第8話
俺は頭をガーンと殴られたようなショックでめまいがしてきた。二五年間封印してきたあの晩のことが不意に鮮明な画像でフラッシュバックしてきた、加代子の唇、加代子の胸、二五年経って、二五年ぶりに身が震える。あの後あれはずっと封印、絶対見ないで感じないで過ごしてきた。
「俺たち二五年たったのだよ、お互い。もう単なる爺さんと婆さんだわいな」
「そうよ、私は婆さん、ハンスが亡くなって、異国のドイツで、未亡人の日本人なんてそれは寂しいものよ。皆親切にはしてくれるけれどでもクリスマスの晩に一緒に過ごす人はいないわ。ハンスは本当にいい人だった。私のこと大切にしてくれた。二人で一生懸命にパン焼いたわ,朝の三時から起きて、毎日よ毎日。たまの休みはゆっくり朝寝坊していっぱい話したわ。今年の初めよ、突然疲れたとか言って朝起きてこなくなったの。そんなことこの二五年間なかった。で病院に行った時にはもう手遅れ、末期の胃ガン、あっという間に逝ってしまったわ。ドイツでは胃ガンはとても少ないので発見に手間取ったの。しばらくは腑抜け状態よ、ハンスがいなければパンは焼けないもの。あと二年仕事を続けられれば私も十分の年金をもらえるはずだったのだけれど、まあ年金が問題ではないのよ、でも問題。ほかに仕事するのも今更大変だし、実際に職はないわ。特別の技術があるわけではないから。でも知り合いの人が小学校の管理人にならないかって言ってくれたのだけれど。一人で小学校はつらい、みんな家族が迎えに来て、家族でいろいろ話がいっぱいあって。わたくしにはしゃべる人がいない。わたくし抑えられなかったの、二五年間封印したあなたのことが。それは確かにハンスは素晴らしい夫だわ、いつも私のことを一番に考えてくれるし、やさしいし気が付くし。でもやっぱりドイツ人なの、ドイツ語よ。そりゃ二五年もいたのだもの、私のドイツ語だって日常的には十分よ、意思の疎通に不便はなかったわ。でもね、時に感情は言葉にはできないこともあるのよ。その昔私がお姉さんの前であなたへの気持ちを口にできなかったように。ドイツではね、口にしたことだけが思いなの、それがつらかった。おそらくお姉さんならもっと楽に生きて行けたかもしれない、さっきみたいに。お姉さんは変わっていないは昔と、いつでもいつでもなんでも言ってのけるから。私は私はそうではない、思ったことの半分も口にできない、あとの半分は飲み込んでいる」
「まあ、それでもそれだけ言えるようになったじゃないかこの二五年間の間に」
「俺なんかいまだに智子の前で何も言えないよ。智子が人の気持ちの裏をわかるようになるなんてことは夢の夢、望むべくもない。でも俺は、それが俺の選択だから仕方がないと思っている」
「お兄さんはそれでいいかもしれない。けど私にはハンスが死んでしまってからどうしても心と心でしゃべれる人が欲しかった。この先ずっと一人かと思うと、誰もしゃべってくれない状況に孤独に耐えられなかった。だから、お姉さんはいるけれど、あなたはお姉さんの夫ではあるけれど、でも遠くからあなたを見ていられるなら少しは慰まるだろうと思ったの。それは私だってわきまえているわよ、お兄さんはお兄さんだもの。でも智子姉さんを通してあなたに触れられればと思ったの」
「加代子」
「お兄さん ダメ お兄さん」
俺は回した腕の中で泣いている加代子をいまさらながらぎゅっと抱きしめていた。今まるで昨日のことのように二五年前のあの夜のことが思い出された。戦慄な色彩と音とともにあの奥底からの燃え滾る炎、年老いても体の接触は熱い。先鋭化した触角が嗅覚が味覚が体を貫く。俺の中の悪魔がささやく。お前は今まで十分に夫と父親をやったじゃないか。確かに、美佳は独立、妻は別荘住まいで悠々自適。残った俺だけがまだ仕事、何かおかしくないか。俺には何が残る。俺の持ち物が好きなやつはたくさんいるけれど俺そのものに興味があるやつはいない。一人加代子だけが俺を見てくれる。加代子がいなかったらお前は単なるボッチ爺さんだぜ。今目の前にある物を大切にだ。
あくる日俺が仕事の間に智子が来た。
泣いている、手が震えている。
「なんなの、ずっと音信不通で帰って来るなりいきなり啓一を取りに行くなんて。
私はこの二五年間一度もこのことを忘れなかった。いつも啓一は本当は加代子が良かったのだと思っていた。でも美佳が生まれて、子供は可愛い、私美佳の子育てを一生懸命やってきたわ。あなたは私たちに何をしてくれた。
確かにお仕事頑張って、お金も十分すぎるほどに持ってきてくれた。それは感謝する、本当にたくさん感謝しています。でもあなたは私たちのこと本当に見ていたかしら。美佳が生まれて早々に、夜中に美佳が泣くから起きてしまうとか言って寝室別にしたわよね。それからずーっと、ただの一回として私のことまともに見たことある、いつも遅くに帰ってきて食べて風呂で寝てしまう。全く絵に描いたような典型的昭和親父。だから美佳は高校生まで私と同じ部屋で寝ていたわ。私たち始めはそうでなかった。あなたは私を見てくれた。変わったのはあの時から。そうよあの時、私達の結婚式の前の週末よ。その時準備があるにも関わらずあなたは外せない仕事があるとか言って顔を見せなかった。何で。一体いつから加代子とこんなことになっていたわけ。それならどうして私と結婚したのよ。私、結婚式の前の日加代子を問い詰めた。加代子は泣きながらこれは啓一さんに無理に連れて行かれたのだと言ったわ。でもおかしい、私曲がりなりにもあなたの妻になった女よ、あなたがそんなことする人でないこと誰よりよくわかっている。だから、これって加代子があなたを誘惑したのよね。加代子はそういうことをする女、でもそれに乗ったあなたを私は許せない。絶対に許さない。四半世紀て何なの、何も変わっていないじゃない、あなたたち。よくも図々しく私をのけ者にして品川の家に行けたわよね。でも、二五年も連れ添ったのよとにかく、もう他にはいないの。私には啓一しかいないの」
智子は机に突っ伏して泣いている。
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