第9話

 俺は何も返事ができないでいた。いや、むしろしなかった。お前は確かにこのことを二五年忘れずにいたのだろうが、俺の方では完全に過去のことになっていた。俺とすれば昨日鎌倉に帰ったのだってお前の意思ではないかと言いたい。確かにそんな単純なことではないことはわかるけれど。

姉妹の中でどんなことが話されたのか、俺は知らない、誰も言ってくれないし聞きもしないから。聞いたら何かそれに返答が必要になる、気持ちの表明が必要になる。ドイツ人ならそういう話は明確にするだろうが、日本人は黙っていて理解するあるいは理解しているふりをしている。

結局智子は一通り気持ちを話すと吹っ切れたのかお元気でと言ってまた鎌倉へ戻って行った。俺は追わなかった。昔のことはともかくその後の二五年の積み重ねが作った今の距離は大きい。戻すにはとてつもないエネルギーと動機付けが必要、今の俺にはそれはまだない。

一方加代子は夜遅くに品川に戻ってきた、さすがに疲れが出たのだろう、そのまますぐ寝入ってしまったようだった。

次の週からわたくしと加代子の品川生活が始まった。

 何か本当に古い夫婦のようだ。別に何を特にするということもないけれど、とてもとても気持ちの落ち着く時間が続いた。加代子は一人でドイツの友人たちに手紙を書いたりしている。私はとにかく仕事をこなしながら、起こってくる様々な日常のことの処理に追われていた。

思うに智子と加代子、姉妹なのにどうしてこうも違うのだろう。それぞれに器量は十人並み以上だ。スタイルもよく似ている。智子は何かにつけて感受性がとても鋭い、だからほんの些細な一言で怒ったり喜んだり、その起伏についていけないことがしばしばある。いわゆる線の細い子と言うのだろうか体もあまり強い方ではない。ベッドの中も比較的淡白だ。何やら放っておけない人という感じだ。

加代子は理性的というか理知的だ。確かにドイツで店を切り盛りしていたのだから才覚はあるのだろう。迫力もある、ベッドの中でもその分とても情熱的だが。一人でその行動に任せても安心という感じ、男の支えが必要というタイプではない。これはたまたま両方知ってしまった男の判断だ。

加代子はそれなりにまた日本での立ち位置を見つけるのだろう。気になるのは鎌倉の方、こっちから連絡しないとなんとも行ってこない。かと言って放っておくと大変ということは今までの歴史から身に染みている。晴れた日曜日の朝電話してみた。

「おはよう」

「おはよう。まだ寝てたわ」

「起こしたか、ごめん」

「今日はいい天気だし、これからそっちへ行こうかと思うのだけど」

「あら加代子も一緒」

「いや、加代子さんはまだ片付けとかしている。俺一人」

「別にたまの休み、わざわざこっちまで来ることもないのじゃない」

「じゃお前品川まで来るか、鰻でも食べようよ」

「いやよ、そんな混んでいるところ、足が竦んでしまう。こっちでも美味しいのがある」

「わかった、ではそっちの鰻を食べに行こう、昼一緒に食わないか」

「特に今日は用事もないのでまあいいけれど」

「じゃあ話は決まった。俺はこれから東京駅へ向かう、多分一二時前には着く。だから別荘には一二時半だよ」

「わかったわ、来るなら日本橋のどら焼き持ってきてよ、あれはこっちでは手に入らない」

「了解です、けれど日本橋寄っていたら一時くらいになるよ」

「別にいいわよ急ぐこともないじゃない」

 一月ぶりぐらいで鰻屋で再会した。

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