エピローグ いつも彼女は笑っている
1
「どうして、どうしてあなたはこんなことを」
猫子は崩れ落ちたままの新山に寄り、悲しみをぶつけるように言った。彼女の目尻には涙が煌めいている。
「どうして、だと?」
その時初めて、新山の声に感情らしい感情が込められたような気がした。憤るように鼻息を荒くし、怒りに満ちた目が猫子を貫く。
「あんた、俺のことを知ってたんだろう? だったら判るはずだぜ。全ては復讐だ。俺から家族を奪ったあの男に対する復讐だ」
「それは空次郎さんのことね」
「ああ、俺はあいつに復讐するためにこの家に雇われの身として忍び込んだのさ。その頃にはもう母は死んでいたから、俺の正体があいつにばれることはなかった。いや、そもそもあいつは奪った女の家族のことなんてこれっぽっちも気にかけていなかったんだろうがな」
紅月空次郎が新山まゆを見初めたのは、今から二十年ほど前のことだった。その時すでに朱李の実母である紅月
「あいつは言葉巧みに母をたぶらかし、そして母はあいつの許へ堕ちた。ほどなくしてその不貞が父に見つかり、俺の家は崩壊したんだ。俺は当時七歳だった。あまりに突然すぎた母との別れに俺は泣いたさ。当然だろう。まだ俺は子供だったんだからな。俺が母を求めて泣くたびに、父は俺を殴ったよ。酒にまみれ、子に暴力を振るう。そんな人じゃあ決してなかったのに」
空次郎に対する憎しみを振りまきながら、新山はゆっくりと立ち上がった。
「どうやって復讐しようか、とそれだけが問題だった。ただ殺すんじゃあなく、あいつは苦しめて殺してやろうと心に誓った」
「だったらなぜ空次郎さんじゃなくて朱李さんたちを狙ったのよ。なぜ、無関係な人たちまで巻き込む必要があったのよ」
「なぜって? 今、言っただろう? 苦しめてやろうって。自分の子供たちが殺し合う、親にとっちゃこの上ない絶望じゃないか。俺はあいつに家族を奪われた。だから今度は俺があいつから家族を奪ってやろう、とそう思っただけの話さ」
「そんな……」
その新山のあまりの怨恨の深さにあてられ、私の背筋にはこれでもかというほどの悪寒が走った。彼の目には、この世の全てに向けた憎しみと敵意が入り混じっているように見えた。
「あんたの言う通り、俺はあの日記を見て、今回の計画を思いついた。元々、谷山佐夜子が朱李と無理やり結婚させられるという話は耳に挟んでいたから、これは使える、と彼女も計画に組み込んだ。彼女とこっそりと接触し、計画を練ったんだ。谷山佐夜子はそれはもう乗り気だったさ。もっとも、あの女は自分が殺されるとは思っていなかったようだが……」
「あの日記に朱李さんの写真を挟み、芽衣子さんが朱李さんに好意を寄せていたと強調する工作をしたのもあなたね」
「ああ」
新山は虚空を見上げた。その目にはいったい何が映っているのか。今、彼の中に渦巻いている感情は誰にも計ることはできないだろう。
やがて、誰に向けているかは定かではないが、新山はぽつりぽつりと語り始めた。
「『金で買えない物はない』が、あいつの口癖だったが、金で買えない物はあるんだよ。それを俺はあいつに奪われた。だから正当な対価を支払ってもらった。たったそれだけのことなのさ」
「あなたは、芽衣子さんのことをどう思っていたの?」
猫子が繰り出したこの質問は、少なからず新山の心に響いたようだった。すっと目線を下げ、もの哀しい表情で猫子を見据える。
「どうなんだろうな。あの子が俺の異父兄妹だということは最初から知っていた。知っていて、俺はあの子に罪をなすりつけ、殺そうとした……結局は、そういうことなんだろうな。だけど、あの子が俺のことを好いていたということは知らなかったよ。俺は、妹を殺す覚悟を持って復讐に臨んだ。そう思っていた。なのに……」
新山は顔を伏せて、
「あの子は、芽衣子は、笑ってたんだよ。俺がナイフを突き立てた時、芽衣子は恐怖も悲しみも少しも感じさせず、俺を見て……笑顔を見せたんだ」
矢立警部が戻ってきた。慎重な面持ちで静かに新山に歩み寄る。
「続きは署の方で伺いましょう」
そうして新山の手を取ろうとした刹那、彼は弾かれたように駆け出した。
「きゃあ」
それはあっという間の出来事だった。皆、あっけにとられ、横を通り過ぎていく新山を止められなかった。彼はそのまま机を乗り越え、正面の窓に飛び込んだのだ。
窓が激しい音を立てて割れ、すずと知世の悲鳴がそれに重なる。
「今行くぞ、芽衣子」
そう叫んで、新山は窓の外へ落ちて行った。それから三秒と経たぬ間に、鈍い音が耳に響いた。
こうして、紅月家を襲った事件は犯人の当初の思惑通り、被疑者死亡という結果をもって幕を閉じたのである。
2
雪の積もった鉄階段をゆっくり登り、真っ赤に塗られた悪趣味なドアを開ける。我らが百合川探偵事務所である。
「おはようございまーす」
「桔梗さん、おはようございます」
「きーちゃん、おはー」
猫子と芽衣子が同時に挨拶を返してきた。
「いやぁ、今日は冷えますねぇ」
「桔梗さん、ホットコーヒー飲みますか?」
「うん、お願い。あっ、ミルク多め――」
「砂糖も多めですね」
芽衣子は奇跡的に一命を取りとめることができたものの、精神的ショックは大きく、事件の発端とも言うべき空次郎の元を離れることになった。現在は学業に精を出しながら猫子の事務所に住み込み、探偵家業の手伝いをしているのだ。
「今日は新規の依頼人が来るからね。二人とも、気を引き締めて」
「ガンガンに暖房効かせてソファーで寝転がったまま言っても、説得力ないですよ」
「昨日の夜から面倒くさがってあそこを動かないんです」
「えっ、それは普通に引きます」
「こら、めーちゃん!」
「うふふ」
芽衣子はいつも笑っている。辛い記憶を隠すために笑うのだ。
二人の兄を失った芽衣子。彼女の胸には今も大きな穴が空いたままなのだろう。それがいつ、どのような形でふさがれるのかあるいは、永遠に空いたままなのかは判らない。
「はい、桔梗さん」
「ありがとう」
芽衣子からコーヒーを受け取り、口をつける。
ミルクも砂糖もたっぷり入っているはずなのに、どことなく苦く感じた。 ――了
猫子の事件簿 file2 『紅の悪魔』 館西夕木 @yuki5140
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