公爵令嬢は異世界の妖獣使い

松平 眞之

第1話 出でよ偉大なる黒龍よ我が眼前に


 大量の虫達が私を取り囲んでいる。

 或る奴は這い、また或る奴は飛び回っている。

 数千か、数万か、否、数十万居るかも知れない。

 此処にも、そして其処にも、数え切れないほどの虫が蠢いている。

 ゴキブリは無論のこと、飛蝗(ばった)に蝗(いなご)、或いは

百足(むかで)に蟷螂(かまきり)、羽ばたく毎に粉を振り撒く蛾

など、人に忌み嫌われる奴らが群れを為し、私の視界を埋め尽くす。

 奴らはじわじわ、じわじわ、と、にじり寄ってくる。

 こちらの方へ、こちらの方へ、と。

 この虫達は妖獣に従う僕(しもべ)に過ぎない。

 ほどなく妖獣が現れる筈。

 まったくこんなことなら、執事のリヒャルトに妖獣使いの術など

教わるんじゃなかった。

 後悔先に立たずとは正にこんな時にこそ使うべき諺だ。

 またおいでなすった。

 と、口にするより早くベッドの天蓋に巻き付くおぞましい大蛇。

 このところ九月二十七日を境に、私の前には嫌というほどの妖獣

が現れた。

 この大蛇の妖獣こそ初めてお目にかかるけど、三日前は蠍(さそ

り)、五日前は蜥蜴(とかげ)の妖獣が現れた。

 やはりこれは渡米する前に残したリヒャルトの言葉通り、魔界や

霊界と言った異世界との結界が崩れ始めた証拠だ。

 ユダヤ系ドイツ人であったリヒャルト。

 彼は五年前の昭和十年八月に親戚を頼ってこの東京にやって来た。

 ドイツに於いてニュルンベルク法と言う反ユダヤ法が発布された

のが昭和十年の九月だから、ぎりぎりのところでドイツを抜け出し

たことになる。

 私のところに来たのがその年の暮れだから、実に五年もの間この

橘和公爵家(きつわこうしゃくけ)に居たことになる。

 日本とドイツとイタリアが三国同盟を締結したのが今年の九月二

十七日で、彼が米国の親戚を頼って渡米したのが八月で、これもま

たぎりぎりのタイミングでナチスドイツの同盟国となった日本から

去ったことになる。

 なんとも神憑っている、と、言うか。

 異世界憑っている、と、言うか。

 今からするとリヒャルトは私に妖獣使いの術を教える為に、この

家に来たようなものだ。

 などと考えているうちに大蛇がこちらに向かって牙を剥いた。

 致し方ない始末するまで。

 ベッドの上に横になったままで呪文を唱える。

              ‐1‐





「イッヒ・ホッフェ。

 我は望む。

 カム・ション・シュバルツ・ドラッへ。

 出でよ偉大なる黒龍よ我が眼前に」

 と、おぞましい大蛇が私の首筋に噛み付こうとした刹那、私のダ

イヤモンドの首飾りの中から飛び出した黒龍が無数の虫達を始め、

妖獣の大蛇も丸呑みにした。

 ほっと一息吐いたのも束の間次の刹那私はベッドの天蓋の絹の飾

りを巻き取ろうと飛び起きたが、時既に遅く私のお気に入りのそれ

を黒龍の口から吐いた炎が一瞬で焼き尽くしてしまった。

「もう、せっかく褒めてあげようとしたのに」

 黒龍が申し訳なさそうに首を項垂れていると、遠くから呪文を唱

える男の声がした。

 声は聴き知った男のもの。

 やはり彼だ。

 彼もまた妖獣と同様に結界を破り米国から飛んで戻って来たのだ。

 すると彼の呪文が効いたのか、勢い良く黒龍が私の胸のダイヤモ

ンドの首飾りの中へ舞い戻った。

 振り返ればリヒャルトが居た。

「鞠江お嬢様お怪我はございませんか?」





















              ‐2‐

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