最終話

 夏休みが八月に入って受験勉強も本格化した頃、ヒカルから俺と里衣奈に、今喫茶店にいるんだけどこれないかと言うメールがきた。外で落ち合おうなんて珍しいなと思った。だいたいは、お互いの家のチャイムを鳴らす。

 その時俺は、里衣奈と二人で図書館で勉強していた。時間が午後三時くらいで、休憩にちょうどよかったので俺たちは喫茶店に向かった。

 喫茶店に入ると、ヒカルが席に座って手を振っていた。その時俺は、ものすごい違和感を感じた。だが、それがなんのせいなのかわからなかった。

 俺と里衣奈はヒカルの向かいに座った。俺がアイスコーヒーを頼んで、里衣奈がアイスティーを頼んだ。二品がきてから、ヒカルが話し始めた。相変わらず、違和感を感じていた。

「忙しいところをごめん、二人とも」

 さらに違和感が増した。

「かまわないが、どうした? なにかあったのか?」

 杜下とのごたごたみたいなものはなかったはずだが。

「ねえ、光くん。それ、可愛いワンピースだね」

 俺の言葉を遮るように、里衣奈が言った。

「あ、うん、あ、ありがとう……」

 ヒカルが顔を赤くした。

 それで俺は、ようやく違和感の正体に気がついた。

 ヒカルは今、白いワンピースを着ている。つまり下はスカートだ。いや、ワンピースの下部をスカートと言うのかどうかは知らないが、とにかくスカートだ。女の格好だ。

「……えっ? なんで女の服なんか着てるんだ?」

「智」

 里衣奈が俺の袖を引っ張った。黙れと言うことらしい。

「あの、また病院に行ってきたんだけど」

 隣県にある、性同一性障害や、その他デリケートな性的な問題を扱っているところだ。

「それで……結論から言うと、俺は性同一性障害じゃないってわかって……」

「えっ?」

 俺は思わず身を乗り出してしまった。

「俺のは、トランスヴェスタイトって言うんだって」

 なんだそれは。全然聞いたことがない。いや、前に性同一性障害の本を読んだ時、そんな単語もあったような気がする。意味は思い出せない。

「異性装って言って、俺の場合だと、女の格好をしてるのに違和感を感じて、男の格好をしてると気持ちが落ち着くんだ」

 俺は、必死にヒカルの言うことを理解しようとした。だが、わからない。

「……悪い……それは、性同一性障害とはどう違うんだ?」

 ヒカルは、まっすぐに俺の目を見つめた。

「つまり、俺は、女なんだ」

 ヒカルのその言葉は、ものすごい衝撃で俺を打ちのめした。たぶん俺は、この時即座にヒカルの言うことを理解していたと思う。だが、俺の感情が理解を拒んだ。

「だから……光くんは、心も体も女の子ってことだよね?」

「そう。どうしても男装したくなる時があるって言う、女」

 二人の女が話しているのを聞いて、俺は理解するしかなかった。

 女。女か。俺なんかよりはるかに男らしいヒカルは、女なんだ。

「そうか……ヒカルは、女なのか……」

「だから、そう言ってるだろ?」

 ヒカルが笑った。だが、すぐに表情を引き締めた。

「それで、改めて二人に話があるんだ。どうか、聞いてほしい」

 ヒカルは、里衣奈に向かって頭を下げた。

「里衣奈ちゃん。本当にごめん」

「いいよ」

 里衣奈が微笑んだ。すごく優しい笑みだった。なにもかも、わかっていると言うかのような。

 ヒカルが俺の方を向いた。緊張のあまり、青ざめていた。

「トモ。俺は、トモのことが好きだ。俺と付き合ってほしい」

「……な……ん……」

 俺は、あまりにも男らしいヒカルの告白に、絶句した。

「なんで……ヒカルが……俺なんかのことを……」

「俺は女だ。なんでもなにも、当然俺の恋愛対象は男なんだ。それで、俺が知ってる最高の男が、トモなんだ。だから、好きなんだ。……それから、俺なんかとか言うな。里衣奈ちゃんにも失礼だろ」

 俺はヒカルの勢いに気圧されたが、言わなくてはいけないことを言わなくてはいけない。

「……ヒカル。俺は今里衣奈と付き合っている。だから……」

「智、駄目。答えを急がないで」

 里衣奈が強い調子で遮った。

「だが……」

「お願い。ゆっくり考えて。あたしはね、智の気持ちを尊重する。あたしと付き合い続けてくれるなら、もっともっと愛してあげる。でも、光くんのところに行くのなら、あたしはそれを祝福するわ。もし友達でいられたら、ずっとずっと応援してあげる」

 俺は呆然とした。

「……里衣奈。自分がなにを言っているのかわかっているのか?」

「もちろんよ。あたしは智の恋を成就させるの。たとえ相手が、あたしでなくても」

 俺は額に手を当ててうつむいた。なんだって俺の周りには、こんな最高な女の子がいるんだろう。しかも二人もだ。どうしたら、どちらか一人を選べるんだ。俺なんかに、そんな資格があるのか?

 ……あれ? おかしいぞ。ヒカルの話にはつじつまが合わないところがある。

「いやちょっと待て、ヒカル。その、自分が女だって気がついたのは、この夏休みに病院に行ってからだろう?」

「うん、まあ確定したのはな」

「それから一週間くらいで、なんで俺のことが好きだとか言えるんだ?」

「あ……それは、だから……」

 ヒカルが頬を染めた。

「も、杜下に振られたあとくらいから、好きだった……」

「えっ?」

 俺は眉をひそめた。

「一年くらい前だぞ。その頃はヒカルはまだ自分のことを男だと思っていたんだろう」

 それに、結末はともかく、女の杜下とずいぶん仲よく付き合っていたが。

「そ、そうだよ! だから、お、俺だって悩んだんだ! なんで俺が男を好きになるんだろうって! 俺はゲイなのかなって! でも、どんなに考えても考え抜いても、間違いなかったんだ! 俺は、本気でトモが好きなんだ!」

 俺はのけ反った。逆ギレか。

 里衣奈が俺の頭をこつんと叩いた。

「智。光くんをいじめちゃ駄目」

 別にいじめてない。

「……でも、ねえ、光くん。本当に、智のことを好きになったのはその頃からなの?」

 里衣奈は、なにか少し意地の悪そうな微笑みを浮かべて言った。ヒカルが真っ赤になった。

「え……あ、あの……」

「ごめん。ちょっと意地悪言っちゃった。ねえ智、もう光くんの言うことを疑ったりしてないよね?」

「ああ……まあ、誤解のしようもないな……」

 だが、俺がどうしたらいいのかは相変わらずまるでわからなかった。

「……じゃあ、俺は先に出てる。ゆっくり話し合って、答えが出たらきてほしい」

「どこに行くんだ?」

 俺は立ち上がったヒカルに聞いた。

「俺たちの家の近くの公園にいるよ」

 ヒカルは自分の分の代金を置いて出ていった。

 俺は今度は天井を仰ぎ見た。

「ヒカルはけっこうずるいな……」

「なにが?」

「さっき言ってた公園、俺たちの子供の頃の思い出が詰まりすぎてるんだ」

「ああ……光くん本気だね」

 里衣奈が笑った。

「でもそれだけ悩むってことは、かなり光くんのことを考えてるってことだよね?」

 あんまり見透かさないでほしい。一年の付き合いがあるんだからあたりまえか。

 どうやったら答えが見つかるんだ? 俺はもう自棄になった。そして里衣奈にろくでもないことを言った。

「里衣奈。俺は里衣奈とキスしたい。今、ここで」

「どうぞ」

 里衣奈が当然のように目を閉じた。

 俺は里衣奈にキスをした。しっかり背中を抱きしめた。店中の視線などかまいはしない。俺は今、たった一人愛した女とキスをしている。

 俺は里衣奈から体を離した。

「……光くんのところ、行ってくる?」

「ああ。また戻る」

「うん。待ってる」

 俺は喫茶店を出て、公園に向かった。

 児童公園では、ワンピースのヒカルが低すぎるブランコに乗っていた。子供の頃の記憶からすると、えらくシュールな風景だった。中学生になるまで、ヒカルはスカートを履いたことがなかったはずだ。

「……答えは出たか?」

 俺に気づいたヒカルが言った。俺はヒカルの正面に立った。

「まだだ。蹴られる覚悟はあるが、頼みを聞いてほしい」

「なんだ?」

 俺は本当に最低だった。

「俺とキスしてくれ」

 ヒカルがブランコから腰を上げた。

「いいぞ」

 ヒカルは目を閉じていた。

 俺はヒカルを抱きしめてキスをした。ヒカルも俺に抱きついてきた。

 永遠のような一瞬の中で、俺は心の奥底でとっくに消えてしまったはずのものが、再び浮かび上がってくるのを感じた。

 ヒカルの方から離れた。

「……ああ、くそっ」

 ヒカルが吐き捨てるようにつぶやいた。

「なんだ?」

「こんなことなら、杜下なんかにファーストキスをやるんじゃなかった」

「あれは最低だったな」

 ヒカルが笑った。俺も笑った。

「俺は、もう一度里衣奈のところに行ってくる」

「うん。……あの、戻ってくるのか……?」

「ああ。必ず戻る」

「わかった。待ってるよ」

 俺は、元きた道を全速力で走った。

 喫茶店の前に、里衣奈は立っていた。

「悪い、待たせた……」

 呼吸を整えようとしたが、心臓が苦しいのは走ってきたせいだけじゃなかった。

「そんなに待ってないよ。それで、光くんとのキスの方がときめいちゃった?」

 まったく。なんだって里衣奈は、こんな時にも優しい笑顔をしているんだろう。

「……ああ」

「うん、わかった。お幸せにね」

 またにっこりと笑った。

 それで俺は、やっと理解した。里衣奈は俺に、俺の気持ちを尊重すると言ってくれた。だが、俺を引き留めようとはしなかった。もっと愛してくれるとは言ってくれたが。

「……そうか。つまり俺は、とっくに里衣奈に振られてたんだな」

 また里衣奈が笑顔を見せた。もう一度抱きしめたくなるくらいだった。

「……ねえ。最後にもう一つだけ、いいかな」

「ああ」

「あたしがあっさり身を引くのがどうしてだかわかる?」

「……」

「それはね、智と光く……ちゃんの恋が、あたしの理想だからなの」

「理想?」

 里衣奈は微笑んだ。

「そう、理想。ほとんど産まれた時から一緒で、仲よく遊ぶ友達で、保育園も幼稚園も小学校も中学校も、それから高校も同じ。ずっと友達で、ずっとずっと好き合ってた。ねえ、これって奇跡みたいなものだと思わない?」

 家が近いから、小中が一緒なのはともかく、高校まで一緒になったのは……まあ、幸運だったと言えなくはない。同じ高校を目指して一緒に勉強をしたりもしていた。

「……いや、だが、俺たちは子供の頃から好きだったわけじゃない」

「本当に、そう?」

 里衣奈がいたずらっぽく笑った。

「だからね。あたしはあたしの理想の恋を絶対に守るの。あたし自身がそれを邪魔するなんて、あたしが許さない」

 俺は二度目の失恋をしているような気持ちになった。

 里衣奈は背伸びをして俺に軽くキスをした。これは尾を引きそうだなと思った。

「じゃあね、。バイバイ」

「ああ……。さよなら」

 三咲は俺に背を向けて歩き出した。その背中が見えなくなるまで、俺はその場に立ち尽くしていた。俺は少しだけ、涙をこぼした。

 俺は荒い息で、公園に戻った。

「……遅い。里衣奈ちゃんのところに行くのかと心配になってた」

 ヒカルがむくれていて、俺はそのあまりの似合わなさに笑った。

「それにしては自信があったみたいだな?」

「そんなことない。里衣奈ちゃんは強敵だ」

「俺は三咲と別れた。いや、振られたんだな」

「振られた?」

「それはいい。ヒカル。俺は、ヒカルのことが好きだ。俺と付き合ってほしい」

 ヒカルが真っ赤になった。それと同時に、怒りだした。

「それ、俺の告白のパクリだろ!!」

「気の利いたセリフが思い付かなかった。それで、返事は聞かせてもらえないのか?」

「あ、え、そ、そんなのもちろん……は、はい……」

「ありがとう。俺は今、最高に幸せだ」

 俺は体を屈めて、ブランコに座ったヒカルにキスした。

「……これか」

 うっとりした表情を浮かべながら、ヒカルが言った。

「なにが?」

「里衣奈ちゃんの話だと、トモはけっこう気障なセリフを言うって」

「今のが気障なのか?」

 俺にはよくわからない。

「あ、頭をなでてくれよ!」

「なんだいきなり」

「だって、トモがなでてくれるのは最高だって、里衣奈ちゃんが言ってた」

「ああ……」

 確かに、そんなことを言ってた。

 俺はヒカルの頭をなでた。ヒカルは気持ちよさそうに目を細めた。

 それから俺はヒカルの隣のブランコに腰かけた。それで、三咲が言っていたことを思い出した。

「そうか……くそ」

 俺は思わずつぶやいた。

「なんだ?」

「俺は三咲に嘘をついていた。もっとも、三咲は気づいていたが」

「だからなんだよ?」

「俺は三咲と付き合う時に、三咲が俺の初恋の相手だって言ったんだ」

「……ああうん、それかなり気障だからな?」

「それはいい。……俺の本当の初恋の相手は、ヒカルだった。このブランコを漕いでいた頃から、俺はヒカルのことがずっと好きだったんだ」

 しばらく無言で、二人でブランコを漕いでいた。

「……そんなの、とっくに知ってた」

「え?」

 ヒカルがつぶやいて、俺はヒカルを見た。ヒカルは、地面を見ていた。

「自分が好きなやつの気持ちなんて、わかってた」

 未だによくわからない俺はどうなんだろうな。……えっ?

「ヒカルも、俺が初恋だったのか?」

「あたりまえだろ! 言わせんな、恥ずかしい!」

 もう十分に恥ずかしいセリフを言い合っていたと思うが。

 なるほど、理想の恋か。だが、この先には大学、就職と、離れ離れになるかもしれないことはいくらでもある。

 だが俺は、もうどうとでもなると思っていた。俺たちは十八年もかけて、やっとお互いを好きであることを認め合うことできた。それならきっと、この先十八年くらいは一緒にいるだろう。三十六歳にもなれば、結婚しているに違いない。

「……トモ」

 ヒカルに呼ばれて、俺はヒカルの方を向いた。

「なんだ?」

「俺、さらしをやめようかと思うんだけど」

 そう言えば今日はさらしをしていないようだ。ブラジャーを着けているんだろう。胸の膨らみがわかる。しかしワンピースと言いブラジャーと言い、よく持ってたな。ああ、下着は三咲と坂上さんと一緒に買いに行ったんだったか。

「なんで?」

「苦しいし、汗もはひどいし……」

「肌に悪いんならやめたらどうだ?」

「でもあの……学ランの胸が膨らんでたら、変だよな……」

「周りの視線が気になるのか?」

 今さらな気もするが。

「……じゃなくて、トモが……」

「俺? いや、俺は気にしない」

「……でも俺、トモの彼女なのに……」

「え、女子の制服に戻すって言うのか?」

「あ、できれば学ランでいたいんだけど」

「それなら、ヒカルの思うとおりでいい」

「あの、でも……キスする時とか、学ラン同士だと変に見られないか……?」

 俺は仰天した。

「いや待て、学校でキスするのが前提なのか!?」

「しないのか?」

「しない!」

 俺は声を張り上げた。しかも誰かに見られるのも前提か! ヒカルが残念そうだった。勘弁してほしい。

「……じゃあ、里衣奈ちゃんとはどこでキスしてたんだ?」

「ああ……」

 まあ、もうそんなことはどうでもいいだろう。

「忘れた」

「嘘つけ!」

「それよりヒカル」

 俺は話を逸らした。

「これから俺と付き合うってことは、キスの先もあるってことなんだが、そのへんはわかってるのか?」

「ええっ!? あの、いや、そ、それももちろん……」

 ヒカルがまた真っ赤になっていた。全然考えてなかったらしい。

「……いやちょっと待て。まさかトモ、里衣奈ちゃんと!?」

 まずい。藪蛇だった。

「さて、帰るか」

「トモ! てめえ! ふざけんな!」

 ヒカルが俺の腰につかまって引き留めようとしたが、この場合は単純な体重差なので、俺が勝つ。技をかけられるとまずいが。まあワンピースだから、得意のハイキックはない。いや、ヒカルならやるかもしれない。その場合は俺から話を聞き出せなくなる。失神するだろうから。

「こら、トモ! 白状しろ!」

「ああ、そうだ」

 俺が立ち止まったので、ヒカルが俺の背中にぶつかった。

「なっ、なんだ! 言う気になったか!」

「いや。頼むから、あの水着は捨ててくれ。俺が新しいのを買ってやる」

「水着?」

 ヒカルが首を傾げていた。

「杜下が選んだとか言うえらく布面積の小さいビキニだ。ヒカルのあんな姿を、他の男には絶対見せたくない」

「あーあれか……まあ言われなくても着ないけど。え、そんなに嫌なのか?」

「あたりまえだ。俺の告白にはいと言ってから、ヒカルのなにもかもが俺のものだ」

「うわ、彼女のこと俺のものとかサイテー」

 だが、ヒカルは嬉しそうだった。

「そうだ。だがその代わりに、俺のなにもかも全部を、ヒカルにやる」

 ヒカルがにやっと笑った。

「それは公正な取引ってやつだな」

「俺の取り分が多すぎる気もするが」

「全然そんなことない」

 ヒカルが俺の腕に絡みついて、手をしっかり握ってきた。恋人つなぎと言うやつだ。えらく自然にやってきたな……。ああ、杜下か。いや、そんなことよりDカップの胸が。

「なあ、トモ」

「ああ」

「トモの全部って、一生分の時間も入ってるのか?」

「もちろん。なんなら今すぐ書類にサインする」

「それって茶色の用紙?」

「ああ。色は様々らしいが」

「トモってもう十八になってたっけ?」

「おい、俺の誕生日を忘れたのか?」

「覚えてるって。未成年だと親の同意がいるよな」

「ああ。おじさんが認めてくれるかどうかだな……」

 それで俺は、俺たちの親から言われたことを思い出した。とっくの昔に、俺たちの気持ちなんてお見通しだったと言うことか。三咲といい、まったく。いや、俺たちがにぶすぎてえらく遠回りをしていただけか。

「トモ以外の誰が貰ってくれるって言うんだ、こんな俺女」

「中三の時だって、スカート履いて俺俺言っててもすさまじくもててたじゃないか。まあ女にもだが」

「いや、それは……じ、実を言うとトモだってすごかったんだぞ」

「は?」

 俺はヒカル以外の女から告白されたことなんて一度もない。

「あの……お、怒るなよ?」

「約束はできないな」

「う……あ、あの、トモにって手紙とか、紹介してくれとか、俺のところにくる女の子がかなりいて……で、でも、全部俺が断っちゃった……」

「え、そうだったのか?」

「高校に入ってからも……」

「本当か? この顔だぞ」

 俺は自分のヤクザ顔を指差した。

「トモは自己評価が低すぎるんだよ。別に小綺麗な顔した男だけがもてるわけじゃない」

「へえ……まあ、どうでもいいな」

「お、怒らないのか?」

「俺は、今までに付き合いたいと思った女はヒカルと三咲しかいない」

「里衣奈ちゃん……」

 あっ、しまった。

「トモ……」

 俺は視線を下げてヒカルを見た。ものすごく心細そうな顔をしていた。

「あの、本当に、里衣奈ちゃんじゃなくてよかったのか……?」

 これだけ言ってもまだ足りないのか。だがまあいい。ヒカルが望むなら、どんな言葉でもどんなものでも、俺のありとあらゆる一切合財を、ヒカルのために捧げよう。

「後悔はしない。絶対に。俺の心には、もう三咲の入る余地はない。……三咲には、失礼なのかもしれないが」

 俺は、三咲との最後のキスも忘れた。なにもかもが、ヒカルで上書きされる。

 ヒカルはまだ泣きそうな顔をしていた。よし、わかった。いくらでも。

「俺には、世界中を探し回っても、ヒカル以外に欲しい女なんかいない」

 ヒカルがやっと微笑んだ。

「……それは、気障だな」

「ヒカルが言わせたんだ」

 ヒカルは下を向いて、握った手にきゅっと力を込めた。

「そんなに欲しいなら……これから俺の部屋にくるか……?」

 ヒカルがなにを言っているのかはわかった。だが俺は、今はこれ以上踏み込みたくなかった。

 俺の人生の優先順位は、この一時間かそこらの間に激変した。俺は俺の気持ちもヒカルの気持ちも欠片も疑っていなかったが、せめて一晩だけでも一人で考える時間が欲しかった。これが女に恥をかかせると言うことになるのかどうかは、俺にはわからなかった。

「いや。俺はヒカルと海に行きたい」

「海?」

 ヒカルは怪訝そうな顔で俺を仰ぎ見た。

「ああ。去年四人で行った海だ。俺はあそこで三咲に告白した。三咲のことが初恋だと嘘をついた。初めてのキスをした。あの海に行ってヒカルとキスしまくって、俺の心のすべてをヒカル色に染めてしまいたい」

 ヒカルがにやっと笑った。

「しまくるのか? 大勢の前で?」

「かまいはしない」

「俺色に染めてほしいって? それって普通女のセリフじゃないか?」

「男女逆になったら悪いって誰が決めたんだ」

「……エッチは?」

「絶っっっ対にしない!!」

 俺は叫んだ。今後の付き合いのために、ヒカルに確認する必要がでてきた。

「まさかとは思うが、ヒカルには露出狂の癖があるんじゃないだろうな?」

 ヒカルが顔をしかめた。

「そんなわけないだろ。ちょっと言ってみただけだよ」

 言ってみるだけでもかなり危ない気がするが。

「それで、いつ海に行くんだ?」

「明日水着を買って、明後日海に行く」

「……水着は今日買いに行こう。明日にはもう海だ」

「これから?」

「里衣奈ちゃんと水着を買いに行った店って、まだ間に合うか?  仕事の時間は?」

 俺は腕時計を見た。

「たぶん大丈夫だ。どれだけ試着するかにもよるだろうが。だが、そこでいいのか?」

「杜下好みの水着がある店がいいのか?」

「嫌だ」

 俺は即答した。

「じゃあそっちだ。他にどこで水着買えばいいのかも知らないし」

「わかった。じゃあ駅に行こう」

 手をつないだまま二人で歩き出した。歩きながら、俺は聞いた。

「ワンピースのままでいいのか?」

 駅に行く途中に家があるから、ジーンズとかに着替えたければそうしても間に合う。

「いいよ。別に気分悪くもなってないし。この次はいつになったら、女の格好でトモとデートできるかわからないしな」

「色々な意味で、今日は記念日だな」

「そうだよ。気づいてなかったのか?」

 俺は足を止めて、ヒカルのおとがいに指を引っかけて、キスをした。

「ん……」

 ヒカルが俺の首に腕を巻き付けて、さらに深くキスをした。

「ちょっ、ちょっ、兄ちゃん! 光ちゃん! なにしてるの!?」

 妹の圭子だ。俺の家の真ん前だった。

 俺たちは笑みを交わして、手をつなぎ直して走り出した。

 俺とヒカルのなにもかもが、二人で握った手の中にあった。



                                 END

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