしっかり対応するのは当然で直ちに警察官みたいに現場に急行した。これは俺の中の理性の反応だ。これが俺という奴。何が大変か知らないけれど、その大変という状況の中でのちょっとした電話の応答であれだけ相手をやっつけるというのも俺にはよく分からない、大変より俺の返答の方がカチンときているということで、俺の言葉尻は大変以上に大変なのだろう。相手をつまらないというのは相当決定的評価だ。言われた方はもう確かにグウの音も出ないほどに打ちのめされる。俺にとっては鎌倉に行かれてしまったことは大変以上に大変なのだ。そんないつもの本音がちょろっとでてしまったわけなのだが、百倍返しにあってしまった。これ以上の反応をすると火に油どころかガソリンを注いだようになるのでしっかりダンマリを決め込む。そのくらいの芸当は身についている。二五年も連れ添っていたら、何かしらの慕情と言うか優しさみたいなものがにじみ出てもいいと男的には思うのだけれど女という動物はどうしてこうも相手を決定的にやっつけるのか。男は恋愛を時系列で並べるけれど女は上書きするとはよく言うが、上書きだからそれ以前の旧バージョンは全く存在がなくなってしまうのだろう。だからその相手への反応は他の単なる知らない人への反応と同じになるということだ。智子のいつもの小さな言いがかりに頭の中で瞬時にこれだけ反応する自分もやはり病気なのだと思いながら理性の俺は急いでハニーに向かった。ここは二五年前にまだデート時代に待ち合わせで私と智子がよく使ったところだ。俺の会社のある虎ノ門周辺は虎ノ門ヒルズに代表される如く再開発で大きく変貌したのだが、このあたり新橋駅前は二五年経った今も昔ながらの風情で昭和が生きている。周囲にしっかり溶け込んだ古ぼけたビルの階段を降りて裏木戸のような扉を開ける。いきなりレトロな空間が飛び込んできた。結構混んでいる。ハニーは便利喫茶だ。コーヒーを楽しむためではない、待ち合わせ、商談、打ち合わせなどなど、時には恫喝やゴリ押しなど世の中の片隅の様々な生きた場面になっている。

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