後編
金城くんの家に着くと、その日は珍しくお母さんがいた。
「あら、璃子ちゃん。いらっしゃい」
本当に久しぶりに会ったのでびっくりしてしばらく固まる。
「夏樹、璃子ちゃんよ。出てきなさいよ」
「加藤さん、いらっしゃい」
「出てきなさいったら、もう」
「あ、いいんです。お構いなく」
「最近はリビングにはひょっこり顔出すのよ?」
「え?そうなんですか?」
「夜勤明けに帰ってくると、待ってたりしてね」
「余計なこと言わなくていいから」
「璃子ちゃん、麦茶でいい?」
金城くんのお母さんは冷蔵庫からキンキンの麦茶を出して注いでくれた。そして、忙しそうにまた料理を始める。
「ごめんね。もうすぐ出勤時間で追われてて、ゆっくり話せないんだけど」
「お構いなく」
「またカレー?匂いで分かるよ」
「引きこもりが文句言わないの」
「引きこもりじゃねーし」
「そう呼ばれたくなきゃぼちぼち学校行きなさいよ」
金城くんはお母さんと話すとき、私が聞いたことのない言葉遣いをする。「じゃねーし」なんて言葉、私もいつも聞いていたいけど、このお母さんの特権は奪えないし、奪うものじゃない。
「よし、じゃあ私行くから。出るときまた鍵よろしくね」
いつの間にか金城くんのお母さんはカレーを作り終わってカバンを持っていた。
「送ります」
「いいよ、加藤さん」
その言葉は無視して私は玄関先までついていった。
「いつもありがとうね。璃子ちゃんが話し相手で安心だわ。あの子も意地はってるだけなのよね」
お母さんは優しく笑った。
「深い意味はないんですけど…」
「うん?」
「どうして引っ張り出さないんですか?」
お母さんは「あはっ」と声を少し上げて笑う。
「人生には時に休みも必要なのよ」
お母さんはそう言って「じゃあね〜」と明るく出て行った。金城くんのお母さんは凄い人だ。疲れているはずなのに、いつも明るく笑顔を絶やさない。金城くんの今の状況も丸ごと全部抱きしめる。強くてかっこいい大人だと思った。
キッチンから漂うカレーの匂いがツンと鼻を刺激して私のお腹はギュルギュルと鳴った。リビングに戻り、鍋を開けるとふんわりと香るスパイスの湯気。
「何て言ってたの?」
金城くんの不満そうな声が聞こえる。
「ねぇ、このカレー一緒に食べない?」
「加藤さん俺の話聞いてる?」
「ねぇ、食べようよ。出てこなくていいから。ドア越しでいいから」
「最近ほんと変だよね」
私はお皿にカレーライスを2人分よそうと、スプーンを添えてドアの前に片方コツンと置いた。
「後ろ向けばいい?」
「まぁじゃあ、そうして」
後ろを向いて待つとドアが開く音がして、少しして閉じた。振り返ると、カレーはドアの向こうに吸い込まれた。私はドアの前にドカンと座り、カレーを一口。我が家の味とはまた違う味。中辛だけど、ほんのり甘い。
「はちみつ入ってる?」
「そう?」
「ほんのり甘いじゃん」
「感じたことない」
「味覚鈍感なんじゃない?」
「意地悪だよなぁ、最近」
私は思わずクスクス笑う。
「でも最近、よく笑うようになったよね」
その優しい声に続いて、カレーを頬張る音。
「うちのお母さんは、単身赴任のお父さんが帰ってくるといつもカレー作るんだ」
「へぇ、なんで?」
「お父さんがカレー好きだから」
「あぁ、なるほど」
「我が家ではさ、カレーって特別で、愛情の表れみたいな食べ物なの」
「そしたら、うちのカレーは真逆だなぁ。ありふれたものだもん」
「でも私にとってこのカレーはありふれてないよ。だって」
「金城くんと食べてるもん」
金城くんが黙った。暫くして寄りかかっていたドアが少し開いて、私はびっくりして立ち上がる。空っぽのお皿がすっと出てくる。
「足りないです」
私は嬉しくて急いでお皿大盛りカレーライスをよそる。ドアの前に置くと、にゅっと手が出て、カレーを中へ。その手を引っ張るような野暮なことはしない。
気持ちをぐっと抑えてまたドアの前に腰掛ける。
「加藤さん、俺ね」
金城くんがそう切り出した。
「白石先生が好きだったの」
どきん。ずっと聞きたかったはずのその言葉だけど、心はトゲが刺さって痺れたように鼓動する。
「でもね、織田先生と結婚したじゃん。どうしようも出来ない白石先生のそばにいるのって辛かった。人に好きって言われるのって嬉しくて、舞い上がっちゃって、それでこうやって地獄を見てさ」
「国語科あるじゃん。あそこって放課後はガラガラになるの。そこでいつも白石先生と話してた。話してるうちに、あの人が教師としてどれだけ毎日頑張ってるかが分かった。悩んで、時に思いつめて、それでも一切それを見せずに教室では頑張ってたんだって分かった」
耳を塞ぎたくなった。でも、我慢した。
「好きって多分、その人を知りたくてたまらなくなったら、それなんだと思うんだ。で、俺はそれになって。でも織田先生ってかっこいいじゃん。あの人ずるいよ。優しくていい人で、みんな好きだもん」
「多分俺、白石先生に会うのも辛いけど、織田さんに会うのが一番辛いの」
織田さん、って言った。
「あの人、男子の体育教師じゃん。毎週体育はあるから会わずにはいられないんだよ。だからもう嫌で嫌で。何が嫌って、同性でも惚れかけるような人なんだよ」
私にとっての白石先生だ。金城くんはそこで突然黙った。
「…あ〜スッキリした。ごめん、喋りすぎちゃった。加藤さんいつも優しくて、今日もカレー食べようなんて言ってくれるからさ、つい変なこと喋っちゃった」
「食器洗うから置いといてよ」
「私も喋っていい?」
金城くんの言葉を遮るように、私はそう言った。
「何?」
「私はね、白石先生に会うのが辛いの。何が辛いかって、白石先生も同性でも惚れるような人なの。美人だし、優しいし、生徒思いで、みんな好きだし。だから会う度に息が苦しくてさ」
「え、それってさ、加藤さん、織田さんが好きなの?」
「なんでそうなるの?ばか」
「ばかって…」
「私が好きなのは金城くんだよ」
シン、とするリビング。私はかぁっと自分の体温が急上昇するのを感じた。
「…ええっと」
「お母さんの言う通りだよ。そろそろ学校こなきゃ、本当に引きこもりになっちゃうよ」
「私、あの場所で待ってるから。来るまで待ってるから」
「カレーご馳走さま」
金城くんは何も言わなかった。私はシンクにお皿を置くと、カバンを掴んで外に出た。
ふわっと雨の匂いがした。風に乗って木々の湿っぽい青い匂い。遠くの空にはまた黒雲が立ち込めていた。なんだか今日は変な天気だった。ザーザー降りかと思えば晴れ、また曇って。降られる前に帰ろうと、慌てて外階段を下る。全身が心臓になってどくどく鼓動していた。駐輪場で自転車の鍵を外したとき、左頬にぽつっと雨粒が落ちてきた。漕ぎ出して暫くすると、雨はあっという間に本降りになってしまった。私はもうどうでもよくなって全身に雨を浴びながら帰路を急いだ。冷たい雨は私の火照った身体からどんどん体温を奪っていった。
次の日の朝、ニュースで天気予報士が梅雨入り宣言をした。晴れやかな表情で一週間の雨の予報を伝える様子がなんともアンバランスでおかしかった。学校に行くと、廣田さん達が待ち構えていて、白石先生の件で質問攻めにあった。私は観念して、金城くんとのことを全て話した。三人は聞き終わると、嬉々として私に抱きついてきた。そして「一緒に頑張ろう」とか「応援してるから」とか言われた。私はそれがよく分からなくて、笑って誤魔化した。どう一緒に頑張るんだろう。どう応援されるんだろう。でももう、頭の中は金城くんで埋め尽くされて、いろんなことがどうでもよかった。何よりも金城くんに会いたかった。学校で待つと言った手前、もう家に行くことは野暮で。そのストッパーでなんだか息苦しかった。
それから一週間経っても、金城くんは来なかった。
待つ間、学校の全て、世界の全てが単調だった。廣田さん達との移動教室も、放課後のカフェも。私は学校生活をただただ消費した。白石先生とも何度か会ったけど、お互いに無言で、何も言わなかった。新しく起こったことと言えば、織田先生と初めて少しだけ話した。その日私は体育でバスケのボールが顎にぶつかって軽く脳震盪を起こした。保健室で横になって休んでいると織田先生が湿布を貰いに保健室にきた。どうやらぎっくり腰をやったらしく、歩くのも辛そうによろよろとしていた。
「クラスどこ?」
いきなり声をかけられた時は驚いた。
「2年D組です」
「お、あのさ、金城くんって学校来た?」
待ってましたと言わんばかりの切り返し。
「いえ、まだ」
「そっか〜。そっかそっか」
それから織田先生は保健の先生に湿布を貼ってもらいながらこう漏らした。
「若さって時に暴力だよなぁ」
「あら、どうして?」
保健の先生が尋ねる。
「今の子達って、結構大人びてるけどさ、たまにすごく純粋な反応をされるの。こっちも予想外に傷つけちゃったりね。大人はすごく些細なことで子供を傷つけちゃうって言うの、わかってはいたつもりだけどさあ。俺もいつからかすっかり大人側ってことだよな」
確か、織田先生も白石先生も若い。まだ三十行くか行かないかの年齢だ。
「俺はね、このまま生徒の未来を奪ってしまうのかと思うと怖いよ」
明らかに、金城くんのことを言っていた。少なくとも私にはそう聞こえた。
「俺、金城くんについての相談を受けてたんですよ。去年ずっと。白石先生はずっと金城くんをもっと明るくてクラスに馴染んだ子にしようとして頑張ってたのに」
なんか、押し付けがましい。
「そんなの本人の自由なんだけどさ。あの人は正義感強い方っていうか、俺よりもずっと生徒思いで頑張り屋さんで」
「だけどその金城くんが今不登校だろ?難しいよなぁ色々と本当に」
織田先生が腰を押さえながらうなだれると、保健の先生はぽんっと肩を叩いて励ました。織田先生はヘラっと笑って「なんかすいません」と言った。金城くんの言った通りの人だなって思った。すごくいい人で、白石先生は絶対に幸せだろうなって思った。二人の仲に金城くんの入る隙は無かった。
「織田先生ってかっこいい」
私は不意にそう呟いた。
「え?褒めても何も出ないよ?」
少年のように笑った織田先生の顔は可愛かった。
今年の梅雨は短かったみたいで、金城くんを待つ間に開けていた。空に快晴が戻ってから、私はお昼の時間に渡り廊下で金城くんを待ち始めた。約束通りに待ち始めた。
また三日が過ぎていた。
その日も柵の間から足を出して、お弁当を広げた。廣田さん達と食べるお弁当も好きだったけど、やっぱりこの場所で食べるお弁当は一味も二味も違う。毎日廣田さんにつまみ食いされていた卵焼きもここだと独り占めだ。
私はいつまで金城くんをこうやって待つのだろう。もう、私には何もできない。金城くんのことはわかったようでいたけれど、ここ一月で何も分からなくなっていた。そして同時に裏切られたような気分にすらなっていた。私はこんなに好きだったのに、金城くんにとって私は大した存在ではなかったのかもしれない。私が何を言っても金城くんには響かないのかもしれない。
頬張った卵焼きが甘かった。じわっと涙が滲んで、止まらなくなった。やっぱり、一人ぼっちは悲しい。一人ぼっちではこの場所も意味がない。
「加藤さん」
声と共に、ざあっと風が吹いた。振り返ると、金城くんが立っていた。パリッとアイロンのかかった半袖のシャツを黒いズボンに入れてベルトをして、長かった前髪は綺麗に切られて眉毛の上。顔は少し痩せていた。
「泣いてるの?」
私は何振り構わず金城くんに抱きついた。金城くんは後ろに尻餅をついて「痛っ」と声をあげた。抱きついた首筋が汗ばんでいた。細い体にしがみつくようにして私は肩に顔をすり寄せてひたすら泣いた。
「参ったなぁ…」
金城くんのそう漏らした息の臭いが懐かしかった。本物だって思った。私の会いたくて堪らなかった少年がここにいる。そう思ったら涙がどんどん溢れ出た。
私が泣き止むまで金城くんは体を強張らせてじっと待っていた。
遠くで昼休みが終わるチャイムが響いた。
「授業どうする?」
中庭に響いていた生徒の声が止み、あたりはシンとした。私は顔をあげて金城くんを見上げた。金城くんも私を見る。
「遅かったね」
「だって、雨が降ってたでしょ。雨が止むまで待ってたんだよ」
「三日前には止んでた」
「念のため、梅雨明け宣言まで待ったの」
「そんなに雨嫌いだっけ」
「癖っ毛だから、梅雨は敵なんだよ」
金城くんは顔を歪めて視線をそらす。そして私を体から引き剥がし、隣に座らせた。私は顔にこびりついた涙のあとを指の腹でゴシゴシと擦りながら、うつむいた。私たちは二人ぼっちだった。
「加藤さん」
顔を上げると金城くんは空を見上げていた。そして見上げたまま、
「ありがとね」
と言った。私はそれを聞いて、細い首を動く喉仏めがけて、また抱きついた。
終
二人ぼっち ザキコ @zakikoworks0122
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